6.補遺
本文では触れられませんでしたが、『回答』の「そもそも1914年8月をきっかけに、社会民主主義と共産主義とが分裂していったことは原理的な誤りか、あるいは誤解に基づく不幸な出来事であったことになります。」との一文について、2点ほど書き添えておきたいと思います。
1.
『共産党宣言』には、タイトル以外に「共産党」という言葉が出てきません。本文はすべて「共産主義者」の名で語られています。
本来、共産主義「者」の役割とは、プロレタリア階級の内にあって、その積極的な「部分」としてプロレタリア階級が政党へと発展すること、プロレタリア階級が「プロレタリア(の)独裁」を達成すること、を図っていく、というものではなかったでしょうか。
一方、「共産党宣言」から数えること66年、1914年8月の社会民主主義者と共産主義者との分裂よって初めて誕生した「共産党」は、プロレタリア階級を「代表する」存在として革命運動を積極的に担うことになります。その結果革命が勝利したとされるソ連・東欧・東アジアにおいて達成された「独裁」とは、プロレタリア階級の「代表(であるところの共産党)による独裁」*でした。
しかしそれは巧妙なすり替え、オリジナル(「プロレタリア階級(の)独裁」)の剽窃ではなかったでしょうか?
もちろん、当時の状況において「分裂」を決断した共産主義者を「誤り」とすることはできないかもしれません。しかし、現在の目から見れば、のちの「不幸な出来事」と1914年8月の「分裂」は、無縁ではなかったように思えるのです。
*ブルジョワ階級の「代表(とされる政党)による独裁」が「ブルジョワ独裁」なのではなく、たとえば参政権が多額納税者に限定され、事実上非ブルジョワ階級が政治権力から締め出されているようなあり方が「ブルジョワ(の)独裁」なのです。独裁を行うのがブルジョワ階級の「代表(とされる政党)」であろうと、プロレタリア階級の「代表(とされる政党)」であろうと、あるいは国民の「代表(とされる政党)」であろうと民族の「代表(とされる政党)」であろうと、それは「代表(とされる政党)」による独裁であって、それは言葉の狭い意味での「単なる独裁」です。
一方「ブルジョワ民主主義」においては我々は「国民」として国の政治に参加します(もちろん地方自治体においては「住民」としてですが、ここでは同じことです)。しかしその参加は「国民」としてのものであるがゆえに国の政治の場―公職の選挙等、狭い意味での―に「限定」されます。
だから「ブルジョワ民主主義」においてはたとえば、工場の門の中には民主主義はない、ということが何の矛盾もなく当たり前となるのです。我々は国家の意思決定者は民主的に選挙で選んでも、自分が働く職場の意思決定者は民主的に選挙で選びません。なぜなら後者は「国民」としての政治参加の対象外であるからです。
また、「国民」としての政治参加は、たとえば「雇用の流動化」によって利益を得る側と不利益を得る側の票が、同一の政党や同一の候補者の中で「国民」の票として同居するようなことも、何の矛盾もない当たり前のことにします。
2.
同時に、この「1914年8月の分裂」で注目すべきは、共産党が「社会民主主義」「社会民主党」から生まれたこと、しかも「社会民主党」「社会民主主義」の“破綻”によって初めて生まれたものであることではないでしょうか(ちなみに、レーニンを指導者とし、ロシア革命で主導権を握った党派の名前は「ロシア社会民主労働党」の「多数派(ボリシェビキ)」でありそれが「共産党」に改名するのはロシア革命後の1919年です)。
民主的に選挙された議会を通じ、国家に、経済においても積極的な役割(累進課税と社会保障政策による富の再配分、自由競争の制限、国内産業の保護・育成による国民経済の計画的発展等々)を担わせる―という路線が当時もっとも成功していたのがドイツでした。ドイツ社民党が第二インターで盟主的位置にあった一方で、同時に、ドイツ帝国が次第にフランスはもとよりイギリスをも経済的・軍事的に次第に凌駕し始めていたことは、きわめて象徴的です。
しかしその一方で、この路線は、「国内」の繁栄の「原資」を生み出していた広大な「海外」植民地について基本的に無関心ないし当然視するものでした。そして「国家を通じて国民(の多数を占める庶民・労働者)の正当な利益を確保する」という理念は、第1次世界大戦という「全国家規模での総力戦」を前にして「国益を確保する」ことにいともたやすく転化しました。それをひっくり返したのが「敗戦という国家の不利益は、実は国民の多数にとっては最大の利益になりうる」というレーニンの「革命的祖国敗北主義」「帝国主義戦争を革命へ」でした。
現在、「共産党はもうダメだから」という理由で「社会民主主義(政党)化するべきだ」と主張されている方々は、以上のような歴史を見落とされているのではないでしょうか。
それに、ソ連崩壊以後、我々がいま現に経験していることがむしろ、社会民主主義の崩壊に他ならないとも考えられるのです。
第2次世界大戦後の西側先進国においては程度の差こそあれ、また、それが「社会民主党」や「社会民主主義」の名のもとに行われたかは別として、「国家による競争の統制」「国家による国内産業の保護・育成」「国家による経済的利益の全国民的規模での再配分」と言った社会民主主義路線が基調となりました(そしてその国内路線のもと、北側先進国の繁栄と南側発展途上国の貧困との密接な関係はほとんど常に忘れられていました)。
日本では、この社会民主主義路線を直接的に担ったのは政党で言えば政権与党であった自民党でしたが、それと対抗関係にあった社会党・共産党も、綱領的文書の字面や党組織のあり方を別にすれば、現実には「社会民主主義」をより積極的に推進する役割を果たしこそすれ、それから大きく逸脱することはありませんでした。
こうして西側先進国では早い段階ですでに「共産党」は社会民主義の前に実質的に屈服しており、共産党政権下の各国でも、政権の崩壊や改革・開放路線の採用によって名目的にも「共産党」は社会民主主義に屈服しました。しかしその完全勝利もつかの間、西側先進国もまた、皮肉なことに社会民主主義路線の成功が頂点に達した(国内市場の飽和)がゆえにその本格的な崩壊と新自由主義路線への転換を迎えることになります。
我々は“すでに”社会民主主義を「経験している」のみならず、社会民主主義の「成功を享受してきた」のであり、そのうえで“今”社会民主主義の「破綻を経験している」とは言えないでしょうか?
これまでの「共産党」の破綻は明らかであり、また西側先進国において社会民主主義(政党)がかつて獲得した政治的・社会的・文化的面での功績は依然大きいとしても、「社会民主主義」「社会民主党」もまた、「共産党」ともどももはや「帰る」べき場所ではない、のではないでしょうか。
「左翼的高揚の新しい時代」のために―回答への応答― おわり