鈴木宗男が外務省を支配していることが諸悪の根源であるかのように、鈴木宗男批判が高まっている。だが、自民党橋本派もほとんど味方しない中で、孤立し、きらわれている彼は本当に諸悪の根源であろうか。一方で地元のため、対露政策でのこねをもつ実行力のある政治家だということで、黙ってはいるが鈴木氏を支持する人もいる。程度の差こそあれ、利権政治は(共産党以外の)地元議員なら皆やっていること、という人もある。マスコミで「むねお」と呼び捨てにされ、吉本のタレントのそっくりさんだと云われているのを見ていると、これはいじめの対象になっている、というほうが正しいのではないかと思える。いや、本当の悪の根源から目を遠ざけるための身代わりのヤギなのではあるまいか。
この間の報道で、狭い利権政治から相対的に隔絶している外務省の特殊性もわかったが、北方4島に隣接した足寄というところだからこそ、外交問題が狭い意味の利権になった、ということは云えるだろう。だが、外務省を根本で支えている利権とは、そのような狭い利権ではない。日本の独占資本の総路線とかかわっている利権である。その暴露が必要であるように思われる。
しかし、さらに云えば、この騒動の背後に育ちつつあるあるひとつの自覚のほうが、ある意味でそれらすべてのこと以上に重要なことだと思うのである。オバサン霊が尽きない理由は、庶民の正しい政治への渇望と自分たちの無力である。それは現時点で田中真紀子氏に憑いている。だが、鈴木宗男氏のような形で悪役をつくり、人びとのいきどおりをそこに集中させようという動きの中には、人びとのいきどおりを怖れ、それをかわそうとしている国家権力の意図があるのだが、庶民はそれを見て、「あ、もしかしたら、権力はわたしたちのことを怖がってるのかな。」と感じ始めている。昔、よく聞かされた言葉に「歴史を動かすのは人民の力だ」という言葉があったが、その自覚がはじまりはじめているのである。
これも、根本的には、歴史における具体的な経験を通してしか、育っていかないものだけに、その芽ばえを見守っていく必要があると考える。