れんだいじさんの「社会党の凋落をどう見るか」(「日本共産党の理論、政策、歴史」欄に掲載)に反論させていただきます。まずは、少し長いですが、れんだいじさんの投稿から引用させていただきます。
「なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。『よりましな政府』を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ『よりましな政府』の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り『よりましな政府』にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。『よりましな政府』を本気で願うならこの政権は一歩譲って『よりましな』ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連合政権ではなかったのか。確かに共産党にお呼びはかからなかったにせよ、この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。結果的に、不破執行部はこの連合政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川政権は右と左から挟撃されることになった」。
以上の議論をまとめれば、要するに、細川連立政権は、自民党政府に代わる「よりましな政府」になりうる可能性があったにもかかわらず、共産党はセクト主義的対応に終始して、せっかくの細川内閣を見殺しにした、ということになります。しかし、はたして細川連立内閣はそのような「よりましな政府」になりうる政権だったのでしょうか?
自民党政権を倒し、野党化させたのが最大の功績だとれんだいじさんは言いますが、それ自体は功績でも何でもありません。問題は、政権を倒すことそのものではなく、どのような方向で倒すかです。自民党政権を倒して、自民党でさえできなかった悪政を実行するのだとしたら、そのような政権は「よりましな政府」どころか、「より悪い政府」でしかありません。
その点を考慮するなら、そもそも細川連立政権が何を使命として成立した政権であったかを思い出す必要があります。この政権は何よりも「政治改革政権」として出発しました。この「政治改革」を断行するという一点を除けば、基本的に自民党政治を受け継ぐということを政党間で合意した連立政権です。つまり、「政治改革」をやる以外は、基本的に自民党と同じなのですから、この政権の性格のいっさいは、この「政治改革」の中身によって規定されます。
この「政治改革」とはいったい何でしょうか? 「政治改革」は当初、リクルート汚職事件をはじめとして、戦後何度も繰り返されてきた汚職事件など政治の腐敗を一掃するということが課題でした。ところが、小沢一郎のヘゲモニーのもと、「政治改革」の意味はしだいに変質し、それはいつしか、中選挙区制を廃止して、小選挙区制を導入するということにすり変えられていきました。当時もその後も小沢自身が繰り返し主張したように、この「政治改革」の根本的目的は、政治腐敗を一掃することではなく(その名目自体は、その後も続きましたが)、戦後のぬるま湯構造を打破すること、直接的には、小選挙区制の導入によって社会党を解体して、戦後民主主義的な抵抗勢力を一掃し、次に自民党を2つに割って、保守2大政党制を実現し、この2大政党の競い合いによって、さまざまな帝国主義的改革(自衛隊の大ぴらな海外派遣や憲法改悪)を断行していくということです。
このような政治的課題は、小沢の妄想の産物ではなく、当時、日本の財界やアメリカ政府筋を中心にして、繰り返し日本の支配層に対して要請されてきたことです。この要請に対して、政府自民党は、自らの支持基盤になお根強く存在する平和主義的な志向などに制約されて、尻込みを続けてきました。小沢は当初は自民党を牛耳って、こうした改革を断行しようとしましたが、実際には現在の自民党には不可能であることを、湾岸戦争での対応などから判断するとともに、ちょうどリクルート事件などで自民党政治への批判が猛烈に起こってきたのを利用して、自民党を飛び出して新生党をつくることで、外からやることにしたのです。
このような動きにちょうど呼応するように、別の方向からやはり自民党政治に対する不満が渦巻いていました。その不満とは、自民党政治による農村保護や自営業者保護の「利益政治」に対する、都市の中上層市民の不満です。俺たちの収めている税金が、農民や自営業者や土建業者の懐をうるおすのに使われるのはごめんだ、もっと市場原理を活用し、能力のある者がアメリカ並に豊かになれるような社会にしよう、競争力のないやつ(弱者)を保護するのはもうやめよう、という声がマスコミと大企業サラリーマンなどから出てきたのです。この声を吸収して急速に成長したのが日本新党であり、その政策的中心課題は、規制緩和、公営部門の民営化、自立自助、市場開放、直接税・法人税減税、消費税増税、といった新自由主義政策です。
つまり、細川内閣とは何よりも、帝国主義改革をめざすグループと、新自由主義的改革をめざすグループとの政治的ブロックだったのです。この二つのグループこそが、細川内閣の基本姿勢を決定したし、したがってその政策も決定しました。この細川内閣が実行した主要な政策が、小選挙区制の導入と、米の輸入自由化、消費税増税(中途半端なまま倒閣しましたが)であったことは、このことを如実に示しています。
したがって、細川内閣は、自民党政治を右から改革することを目的とした政権であり、このような政権に対し共産党がきっぱりと対決姿勢をもって臨んだことは、絶対に正しかったのです。細川内閣は、左右から挟撃されたのではなく、細川内閣こそが最も右に位置する政権だったのです。
問題は、このような新保守主義政権に、あろうことか社会党が加わったことです。このような奇妙な事態は、当時における「政治改革幻想」、自民党政権でなければとにかく何でもよいという雰囲気(あの本多勝一や佐高信でさえ、自民党でなければどこでもよいと絶叫していました)、右から左までのマスコミの熱狂、などによって、そして何よりも社会党内部における右派議員の台頭によってもたらされました。社会党のこの入閣は致命的であり、社会党の崩壊をもたらしました。この内閣にいかなる幻想も持たず、きっぱりと対決した共産党は、当時は苦戦しましたが、その後世論の幻想がさめると、躍進を開始しました。当時正しかったのは誰か、今でははっきりしています。
もちろん、当時の共産党指導部は、細川内閣の階級的本質について正しく理解しておらず、「第2自民党」などという的外れな批判をしていました。細川政権は「第2自民党」などではなく、自民党を右から乗り越える帝国主義連合だったのです。以上の政局の流れと背景については、渡辺治氏の『政治改革と憲法改正』(青木書店)をお読みください。非常にすばらしい力作です。
で、その後、自民党は、野党の苦汁を味わうとともに、与党に復帰してからも、95年参院選での新進党の躍進などによってすっかり肝をつぶし、帝国主義的改革と新自由主義改革に邁進するようになりました。こうして、かつては深刻であった、自民党主流と小沢派との対立はますます小さくなり、かくして、昨年から今年にかけてついに「自自連合」(野中ー小沢連合)が成立したのです。
現在、共産党は、細川内閣時の原則的な姿勢を忘れ、そのときの社会党と同じく、新自由主義政党(当時は日本新党、現在は民主党)と組んで「よりましな政権」ができるかのような幻想を抱いています。この幻想は遅かれ早かれ打ち砕かれるでしょう。しかし、社会党のように没落してから、自らの誤りに気づいても遅いのです。ですから、今から警鐘を鳴らし、社会党の二の舞にならないよう、声を大にして訴えなければならないのです。