私も含め日本人一般の処世法に「風が悪い」ことを気にする意識がある。もっとも大なり小なりよその国でもあるのだろうとは思う。日本人の場合かなり強度のものがあり、子育ての時にこれを叩き込むので、大人になってもこの意識にとらわれることになる。「風が悪い」意識そのものが悪いとは言えないかも知れない。ただし、この意識を強権化させた場合に「身内の恥をさらすな」となり、ここまで至ると問題にしなければならなくなる。
「身内の恥をさらすな」は、家庭内のごたごたを近所の人に吹聴するなと言うことではなくて、「恥」になるような議論を家庭内でもするなという論理に帰着するからである。議論が沸騰しようとしている時にマァマァマァと言いながら割って入ってくる部類の人がいて、日常の何気ない議論の時には結構重宝な人になる。このマァマァマァは、議論の仕切り直しをさせようとして介入される場合は少なく、議論そのものを打ち切らせる役目で取り持たれることが多い。時に効用があるが、政治的な見解の議論または組織の在り方をめぐっての議論などの場合には悪効用ではなかろうか、と私は思う。
世の中には曖昧にしかならない部分や曖昧にさせても良い部分とさせてはならない部分があり、人為システム的な問題についてはギリギリまで認識の摺り合わせが大事と思う。どちらが正しいという結論を権威によって導くのではなく、いろんな見方があるという異見について知らないよりは知っておく方が良い。しかる上で、協同歩調ないしは団結する道筋を設けることが必要ではないかと思う。意見と異見の充分な交差は、「統一と団結」を支える根っこの部分であり、根っこの枯れた土壌での「統一と団結」は単に旧来型の帝王学的保守的手法に他ならない、と思う。
この「風が悪い」意識は2面において現れる。「正」の面で現れれば、公序良俗の遵守または公共意識の培養になる。最低限「されて嫌なことはしない」というハードルを越したところに開花する意識であるから。この意識をもっと積極的に高めていけば、社会への奉仕・貢献精神に至るようにも思う。日本人の美徳としてこの「正」の面を強く保持してきた歴史があり、その良さは良さで相応に認識しておくことは必要と思う。
一方で、「負」の面で現れれば、「臭いものに蓋」することになる。お互いが「風」を気にする情緒性に流れ、没主体的な八方美人型の「不思議な微笑」になり、議論することは「水臭い」として退けられる。よくしたもので、この間隙をつなぐものが腹芸的な以心伝心コミニケーションであり、この手法を発達させていくことにより、「話せばわかるのではなく、話さなくてもわかる」ことになる。かのマッカーサーが驚いたことに、日本人は目と目で話をする変わった人種だと言ったとか。腹芸は良い面もあるが、「口のうまい奴には気を付けろ」意識とセットにされた場合には議論を遠ざける手法に転嫁しやすい。
日本人の心根のこうした特徴の由来を単一民族と農耕性に求める見解がある。真実はわからない。大和民族の形成過程のはるか昔よりDNAに刻印された能力であることには相違ない。こうした心根の対極にあるのは、アングロ・サクソン系の対話弁証法である。ギリシャ哲学の形成期に諸賢者が世界をどう捉えるのかをめぐってけんけん諤々したのも、アングロ・サクソン系ならではのことのように思える。聖書の論理性もこれを証左しているように思える。中国の紀元前後にも同様の論議が沸騰したようである。とすれば、漢民族もかなり対話弁証法の発達した民族であるとみなした方が良いのかもしれない。惜しむらくは政治的専制がこの能力を押さえ続けてきているように思う。インドあたりがどうなのか興味があるが私の知識が乏しい。言えることは、世界史においてなぜアングロ・サクソン系が今日の経済・政治・文化の主流になっているのかを考えたとき、対話弁証法を彼らがこよなく愛し続けてきていることにあるのではないかと思われるということである。大いに学ぶペしというのが私の持論である。
近いところのわが国の歴史において、世界もしくは社会全般に対する論議をかまびすしくしたのは、江戸幕末の頃であったように思われる。勤王派、佐幕派、公武合体派、御一新派、草葬派、民権派、攘夷派、開国派、等々が入り乱れ相互作用しつつ、武家階層のみならず百姓・町民まで口角泡を飛ばして政体を議論した実績がある。戦国武将織田信長もまたかなり理論的な能力の高い人であったというのが実際であったとか言われている。日本人精神に縄文的なものと弥生的なものが相克していることを数多くの研究者が指摘しているように、日本の歴史には正反対の傾向が交差しつつ発展を生み出しているように思える。そういう実績があるものの、傾向としては情緒に流れ議論が弱いのが日本史の主流である。その遠因には、「風が悪い」から始まり、「身内の恥をさらさず蓋をする」精神性が横たわっているように思われる。徳川三百年の歴史は世界近世史の珍事であり、日本人一般の「お上」に対する従順な精神性が補完していたものと思われる。われわれが革命的精神をたくましくして社会への奉仕・貢献・その変革にたどるプロセスの第一歩は、この「風」、「身内の恥」、「臭いものに蓋」精神との闘争から始めざるをえない。そういう意味で革命的精神には日本人的情緒との闘争が絡んでいるように思える。
今日の我々は、東西文明のそれぞれの特徴をリアルタイムで知りえる時代に遭遇している。できうれば、その両方の良さを吸収して新しい価値観を生み出すことが時代のテーマであるように思われる。「言うは易し、行なうは難し」かもしれないが、ひとたび洗礼を受けたものをなかったことにする方がもっと難しいことのように思われる。「もの言わざれば腹ふくれる業」とも云う。必要な議論はした方が良いのではなかろうか。
最後に。「議論の前に名をなのれ」の一般化は良くない。われわれがなしている議論はスポーツとか趣味の世界のことではなく、自身と家族の生活をかけた一歩間違えば解雇(戦前なら検挙・虐殺)されかねないきわどいテーマに対して議論をしているのだから、編集部の人たちも私共々も「蛮勇を奮え」は御免蒙りたい。意味がわからなければ、野坂参三氏の一部始終を考えるのが良い。まさか野坂氏一人が党内に生息していたというのではあるまい(私の議論のマナーについては目下考慮中の身であるが「三つ子の魂百まで」で直せるかなぁ)。