前回は、国家権力は政治的国家と社会的=経済的国家とに二重化しており、これに対応して革命闘争も政治闘争と政治的経済闘争とに二重化せざるをえないこと、さらに後者は自然成長的に発生するが、前者は前衛党を媒介としなければ生成しえないこと、を説明した。
今回はまず、前回突然使った「政治的経済闘争」について補足しておきたい。一般に経済闘争という場合、これは「資本家にたいする反抗」(エンゲルス)のことであり、(賃金維持などを求める)個別の実際的経済闘争のことであるのに対して、政治的経済闘争とは、端的にいえば、政治的性格を帯びた経済闘争ということであり、闘争の対象は個別の資本家にとどまらず社会的=経済的国家(意志)までも含む。これに関しては、マルクスが1848年の『哲学の貧困』の中で触れている。少し長いが、直接この著作に触れるのでなければなかなか目にすることはできない箇所であるので、引用しておく。
「大産業が、たがいに一面識もない多数の人間の群を一カ所によせあつめる。競争が、彼らの利害関係において彼らを分裂させるが、しかし賃金の維持が、雇い主たちに対抗して彼等のもつこの共通な利害関係が、抵抗という一個同一の思想において、彼らを結集させる、――それが団結である。だから団結は、つねに二重の目的を有している。すなわち労働者間の競争を中止させ、そうすることによって、資本家にたいする労働者全体の競争をなしとげうるようにするという目的をもつ。たとえ最初の抵抗目的が賃金の維持にすぎなかったとしても、次に資本家のほうが抑圧という思想で結集するにつれて、最初は孤立していた諸団体が集団を形成する。そして、つねに結合している資本に対決するとき、彼らにとっては組合の維持のほうが賃金の維持よりも必要不可欠になる。……この闘争――これこそ正真正銘の内乱――においてこそ、来るべき戦闘に必要なすべての要素が結合し発展する。ひとたびこの程度に達するやいなや、組合は政治的性格を帯びるようになる。」
ここで注意しなければならないことは、「政治的性格を帯びる」といっても、これは、本来の意味での政治闘争、すなわち観念的な政治的意志をめぐっての闘いではないということである。このままでは国家意志の具体的かつ個別的な社会的・経済政策の次元での闘いを出ないのである。
なお、いま引用した部分は、プロレタリアートの階級形成の二つの局面(の一つ目)に関して書かれた箇所である。この前後をしっかりと検討すれば、「資本制的生産様式なかんずく生産諸力の発展は、必然的にプロレタリア革命をもたらす」というマルクス・エンゲルスの古典的命題が、真であることを再確認できるであろう。
ところでレーニンは、名著『何をなすべきか?』において、私が説明してきたところの政治的経済闘争と政治闘争とを、それぞれ組合主義的政治(これは「経済闘争そのものに政治性をあたえる」ことによって生みだされる)と社会民主主義的政治と呼んで、明確に区別している。レーニンによれば、組合主義的意識とは、「組合に団結し、雇い主と闘争をおこない、労働者に必要なあれこれの法律を政府に公布させるためにつとめる等々のことが必要だという確信」にすぎないのに対して、社会民主主義的意識とは、「自分たちの利害が今日の政治・社会体制全体と和解しえないように対立しているという意識」に他ならない。
プロレタリアートは全くの独力では組合主義的意識に到達することはできても、決して社会民主主義的意識=真の階級意識を獲得することはできないのである。ここに、彼らの思想的=イデオロギー的な「全面的な政治的教育」を主たる任務とする前衛党が、労働組合などの大衆組織とは相対的に独立した専門家の組織として確立されなければならない、主要な根拠の一つがある。
因みに、レーニンはいう。
「……労働者は、……社会民主主義的意識をもっていなかったし、またもっているはずもなかった。……この意識は外部からもちこむほかなかったのである。労働者階級が、まったくの独力では、組合主義的意識……しかつくりあげえないことは、すべての国の歴史の立証するところである。」
「彼ら(社会民主主義者のこと)の任務は、この組合主義的政治を社会民主主義的な政治闘争に転化すること、経済闘争が労働者のうちに生みだした政治的意識のひらめきを利用して、労働者を社会民主主義的な政治的意識まで引き上げることである。」
以上、共産党の本来の任務、正常な姿を概観してみた。翻って我が日本共産党を見てみるとどうであろうか。大多数の党員、特に若い党員にあっては、「こんな話は初めて聞いた」とか「意味がサッパリ分からない」などといった感想をもらすかもしれない。プロレタリアートの中に真の階級意識をもちこむべき党員が、真の階級意識をもっていないだけではなく、そもそも階級意識とは何かすら分かっていないのでは、お話にならない。
さらにこれによって、現在の綱領路線の誤りも明らかとなる。例えば『綱領路線の今日的発展』などでは、反帝反独占の民主主義革命路線の正しさは、その後に起こった「おしゃもじデモ」や公害反対運動などの独占資本に対する運動によって実践的に証明された、などと主張している。しかし、これらの運動が証明するのは綱領路線の正しさなどで決してなく、レーニンのいうように、自然成長的には、つまり高度な社会民主主義的な政治意識に基づいて組織された前衛党なしには、せいぜい政治的経済闘争しか起こりえない、ということである。
繰り返して述べると、放っておいたのでは、大衆の意識が社会民主主義的意識、すなわち自分たちの利害が今日の政治・社会体制全体と和解しえないように対立しているという意識にまで高まることはないのであるから、「いまはまだその時ではない」との情勢認識に従って「資本主義の枠内ので民主的改革」などにうつつを抜かしていると、永遠に革命は不可能となるのである。あらゆる機会をとらえて(経済闘争が労働者のうちに生みだした政治的意識のひらめきを利用して)、社会民主主義的意識の浸透をはかるべきである。
現在の日本共産党は、階段を一段一段あがるように着実に前進しているつもりであるが、実は組合主義的政治の段階まで階段を一段一段下っているのである。あるいはもう下りきってしまったかもしれない。やはり根本的な原因は、政治革命的観点を欠落させた党綱領自体にある、といわなければならない。