前回に引き続き、私が抱いている二段階革命論への疑問について述べたいと思います。今回は革命権力の階級的性格の問題についてです。
(2)「人民の民主連合」の権力とは何か?
現行綱領は、反帝反独占の民主主義革命によって生まれる国家権力について「労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合の性格」をもつ、としています。
これに対して、社会主義的変革をおこなうのは、「社会主義建設を任務とする労働者階級の権力」であるとされ、二つの権力の階級的性格は明確に区別されています。
しかし、綱領は、社会主義建設にあたっては、勤労農民、都市勤労市民、中小企業家の利益を尊重し、これらの人びとの納得を通じて社会主義へみちびくことが重要であると述べています。
これについては不破氏も、「労働者階級だけが、国家権力に参加するということではありません」(『綱領路線の今日的発展』下巻200ページ)と述べています。当然、民主主義革命の段階に引き続き、農民や勤労市民、中小企業家も国家権力に参加するということなのでしょう。
私は、このこと自体は間違いではないと思います。しかし、それではなぜ、社会主義的変革の段階の国家権力をわざわざ「労働者階級の権力」として民主主義革命段階の国家権力と区別して規定するのでしょうか?
おそらく、労働者階級の歴史的任務である社会主義の建設をその任務とする権力だからだ、ということなのでしょう。これにたいして、いわゆる「民主主義革命」の段階の国家権力は、社会主義の建設をおこなわないから労働者階級の権力ではない、ということになるのでしょう。
私は、このような考え方は、そのものが果たす機能からその本質を規定する、いわば機能主義的な発想であり、本質論と機能論との混同であると思います。
私は、たとえ労働者階級が国家権力を奪取しても、ただちに社会主義の建設を始めることができるとは限らないし、始めなければならないわけでもないと考えています。しかし、労働者階級が社会主義の建設以前に対米従属の打破と反独占民主主義の実現という課題にとりくまなければならないとしても、それはやはり労働者階級の独裁なのではないでしょうか?
エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で述べたように、そもそも国家は「全体としてみれば」支配階級の諸要求の反映なのです。これは、非支配階級の意志がまったく国家意志に反映しないことを意味しません。部分的には非支配階級の要求もまた支配階級の根本的な利益に反しない限りにおいては、支配階級に容認され国家意志に反映させられているのです。
現在の日本においても、労働者階級の要求は支配階級の利益に根本的に反しない限りにおいて国家意志に反映しています。しかし、だからといって、現在の日本における国家権力の階級的性格を「アメリカ帝国主義と日本独占資本、および労働者階級の連合の性格をもつ」と規定することが誤りなのは明らかでしょう。
いわゆる「反帝反独占の民主主義革命」によって生まれる国家権力を「人民の民主連合」と規定することは、これと同じ誤りをおかしているような気がしてなりません。農民、勤労市民、中小企業家の諸要求は、労働者階級の根本的な利益に反しない限りにおいて国家意志に反映させられるのですから。
ただし、決定的な違いは、同じく「根本的な利益に反しない限りにおいて」といっても、労働者階級が自らを解放することによって全人類を解放するという歴史的使命を負っていることであり、労働者階級はこれらの人たちと統一戦線をくむということです。
以上のようなことを無視して、「人民の民主連合」などという概念を安易に用いることが、労働者階級の果たすべき役割の過小評価につながることはいうまでもないでしょう。私はこのことが、昨年の第22回党大会での規約改悪における「労働者階級の前衛政党」から「日本国民の党」への転換にもあらわれていると考えています。
次回は、今回述べたこととも深く関わる、二段階革命論と度はずれた議会主義との関連の問題について、私の考えていることを述べてみたいと思います。