18日衆議院で、日本共産党提出の対案「サリン被害防止法」改正案を否決して、団体規制法案(政府提出)が通過しました。CHAさんの投稿もありましたので、オウムに対する警察等の対応などを含めて投稿します。
先日書店でアメリカ系の週刊誌(ニューズウイーク日本版だったか?)を立ち読みしたときに、日本のマスコミはオウム規制に関して誰も本音を言わないという意味の記事を読みました。他国のことは客観的に見られるのでしょうか。オウム規制に関して大きな問題がありながら、これを批判すると「泥棒にも三分の理」さえないオウム集団を結果として弁護することになることを案じて、本来なら批判されるべきものがあると考えながら誰も何も言いません。
しかし、ものごとの理非曲直だけは明らかにしておかなければならないでしょう。
まず、警察等の権力機関がオウムに対してどのような規制、対処をしてきたかということを考えてみます。警察はオウム対策として数々の別件逮捕をしました。推奨できるものではないにしても、法制上の不備があったかもしれないし、全面的に非難することもできないかもしれません。ただし、オウムの構成員がビラを配布する目的で民家のポストにビラを入れたことをもって、「住居不法侵入」で逮捕している事実があります。「ビラまき」という行為は表現する行為であり、政治活動でも行なわれることです。君が代・日の丸問題で日本共産党はどれほどのビラを日本中にまいたのでしょうか。同列に扱うつもりはありませんが、法律上の行為としては同じことです。
最近は支配層も「寛容?」になって日本共産党の政治活動や選挙活動にはそれほど露骨に権力的な弾圧をしませんが、私の学生時代にはかなりきつい弾圧、干渉がありました。ビラまきやステッカーを電柱に貼るなどの行為をしたときに、覆面パトカーで追跡され問答無用でパトカーに連れ込まれようとした例があります。選挙中にも禁止されてはいない政治活動としての署名運動のために各戸訪問をしていた党員が「個別訪問」で逮捕された例もあります。また、デモや集会を規制するために各県に「公安条例」がありますが、これも表現の自由や政治活動の自由を大きく制約するものです。安保闘争からしばらくの間は全国各地で激しい大衆闘争が展開されましたから、権力機関からの弾圧、干渉も非常に激しいものがありました。これらの歴史を経験した者として、私はオウムに対する規制の内容について非難はしないまでも、これを無条件に肯定することはできません。
しばらく前に、千葉県の女子大学生が拉致され、名古屋で発見されたというニュースが報じられました。このことを知っている人は読者の中にも少なくないと思いますが、これが結局その大学生の「狂言」であった、ということを知っている人は少ないと思います。どちらもテレビ、新聞で報じられたのですが、その量は「拉致報道」に比べて格段に「狂言報道」が少なかったのです。これが一種のフレームアップ(でっちあげ)といえるかどうかはわかりませんが、政府の団体規制法案提出と時期的には非常にタイミングのよい事件でした。結果としては、団体規制法に対する反対世論の形成には大きな圧力となったでしょう。
大逆事件などは天皇制時代のできごとですが、日本国憲法施行下においても、下山事件(1949年7月・国鉄の大量解雇発表の直後)、三鷹事件(同7月)、松川事件(同8月)というように、おそらくはフレームアップとしか理解できない事件が相次ぎました。日本共産党幹部の公職追放(レッドパージ)、朝鮮戦争勃発、警察予備隊の結成といういわゆる「逆コース」の実現にこれらのフレームアップが大きな役割を果たしたことは明らかでしょう。
国家権力とは何でしょうか。支配階級は意のままになる軍隊、警察などの暴力装置を持ち、最高裁判所の裁判官は総理大臣(自民党の総裁)が指名するのです。憲法の定める基本的人権や民主的条項は無条件で私たちを保護してくれるわけではありません。人権も民主主義も闘いとるものであり、私たちの不断の闘いなしには守ることができないものです。
各地に出没するオウムの残党にどのように対処するかという点については、現行法で対処できないとは考えられません。現行の警察力を使って厳重に対処すれば今後のオウムによる不測の事態は防ぐことができないことはないでしょう。さらに、オウムのような集団に対する地域住民の闘いを励まし、地方自治体からも援助することが必要です。もちろん自覚的な人々も積極的にこれに参加しなければなりません。
オウムを「鎮圧する」ために基本的人権や民主主義を犠牲にすることはできないというのが守るべき「原則」ではないでしょうか。
「しんぶん赤旗」を読んだ限りでは、政府案と日本共産党の対案とのおもな相違は、「サリン等を明記」したことと、「公安調査庁を警察にかえた」ところです。これはCHAさんがご指摘のように「恣意的な解釈」や拡大解釈が可能であり、日本共産党の対案であれば、基本的人権や民主主義を損なうことがないといえるようなものではありません。私は党機関に対しても言いますが、さざ波「紙上」を借りて、日本共産党の対案にも反対であるという個人的な意見を表明します。
CHAさんは「この問題への共産党の対応を一連の右傾化の一部として理解すべきかどうかは微妙です」としていますが、私はまったくこの路線上のできごとであると理解しています。現在の日本共産党の政策の根底には、議会を通じて日本社会を改造するという路線があります。つまり、選挙で1票でも多く1議席でも多く獲得しなければなりません。そして、不幸なことに、政策的な基準は次第に「どうやって選挙で躍進するか」というところに重点が移り、どのようにして社会を根本的に変革するか、どのようにしてその主体的力量を形成するかというところから大きくかけ離れてしまっています。おおづかみにいえば、「大勢のおもむくところ」(=CHAさんご指摘の「常識」)というのが政策上の最大の基準になってしまっているといっていいでしょう。このような立場を私は是々非々主義とよんでいますが、国旗・国歌問題や九条問題、東ティモール問題などに共通したものが見いだせるのはこの結果でしょう。
現代の政治状況では、日本共産党の1議席、日本共産党に投じられる1票は貴重ですから、私も支持拡大に努力はしますが、スタンスを大きく右に寄せている日本共産党の路線に批判を表明しなければ、私は私が支持拡大をした人たちに対して背信行為をしたことになります。
この政府案に対する日本共産党の正しい態度はたんなる「反対」でいいでしょう。毒々しいオウムを育んだのは、他ならぬ自民党政治によってもたらされた社会です。現代の日本社会の病理の反映でもありますから、その責はまずもって自民党政治が負うべきです。オウム対策はたんなる刑事政策上の問題ではなく、社会政策的な対応、健全な信仰者とは思えないオウム信者への対応など幅広いものがあります。このような観点を明らかにして、被害者救済の方途を政府に求めた上で、政府案に反対するだけでじゅうぶんだと私は思います。オウムのような「毒花」を生み出したのは、社会体制も含めた広い意味での政治の問題です。この最大の責任は半世紀になろうとする自民党政治にあり、これへの厳しい指弾を展開すべきです。
ブルジョア民主主義革命の時期に展開された啓蒙思想家の人権思想から学ぶべきは何でしょうか。