投稿する トップページ ヘルプ

「現状分析と対抗戦略」討論欄

小学生女児殺人事件の分析から

2004/06/21 人文学徒

まえがき

 「現状分析」として、「各論」のものがあっても良いと思っていました。特に、全国民的重大事項についてはそうのはずです。それでこんなものを書いてみました。皆さんにも、この欄へのこういう「各論」投稿をよびかけたいという思いも込めて。政治一般以上に興味深く、第一「役に立つ」と僕は思うのですが、どうでしょうか。

本論

 六月二十一日の毎日新聞にこんな記事があった。「七日に長崎県内全小中学校校長会議があって教育長がこう話した。去年の事件以来『心の教育』ということに努めあってきたが、また再び今回の事件が起こってしまい、上っ面の教育だったのではないかと反省せざるをえないと」。ちなみに「去年の事件」とは「中学一年少年の四歳男児誘拐殺害事件」であり、「今回の事件」とは、「小学生女児殺人事件」のことを指している。

 六年生女子が友達の同級生に殺された。言われるままに椅子に座った時、背後から静かに左手で目を覆われ、右手のカッターナイフで、幅深さとも十センチも首を掻き切られた。それも何度か。手にも深い傷が残り、これは、一瞬試みた抵抗の跡だろうと言われている。死体頭部には事後に何回かひどく蹴られ踏みつけられたらしい跡も残り、傍らには、柄から外れたカッターの刃が落ちていたという。

 現在の日本ではこの種の少年事件が頻発し、その度に「心の教育」などと仰々しく騒がれる。ところが、こんなスパンの、小手先の対策では対症療法にさえならず、「上っ面」もぬぐえないとは、誰もが苦笑しながら声にするというようなものだろう。一県の教育長として苦笑されるような言葉を発したわけだが、もともと一県の手に負えるようなものではないのである。時代とともに増えてきて、全国的に広がっているような重大事件の根っこは深く、広くて、しかも、以下にその一部を見るように、問題の性格はきわめて難しい。

 さて、六月二十日号の「サンデー毎日」記事中に、ある有識者の長いコメントがあった。明治大学教授・臨床心理士の三沢直子という方の、おおよそこんな概要のものだ。

 現在の六年生の心の幼稚化、成熟遅れは、約二十年前の三年生レベルに落ち込んでいる。三年生の心で難しい思春期に向っていくのだから、こんな事件は以降も続出しよう。母子カプセル、希薄な人間関係によるコミュニケーション欠如に加えて、パソコン、TVゲーム、レンタルビデオなど個室文化もこれを助長している。個室文化は、言葉のやりとりをしていても実は生の表情や声の調子が欠けているので、本来のコミュニケーションの要素がひどく不足したものである。

 ところで、このコメントの焦点は言うまでもなく小学生時期の「心の成熟遅れ」だろう。三年生から六年生にそもそも心の中の何が成熟するのか。このコメントでは、全く触れられていない。一般読者対象には難しくなるし、紙数の関係もあるのだろう。

 さてここで、この「成熟遅れ」の内容自体に、その本質に少しでも迫ってみたい。

 小学校中学年時期の心の発達、コミュニケーション欠如などに着目するとすれば、普通に発達心理学を囓った者ならすぐに、それぞれ二十世紀最大の発達心理学者に数えられているピアジェとヴィゴツキーとの「自己中心的言語」をめぐる論争を想起するだろう。初めにピアジェが七歳くらいまでの児童に見られるある現象を「自己中心的言語・思考」と名づけた。「相手への伝達という目的を持たない非社会的な言語行為、独りよがりの独語」というほどの意味だろうか。例えばこんなものだ。六歳くらいの子どもが砂場で大きなトンネルを作っているとする。壊れないような山、慎重なくり貫き目指して、予想や方向付けや計画を独り言につぶやき出しながら行為しているあの言語行為だ。そばでよく聞いていると、全く頓珍漢で、間違っていて、笑えるような言葉も混じるから独りよがりも多いと分かる。こういう「自己中心的言語」という用語に対してヴィゴツキーがある反論をした。「この現象は自己中心的なものでも非社会的なものでもなく、半分社会性をもったもの、半分大人の認識に育ってきた言語行為の自然な姿である。しゃべり言葉とは異なった内言の、大人が物事を計画、実行するときに無意識に心の中で使う言語の、半分生まれかかった形なのだ」と。なお、ここを脱しつつ立派な内言を発生させていく時期は普通八~十歳からと言われてきたものだが、昔から大人でも未成熟者も多いと言われている。

 さて、以来現在までこの自己中心的言語の論議、実験、報告などは盛んだが、この発達時期の以下ような性格が今回の事件そのものに関わってくる。「物事がまだ相手の視点でなかなか見えにくいこと(目隠しをした大人にでも、目前の紙の色による何かの指示を平気で語るというほどの)」、したがって「物事をも相手をもまだまだ主観的にしか見えないこと」、だから「『相手の立場に立って、その人の気持ちも考えよ』なんていうのはまだとてもとても!」ということなどである。こうして、これらの内容においてこそ問題の幼稚化が起こってきたと言えるのではないか。母子カプセル、個室文化、コミュニケーション不足などによって。サカキバラセイトも、やや古くはミヤザキツトムも。人が人に育ち難くなっているということで、本当に恐ろしい、なにか不気味なような現代日本である。

 さて、これだけ重大な子どもの幼稚化は、前述のように重大事件の度に警鐘を鳴らされてきたわけであるが、どう広がり、どんなに深く進行しているのか。対策以前のこんな基礎資料さえ目にしたことがない。いや、このことの的を得た全国的な歴史的推移の調査資料などはないのではないか。さらには、こういう調査の緊急性すら、本来ならこれを任務とする者たちによって押さえられたことがないのではなかったか。やる気があればできないはずはないからだ。そもそもこういうことは一体誰がやるべきなのか? 全国的・歴史的調査だから文部省関係以外には無いだろう。だから、そこにやる気がないとしか思えない。なぜなんだろうか。ご自分らの施政の基本が的を外れていたと認めることになるからなのかな。いつも考え込んでしまう。そしていつも、心の底から腹が立ってくるのだ。