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「組織論・運動論」討論欄

再びN.K.さんへ

1999/11/8 澄空望、30代、会社員

 N.K.さんから再度同じ問題で投稿があります。どうも捉え方の違いがあるようですので、私も少し突っ込んで意見を述べたいと思います。

はじめに
 N.K.さんが取り上げている問題は、社会変革をめざす日本共産党(員)が「市民社会の領域」の中で活動する際の具体的な方法に関するものです。N.K.さんは、おそらく自らが見聞した事柄を具体的に示しながら、それらを「現日本共産党(中央)の方針・政策がどうかという次元よりは、より基本的なレベルのことである」(10月14日)とし、「単に『民主主義』を唱えるだけではなく、具体的な技術と方法を緻密に考えていくこと」(10月日)が必要だという意見を述べています。
 私はN.K.さんの問題意識に共感しつつも、それが党の方針や政策の次元より基本的なレベルという意見には、そのままでは同意できないと述べました。なぜ同意できないかと言えば、それらの問題は、共産主義の思想によっても党の綱領によっても正当化されない逸脱行為であるということ、また党(員)が市民社会の中で活動する具体的な方法(あり方)は、党の方針や政策と無縁ではないし党内における民主主義とも関わる問題であると私は考えているからです。

問題の捉え方
 私は先の投稿で、第一に活動の方法に無頓着な党員もいること、第二に党内における組織運営方法の制限が問題の根底にあるのではないかと述べました。これは何も運動団体に限って言ったわけではありませんし、また単に「民主主義」を唱えてよし、としているわけでもありません。それらを見直すためにも問題の所在をはっきりさせる必要があるという立場です。
 10月28日の小田さんの投稿で言われているような共産党の周りで時折みられる運動団体での「ぐるみ選挙」や自治組織における不透明な活動方法などは、(N.K.さんも述べられていますように)他の政党においては、より歪められた形で露骨に組織的に大規模に行なわれていることがらです。つまり、それは現代日本社会の民主主義のあり方(制限)そのものであるわけです。党(員)は、この社会の中で活動しているわけですから、それらの制約から完全に自由になることはできません。むしろ、大衆的前衛党を自称する共産党組織において、このような逸脱が生じてくるのは必然とさえ言えます。このことはしっかり押さえておくべきであろうと思います。また、ここで私が指摘しておきたいのは、それはあくまでも綱領からの逸脱であって、党がそれらを容認しているわけではないということです。

思想的・組織的根拠はどこに?
 N.K.さんはマルクス主義を「政治権力の奪取による社会変革を認めてきた」と理解されているようです(N.K.さん自身はそのような理解に否定的なわけですが)。政治権力である国家を奪取してから、国家権力でもって社会変革を遂行していく――このように理解するならば、党員の目的は何よりも政治権力の奪取であり、市民社会における社会変革は二次的なものとみなされることになります。もっとも日本共産党(中央)は、議会を通じて権力に達することができると考えていますから、党員の目的は何よりも議会の議席、選挙での得票ということになってしまいます。私はこういうところに、市民社会における活動方法に無頓着な活動家が発生する思想的根拠があるのではないかと考えています。
 いわゆる革命は政治革命とともに社会革命によって構成されるものです。社会革命とは、生産組織から自治組織にいたるまでの市民社会のあり方を民主主義的に変革していくことです。政治革命の役割または国家の役割はそれらを支えることであり、国家権力は社会革命に対してテコの役割をすることはあっても、それ自身が推進力となるわけではありません。社会革命は、党員も含む人民が自らの経験を通じてのみ成し遂げられるこものです。N.K.さんのいわれる「いかなる責任と透明性において」市民社会と向き合うのか……それは、将来の社会主義社会の萌芽となるような「民主主義的方法」を模索するなかで活動スタイルとして定着していくものでしょう。こういう基本的な思想を体得した活動家を増やし、党(員)の質を向上させていくという道を通じてしか、問題は解決しないと思っています。
 なおN.K.さんが少しばかり示唆しておられる「完全議会主義」という「健全な」方向性は少しも健全ではなく党の堕落を意味するものだと私は考えています。なぜなら、共産党は社会革命をめざしている、つまり(N.K.さんの言葉を借りれば)「市民社会における権力関係」の変革をめざしているのですから、生産組織であれ運動団体であれ各種の自治組織であれ、その中で働きかけ影響力を行使しなければ党としての存在意義が問われることになるからです。