やや月日が経ってしまいましたが、遅れ馳せながら感想を書きます。
吉野傍さんのこの投稿の内容第一は、「改革」は「革命」とは異なる、そのような言いかえが可能なら、かつて構造改革論を革命論の放棄として批判したことは現在においてどうなのか、という点。これは、話は簡単で、結局当時の「構造改革論」のほうが正しかった、ということなのでしょう。党中央は公式には決して認めないだろうものの、実質的には認めているという状況な訳で、これはこれで一定の「現実的な態度」なのではないでしょうか?
第二に、「現代資本主義は独占資本主義以外の何ものでもなく、独占資本の支配をなくすことは、それ自体として、資本主義の枠の――完全ではないにせよ――大きな部分的突破の意味を持っているから」資本主義の枠内の改革にはならないだろう、との指摘。これも教条的に言うなら、そして純粋論理としてはそのとおりですが、現代資本主義を「独占資本主義」とする前提自体が問題です。そもそも、いまのグローバル化の流れは独占などというものの対極にあり、市場にすべてを委ねようというものであったはず。それと、あなたの言う「独占資本(主義)」との関係は、いったいどうなっているのでしょうか? 私はかつてもいまも「独占資本(主義)」などというものは存在したことがない、という立場を採りますが、少なくとも、現代では資本主義の形態は単純な「独占」ではない、と捉えるのが一般的でしょう。百歩譲って、「独占」志向の強い資本主義が、市場に委ねる資本主義に突き崩されているのが現状だとしましょう。それで、「反独占」の立場に立つと言うなら、市場に委ねよというイデオロギー=新自由主義を一定程度支持しないといけない論理構成になってくるはずです。ところが、新自由主義にもまた反対、と言われるので訳が分からなくなってしまうのですね。
次に、ヨーロッパ諸国について、「いずれの国も独占資本主義国であり、独占資本の支配が存在し、さらには帝国主義国でさえあります」と言われてますが、「独占資本主義」なのでしょうか?「帝国主義」なのでしょうか? これらの定義はどうなってますか? どちらも同じものなのでしょうか? ヨーロッパ諸国での改革の担い手が社会民主主義であるとの認識はそのとおりでしょう。そこから、それら諸国の改革を、日本共産党が追及するモデルのように考えるのはおかしい、との論理構成ですが、だからこそ、綱領を変え、間違った現状認識としての「独占資本の支配」論を廃し、共産党自体が社会民主主義的な新しい左翼政党へと生まれ変われば、綱領における、状況認識と変革手法の矛盾も簡単に解消する訳です。現在の綱領にあるからと言って、何とかの一つ覚えよろしく「反帝・反独占の民主主義革命」を未来永劫呼号し続ける必要はないのです。民主主義的改革を不断に追求・実行する、労働者も含む市民の党でどこが悪いのでしょう?
「不破指導部は、事実上、綱領路線である二段階革命路線を放棄して、第一段階の革命を単なる『社会民主主義的』改革に解消しつつある」とのことですが、これも綱領が状況に合わなければきちんと綱領から変えて、路線変更を行なえば問題はない。「綱領が正しい」との前提から「変えるのが間違い」とするのがそもそもおかしい訳です。「革命路線」などという大時代的なものを放棄するのは、今日の社会に責任ある政党として当然のことであり、市民の立場からは大歓迎です。そこをもっともっと徹底してもらいたいというのが私の意見です。
なお、党中央の柔軟路線は現実の声の一定の反映だと思われます。それに対して、表層的なラディカリズム=左翼原理主義を対置しても、現実には基盤をもたず崩壊することは先行の数々の事例からも明らかでしょう。党の綱領に集約されているのは、「マルクス主義」の、日本共産党による時代的限界を伴った理解の反映にほかなりません。それは基本的にはコミンテルン流の「マルクス主義」理解です。そこから得られた世界観でもって世界の現状を見ているだけでいいのか? その世界観自体を疑わないでいいのか? というのが私の提起の基本なのに、そこは問題にせず、「絶対に正しい世界観」に立たないから「けしからん」というのが「反論」の中身では論議にはなりません。日本でも、共産党の内外でそうした「マルクス主義」理解の相対化は30年ぐらい前より、活発になってきました。それなりの知的蓄積もあります。それらに一切学ぶことなく、「新左翼」と変わりない原理主義的な見解を抱く方が共産党の周辺におられること自体、私には驚きでした。