今回はアイゼンさんから疑問が出ているので、それにも答える形で論を展開したい。
まずは、政治革命と社会革命の区別と連関を再度確認しておかなければならない。『社会科学総合辞典』によると、政治革命とは国家権力が一階級ないし諸階級から、他の一階級ないし諸階級に移動することであるのに対して、社会革命とは古い経済的社会構成体をより高度の新しい経済的社会構成体にかえることである。現代革命において、社会革命に対する政治革命の先行性を主張するのがマルクス主義であるが、これは政治革命を実現した後でないと経済的社会構成体の移行(社会主義社会の建設)が不可能である、ということを意味している。
ブルジョア革命の場合はどうか。例えば、典型的なブルジョア革命として知られるフランス革命(これはもちろん政治革命)は、1789年に起こったが、この時点で既に資本主義的な経済的社会構成体への移行はかなり進展していた。このことが意味するのは、封建的な経済的社会構成体から資本主義的な経済的社会構成体への移行は、いわば自然成長的に行われたということである。以前の革命は概して、社会革命→政治革命の順であったのである。
しかし、資本主義的な経済的社会構成体から社会主義的な経済的社会構成体への移行は、プロレタリアートが国家権力を奪取しなければ、すなわちプロレタリア独裁を確立しなければ不可能である。このように社会革命に対する政治革命の先行性ということは、現代革命の特殊性であって、この特殊性を見抜いたのがマルクス学派なのである。
因みにここで用語の問題を取り上げておくと、社会主義革命という場合は、社会経済革命のことを指しているのであり、政治革命としてはプロレタリア革命というのが正しい。従って、現代日本が当面している革命は、民主主義革命でもなければ社会主義革命でもなく(両者は社会経済革命)、プロレタリア革命(これは政治革命)なのである。
これを踏まえた上で説明しなければならないのは、プロレタリア独裁についてである。プロ独に関しては一般的にかなりの誤解があるので、別の機会に詳細に論じたいが、今回の件に関しては以下で十分であろう。
現代日本において当面する革命はプロレタリア革命(=政治革命)であるが、これによって樹立される国家権力がプロ独である。プロ独の根本的・究極的な目的は、社会主義社会を建設すること(より正確には、自己を含めた一切の政治的権力を止揚し、共産主義社会を創出すること、といった方がよいかもしれない)であるが、だからといっていきなりこの課題に取りかかれるとは限らないし、また取りかからなければならないということもない。
日本においては、当面アメリカ帝国主義の支配の打破と「反独占民主主義」の実現という課題に取り組むことになるだろう。プロ独とは、端的にいえば、独自の階級的イデオロギーをもったプロレタリアートが政治を指導することである。極論すると、この本質さえもっていれば、どんな機能を果たそうが、どんな政策を行おうが、その国家権力はプロ独と呼べるのである。もちろん、ここでいう独自の階級的イデオロギー、つまりプロレタリアートの階級的利害は、資本主義制度と非和解的に対立しているものである。
以上がマルクス主義の革命論の一端であるが、日本共産党の二段階革命論は、端的にいって政治革命的視点が欠如している。あるいは、政治革命と社会革命を混同して論じている。最近は二段階革命論についての見解も揺れているようなので、ここで詳細に検討するようなことはしないが、権力論的に述べるならば、民主主義革命という段階を設定することは、革命権力の本質を機能的かつ政策次元において実体的に把握することを意味している。これこそレーニンの負の遺産であって、スターリンによって全面的に受け継がれた機能主義的傾向である。ともかく、日本共産党の二段階革命論は、権力の本質についての理論、マルクス主義権力論が欠けているが故の誤謬である。
次回は、できることなら、プロレタリア独裁について、権力一般論を踏まえて論じていきたい。