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「現状分析と対抗戦略」討論欄

2005年の都議選と日本共産党(下)

2005/08/12 原 仙作

(十)共産党の抱える問題とその解決策
 私は以前の投稿で、「基礎票の計算すらあてにできない時代がやってくる」(「現状分析と対抗戦略」欄2003年12月24日投稿・「日本共産党とレーニンの選挙戦術・・」)と述べたのであるが、早くもその時がやって来たのである。共産党の抱える問題は、基礎票の流出ということに集約されて現出しているのである。
 事態を打開する道は、簡単に言えば、民主党との『相関関係』(注3を参照)を打破することなのであるが、そのためには、第1に、上述した無党派層が毛嫌いする問題を解決しなければならないこと(受け皿の問題)、第2に無党派層の民主党観を転換させることである。その手法をレーニンに倣って言えば、無党派層の多数が求める民主党政権を実現し、実際に、彼らに民主党政権の何たるかを経験させることである。つまり、精選した選挙区と他の野党の当落に影響しない選挙区を除いて、当選の見込みのない小選挙区の立候補を取りやめること、全小選挙区立候補という愚かな選挙戦術を中止することである。
 共産党は「受け皿」も変えなければならないばかりでなく、その選挙戦術なども変えなければならないのである。組織と行動の、つまり、全存在の自己変革を迫られているのであり、存亡の秋である。

(十一)「インテリゲンツィアの党」の改革
 そこで、以下、現政治情勢との関係で緊急に改革(解決)すべき選挙戦術に絞って、必要なことを論じてみよう。ことのはじめに、どうしても議論しておかなければならないのは、共産党指導部が理解する人民大衆観についてである。
 無党派層の民主党観を転換させる事について、党中央は民主党批判と説得で事をなせると考えているが、それが誤っていることはレーニンの選挙戦術との違いについて述べた投稿で明らかにしたところである。この違いの根本にあるのは両者の人民大衆観の違いである。
 レーニンのそれは「生きた人民大衆」であり、不破指導部のそれは「観念としての人民大衆」である。不破指導部は説得と批判で大衆を変えられると考えているが、レーニンは説得と批判も必要だが大衆の経験が最も重要だとする。
 『大衆の経験』というベースを置くか、置かないかという相違の基礎にあるのは『実践』(=経験!)という認識と変革の契機の有無にほかならない。『実践』という認識と変革(自他の)の契機を欠いた人民大衆だから、不破指導部のそれは「観念としての人民大衆」であり、現実にあてはめればインテリゲンツィアのことである。
 日本共産党は自称「労働者階級と国民の党」と言うが、実際は「インテリゲンツィアの党」なのであり、これがこの党の最奥の秘密(注5)なのである。問わず語りに、実践で自己の依拠する社会集団を告白しているのであり、そのように理解すれば、この党中央の行状もわかりやすい。
 共産党の全存在の自己変革とは、一言で言えば、「インテリゲンツィアの党」から脱皮することであり、当面の政治課題との関係でいえば、「インテリゲンツィアの党」にふさわしい、政治の現状に対する観照的態度(傍観者的態度=全小選挙区立候補)を捨てて、政治の現状を揺さぶる選挙戦術に転換することである。すなわち、党の議席を確保しながら、一方で、民主党を政権へと押し上げる選挙戦術を採用することである。

<(注5)エンゲルスは19世紀末に、労働者階級の党を標榜しながらも弱小党派にとどまり、セクト的、教条的であったイギリスの社会民主連盟について「われわれの綱領は、イギリスの社会民主連盟の綱領とほとんど同じです。もっともわれわれの政策は非常に違うが。」(「『ザ・デイリー・クロニクル』紙特派員とのエンゲルスのインタビュー」全集22巻542ページ。拙稿「1893年のドイツ社会民主党と・・」理論・政策欄2004年12月17日の参照を乞う)と述べたことがあるが、社会についての大局的な見方が同じで、それについて表現する言葉も同じでも、実際に採る政治行動や政策などは党指導部により千差万別なのであり、そこに日本共産党中央特有の議論が生まれてくるのである。
 無党派層が毛嫌いする上述の特徴もこの「インテリゲンツィアの党」に特有なものである。フランスやイタリアの共産党が、早々と「民主集中性」を放棄したのに、日本共産党が頑強に守り続けるどころか、むしろ、統制を強化したのもその現れと言えよう。教義の独占(古来、神官、僧侶、官僚などの社会集団としてのインテリ層の役割の一つは教義の独占ということであったのだが)は、組織の独裁的支配なしには不可能だからである。
 最近のことで言えば、2中総における「党の議席の値打ちの押し出し」論という議論、国民に「党の議席の値打ち」を教えるという議論、選挙戦術も「インテリゲンツィアの党」の発想である。「党の議席の値打ち」を言説によって国民に教えるという発想もさることながら、教えれば変わるという人民大衆観にこそ、この党の本領が現れているのである。なるほど、インテリゲンツィアは議論で論破すれば、考え方を変えるであろうが、人民大衆にとって、理屈、論理的なものは処世を判断する一手段にすぎないのであり、狭い理屈だけで処世を決めることの危うさを体験的に知っているのである。>

(十二)全小選挙区立候補戦術の誤り
 全小選挙区立候補という選挙戦術が「インテリゲンツィアの党」にふさわしく、観照的で傍観者的態度であるというのは次の理由からである。まず、現在の政治情勢を全く考慮していない党勢拡大論にのみ依拠した戦術だからである。党勢拡大=政治革新の前進=人民の利益という便利な公式には政治情勢が入り込む余地がないのである。
 そのうえ、実際にも傍観者的である。現政治情勢の特徴は国民の多数派が民主党を政権に押し上げ、自民党政権を転覆させようとしていることにある。これが戦後60年の政治史における特筆すべき特徴である。歴史を振り返れば、戦前の天皇制絶対主義の下で、主権を持つことあたわず、戦後も、敗戦直後の一時期を除いて、自民党の長期政権の下に暮らしてきた国民が、自民党政権を転覆させようとしているのである。この画期的な、政治の現状変更という国民の動向に対して共産党はその促進要因になっていないという点で傍観者的なのである。
 そればかりではない。致命的な欠陥があり、基礎票流出の原因となっている問題がある。全小選挙区立候補という戦術は、客観的には、この国民の政治変化を求める動向に対してブレーキをかける政治的役割を果たしているという意味では反動的な選挙戦術でさえあることである。反動的だというのは、民主党が進歩的だからというわけではない。
 政治変革にとって、何よりも重要なことは国民の政治意識の変化ということなのであって、この変化がなければ、どんな政治改革も進まないし、どんな革新的政治スローガンも空文句に終わるからである。長期にわたる自民党政権を転覆し民主党政権を実現しようとする国民の投票行動は彼らの政治意識の変化の現れなのであって、この変化を促進するのではなく、妨害しているから反動的なのである。

(十三)民主党政権反対論の論拠について
 そこで、簡単に民主党政権に反対する議論をみておくことにしよう。その論拠の根本は民主党の基本政策が自民党と同じものであり、民主党が政権についても自民党政治が継承され、国民犠牲の政治は変わらないというものである。
 しかしながら、この論拠は民主党政権に反対する理由にはならないのである。同じ論拠で逆の結論も出せるのである。「基本政策が同じなら、政権を交代した方が良い」のである。永久政権は絶対的に腐敗するという経験則に照らしても、このように言えるのである。自民党の長期政権という日本独特の歴史事情を考慮すれば、この議論は覆しがたく、したがって、共産党は政治の変化を求めて民主党に投票する無党派層を説得できないのである。理屈の上でも、世界史的な経験の上でも、説得できなことは火を見るよりも明らかなのである。
 そのうえ、この反対論には根本的欠陥がある。それは民主党政権の性格を論じて、その評価を、民主党を政権に押し上げようとする国民の動向、願望に対する評価に無意識のうちに移し替えていることである。つまり、民主党政権と民主党を政権に押し上げようとする国民の運動を同一視しているのであり、その同一視によって、彼らの政治行動が持つ戦後政治史にもつ画期的な意義を見失っていることにある。組織された労組員などとは異なり、民主党を政権に押し上げようとする無党派層は、民主党が統御できる存在ではないのである。
 さて、同じ論拠から二つの逆の結論を引き出せるとすれば、現政治情勢の下では、どちらを採用すべきなのか、という問題である。共産党の「科学的」社会主義は前者を採っており、無党派層の多数は後者をとっている。レーニンはその選挙戦術からして後者に付くことは確実である。
 選択の余地はないのである。自民党長期政権の転覆を求める国民の意思が抗しがたい大きな流れとなっており、その転覆の結果が明らかにより反動的なものだとは言えず、かつ、共産党がその意思を説得できないとすれば、その国民の意思を実現させることに助力をし、国民の政治意識の変化を促進させることを通じて、彼らに共産党への理解を深めてもらうことである(注6)。
 共産党が参加する政権以外は政権交代の意味がないという教条に囚われなければ、簡単にわかる政治「パズル」なのであるが、共産党指導部にはどうしてもわからないようである(注7)。
 その主な理由は三つある。そのうちの二つをここで指摘し、残る一つは彼らの情勢認識の特質によるのであるが、「注10」において述べる。まず、国民の政治意識の変化についての歴史的な経験の有無である。レーニンによれば、国民の政治意識は一挙には社会主義へと進まないこと、そこへ進むためには、国情により、また、時代による相違はあろうが、中間的な政権、社会民主主義的な政権を国民が体験する必要があると主張されており、彼はそのことを経験的に知っていたのに対し、共産党中央は国民の手で大規模に繰り広げられる政治意識の変化という歴史的な経験に立ち会ったことがなく、また、その変化を実践的にリードした経験もないので理解できないのである。
 また、共産党の場合、経験の貧困(革命的大衆運動の経験の欠如)という問題のほかに、もう一つ、その理解を困難にしている歴史的な事情がある。それは「インテリゲンツィアの党」というこの党の歴史的な本質からくる。この党は「インテリゲンツィアの党」であるが、その基本政策は労働者階級ならびに人民の利益に置いている。政治が大きな変化を起こし始めていない「平時」には、この党の政策と党の歴史的な本質は平和的に共存しているのであるが、一旦緩急あるとき、党の存亡の秋となる場合、その政策と党の本質がぶつかり合い、その場合には、党の本質が前面に出てきて、党組織防衛、党勢温存・拡大という「党益」が、人民の利益に優先されてしまうのである。つまりセクト主義が頭をもたげるのである。有名な事例をあげれば、1964年の4・17ストを巡るスト破りの件である。
 現在もまた、共産党の存亡の秋である。昨年の参議院選後に出された2中総での選挙対策は「党の議席の値打ちの押し出し」論であり、本年3月の3中総では「党勢拡大大運動」である。この「党の議席の値打ち」論にしてからが、本質的には民主党に票が集中するのを食い止める民主党対策であることからみてもわかるように、党防衛・「党益」対策なのであって、国民生活再建プランなどという国民生活全般に関わる政策とは性質を異にする選挙対策なのである。
 本来から言えば、政権交代が日程にのぼる時とは、政治が流動化を開始するときであり、革命政党にとっては、雌伏60年の待望の時であるはずであるが、八面六臂の活躍どころか、「党益」に萎縮した運動方針が出てくるばかりである。
 待望の季節に萎縮した「党益」のための運動方針しか出せなくなるのは、「労働者階級と国民の党」とは別個の利害を持つ「インテリゲンツィアの党」の宿命とはいえ、誤ったセクト的選挙戦術で墓穴を掘るからであり、墓穴を掘ることになるのも、観念的な人民大衆観に象徴される抽象的な政治理論で現実の政治を裁断(注8)し、人民と党の活路を逸するからである。その意味では、この党は下部党員の奮闘にもかかわらず、政治の季節を迎えるたびに「党益」に萎縮し、国民的大運道のブレーキとなり、ブントに始まる「鬼っ子」を生み出した歴史を持つのである。

<(注6)国民に共産党への理解を深めてもらうということ、その機会を実践の中で創り出すということは、社会主義諸国が崩壊した今日、最も重要なことである。それは党中央が2中総で打ち出した「党の議席の値打ち」を国民に教えるという対策とは全く異なっている。
 その違いを俗な比喩で表現すれば、「喉の渇いていない馬に水は飲ませられない」のである。「党の議席の値打ち」の教えは、飲みたくもない水を無理やり飲まそうとするに等しく、この「インテリゲンツィアの党」に欠けているものは、国民に『溶け合う』能力なのである。それがいかに重要なものであるかを示すために、ボリシェヴィキが成功した要因をレーニンの著作から引用してみよう。
 第一はプロレタリア前衛の自覚、献身、忍耐、自己犠牲、英雄精神、「第二に、もっとも広範な勤労大衆、なによりもまずプロレタリア的な勤労大衆と、『しかし、また非プロレタリア的な』勤労大衆とも、結びつきをたもち、彼らと接近し、そう言いたければ、ある程度まで彼らと溶け合う能力によってである。第三に、この前衛の政治的指導の正しさによってであり、この前衛の政治上の戦略と戦術の正しさによってである。ただし、それは最も広範な大衆が彼ら『自身の経験によって』、この正しさを納得するということを条件とする。(『 』はレーニン)」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」1920年、全集31巻、9ページ)
 この著作は、社会民主主義から分離して共産党を創りつつあった西ヨーロッパの左派社会民主主義者らのために、彼らが犯す数々の誤りを指摘し、その是正の方向を示したもので、原稿では「マルクス主義的戦略と戦術についての平易な講話の試み」という副題がついていたという。
 この引用文からわかるように、共産党には非プロレタリア的勤労大衆と『溶け合う能力』が必要なのであり、そして、広範な大衆が『彼ら自身の経験によって』理解するのでなければ、国民は共産党へ強固な支持を与えることはないのである。これらのレーニンの主張を政治の現状にあてはめれば、無党派層の自民長期政権転覆運動を促進することが、彼らと『溶け合う』能力の発揮ということなのであり、彼らが望む民主党政権を実現し、それを経験させることが共産党の主張することの「正しさ」(民主党政権ではダメなのだということ)を立証していくことにもなるのである。>

<(注7)昨年の11月に、選挙戦術の見直しを表明していたが、今8月5日の「赤旗」によれば、300の小選挙区のうち240の選挙区の候補者を決定し、さらに追加し、全小選挙区の立候補をめざすという。自公は大喜びであろう。党中央が全選挙区立候補の方向へ進むのであれば、支持者は独自判断の投票を決行するほかあるまい。基礎票の流出である。>

<(注8)「裁断」の事例をあげてみよう。志位委員長得意の議論として、党の政策は「明日に生きる」という主張がある。簡単に言えば、今回の選挙は敗北したが、その政策は正しく、次回以降の選挙では生きてきて国民の支持を受けるようになる、という主張である。 この議論の特徴は次のことにある。具体的に、国民がどのような政治意識上の特徴を持っており、現在何を求め、どのような判断基準で投票行動を行っているかを考慮することなく、現在の社会矛盾を根拠に、その「根本的」解決策を提起する共産党の政策にやがて国民が1票を投ずるという「理論上の判断(予想)」が「明日に生きる」という議論なのである。無党派層を中心とする国民の政治意識の特徴(これもまた、現政治情勢の重要な要素である。)が見落とされ、それに代わって理論上の見通しが接ぎ木される。現状の分析が都合のよい理論で代位されている。こうして、現在、共産党を凋落へと追い込んでいる無党派層は将来の共産党支持者となる予備軍の地位を敗北した共産党の選挙総括で与えられているのである。
 戦前の日本共産党の壊滅やナチス・ドイツの政権掌握の例を挙げるまでもなく、社会矛盾の存在は、共産党の政権獲得を保障するものではないのである。社会主義諸国が崩壊してなお、党指導部が浸るこの夢想、政治をみるリアリズムの欠如は度し難いものである。この党指導部が「インテリゲンツィアの党」にふさわしく、政治を把握することに根本的に不向きな指導部であることがよくわかるのである。>

(十四)対公明党戦略として
 最後に、共産党の全小選挙区立候補戦術が公明党に及ぼしている影響を見ておこう。都議選では、自民党は16選挙区で公明党に協力をあおぎ、15勝1敗(落選は文京区、共産党が当選)の成果をあげている。
 マスコミも指摘していることであるが、今や、公明党が自民党政権の支柱となっており、政権の支柱になることによって、公明党は自民党政権に甚大な影響力を及ぼしている。その影響力は政界にとどまらず、マスコミ、司法、警察にまで及んでおり、民主主義の危機とさえ警告(注9)されている。
 政権の支柱となることによって、宗教政党による公的世界の支配が進んでいるのであるが、その宗教政党=公明党が衆議院で占める議席はわずかに34議席にすぎず、全議席480の10%以下である。わずか10%以下の議席しか持たない宗教政党が、かかる重大な影響力を公的世界に及ぼすことを可能にしている原因を探ってみると、共産党に突き当たるのである。
 自民党と民主党の争いは各々の得票数でみれば、すでに決着がついており、民主党の勝ちなのであるが、自公の選挙協力によって、議席の上では自民党が多いという事態が作り出されているのである。
 したがって、自民党の議席が民主党を上回っているという事態は公明党の票によって支えられているのであり、自民党に横流しされる公明票に政治的な有効性を与えているのが、ほかでもない共産党の全小選挙区立候補という選挙戦術なのである。
 2003年の総選挙では、全小選挙区立候補が貫かれ、その得票数483万票という政治革新の意思を共産党は死票にしたのである。この事実は重い。政権転覆の「上昇気流」に乗る民主党と「政権の支柱」公明党という政治の「磁場」にあっては、死票は双方に対して中立の要因となることはできず、「政権の支柱」を補強する役割を果たしたのである。
 というのは、483万票という票は烏合の衆の票ではなく、明確な政治革新の意思をもつ票なのであって、この票を政治の現状(両者の対抗)から隔離したからである。
 話をわかりやすくするために、仮に、全く当選する見込みのない選挙区の共産党支持票を民主党に向かわせたとすれば、約50議席が逆転するのである。自民237対民主177という現状が自民187対民主227となる可能性があったのである。仮に共産党がこのような選挙戦術をとれば、とっくの昔に、政界は激動を開始していたのであり、政権の支柱という公明党の役割を終焉させ、その悪しき影響力の拡大に楔を打ち込むこともできたのである。もちろん、そうなれば共産党は政界激動のイニシアチィブを握ることになり、現状のような「蚊帳の外」に放り出されることもなく、基礎票を躍動させて「流出」の意味転換を実現し、もって、末端党員の活動に命を吹き込むこともできたはずなのである。
 党中央の頑迷な教条主義のインテリゲンツィアにして政治的無能力者たち(注10)は、自民党も民主党もその基本政策は同じだからという理由で、民主党が政権につくことに反対するわけであるが、何度も言うが「どちらでも同じなら、政権を変えてみた方がよい」のである。
 現実には政権交代にも様々なものがあり、どのような政権交代がどのような政治的意味を持つかは、その時々の政治情勢によるのであって、共産党の参加する政権以外は無意味だというのは、現実の多様性を忘れた机上の議論、観念論であり、ここでも「インテリゲンツィアの党」の本領が顔を出している。
 民主党政権は政策的にはほとんど変化のない政権交代であるが、しかし、それは政治の流動化が開始(自民党支配の終焉を最終的に確定)するという戦後政治史の画期となり、政治革新を求める国民諸階層の政治意識を高め、かつ変化させる培養器となるという意味で、貴重な政権交代なのである。民主党政権など意味がないとして、全小選挙区立候補戦術を固持し政治の現状を放置(注12)しておくことこそ、苦境にある庶民の全生活を放置し、自民党政権を支え、公明党による公的世界の支配を援助するものとなるだけでなく、共産党の再生を彼岸に先送りするものなのである。

<(注9)森田実や古川利明のサイトや、最近出版された元参議院議員・平野貞夫(小沢一郎のブレーンと言われる)の著作「公明党・創価学会の真実」、「公明党・創価学会と日本」2005年、講談社を参照>

<(注10)市田書記局長は、7月25日の毎日新聞とのインタビューで、候補者擁立問題で必ずしも全選挙区立候補にこだわらないと全小選挙区立候補戦術の変更について述べた上で、「他政党への影響は?」という記者の質問に対して次のように答えている。
「民主がトクするとか自民党はどうかということは考えていない。関係も関心もない。」
(MSNニュース、7月27日)
 彼は主観的には、共産党の選挙戦術変更は各政党間の政争の「ドロドロ」とは無関係な「クリーン」なものであることを強調したかったのであろうが、しかし、この発言以上に、インテリゲンツィアの政治的無能力を赤裸々に示す言葉は考えられない。彼は政党の指導者であるにもかかわらず、目をつぶれば、目の前の現実(共産党の選挙戦術の政治的機能=自公政権の支柱)は消えてなくなると思っているらしい。
 この発言は市田個人のものではなく、党中央の考え方と見るほかないのであるが、不破、志位、市田の三氏はあわせて「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿として、日光の東照宮に奉納したいほどである。
 この市田発言は、他方ではまた、彼らの採用する選挙戦術が現政治情勢を見ることもなく、現政治情勢とは無関係に提起されていることをも明瞭に示している。セクト的選挙戦術になる原因であり、自公に手玉に取られる由縁でもある。そして、政治情勢ぬきの選挙戦術ということになると、党外要因が抜け落ちるのであるから、党勢拡大・「党益」(彼らの主観=信念では党勢拡大=政治革新の前進なのであろうが、)だけを念頭においた選挙戦術であることをも示しているのである。
 考えてみれば実に不思議なことである。政党の指導者が、選挙戦術を変更するにあたって、その変更が及ぼす他党派への影響を全く考慮しないということはどういうことなのであろうか? ここには共産党の政治戦略・戦術を読み解く鍵が潜んでいる。
 この問いへの答えは一つである。考慮しないのではなく無視するということなのである。現政治情勢の下で、どのような影響を及ぼそうと、それは過程として、やがて過ぎ去る現政治局面での影響であり、政治過程の大局的展望にたてば無視できるものである。共産党の選挙戦術変更は大局的展望に立ったそれであるから、「関心も関係もない」ということなのである。
 では、大局的展望に立った政治過程とは、政治情勢とは何か? これまた、答えは一つである。政治過程、政治情勢はこの党にあっては、わかりきった不動の外的社会条件なのであり、二大政党制をとろうが、何であれ、根本的には解決不能の社会矛盾が亢進し、やがて、その解決を人民の意思を通じて共産党に求めてくる他ない世界だからである。これが彼らの大局的展望であり、彼らの世界観なのである。共産党に解決を求めてくる「必然性」にある政治過程の大局的な展望からすれば、現局面での戦術変更が及ぼす他党派への影響など過渡的な小事にすぎない。それゆえに、彼らが選挙戦術の前提にすえているのは、眼前の具体的政治情勢ではなく、大局的展望のうちにある政治情勢、すなわち、概念的に把握された政治情勢、彼らの世界観なのである。現在の具体的な政治情勢は孫悟空たる共産党の世界観という手のひらで踊る一場の幕間劇にすぎないのである。
 したがって、その時期が来るまで、一時的には自公政権の支柱というマイナス面がでようとも、敵の攻撃に耐え、陣地を守りつつ拡大へと進む党勢拡大・「党益」の路線たる全小選挙区立候補戦術を堅持することが最善、最強、最大の戦略なのである。こうして、国民の政治意識の変化に関する経験則を考慮するレーニン流の選挙戦術など視野の外に置かれることになる。
 このような驚くべき机上の世界観と党勢拡大戦略は「インテリゲンツィアの党」の車の両輪、本質の外的表現なのであり、このような世界観とその戦略の下では、その時々の政治情勢を深く熟慮して対応する必要もなく、したがってまた、政治的能力も不要なのである。
 この大局的展望は、別な言葉で言えば、彼らの「理論的見通し」にすぎない。彼らにあっては、現在の具体的な政治情勢は「理論的見通し」という大局的な展望の「まな板」に乗せられ、その「理論的見通し」に沿うものと沿わないものとに腑分けされ、裁断される。「理論的見通し」に沿うものが肯定され、肯定されたものを実践するにあたって発生するマイナス面(自公政権の支柱)は過渡的なやむを得ざるものとして無視(肯定!)されるのである。
 それだから、彼らは常に、大局的展望のもとに、現実を忘れるのであり、その選挙戦術が自公政権の支柱になっている現実を見ないのである。民主党を政権へと押し上げる国民の動向も「理論的見通し」に沿わない現象として否定される。もちろん、この国民の動向を否定することが無党派層の投票行動を通じて、共産党を凋落へと追いやっているということなどは党中央には夢想だにできないことなのである。というのは、「理論的見通し」の中にはその「見通し」に沿わない現実を否定することが共産党を凋落へ追い込むことなど書かれていないからなのである。彼らにとっては「見通し」に沿わない現実が否定されてはじめて「理論的見通し」が実現するからである。
 現実の模写にすぎない観念を自由に操ることを職業とするインテリゲンツィアに実にふさわしい世界観である。
 彼らのこのような机上の世界観はマルクス主義の戯画というほかない代物なのであるが、この「理論的見通し」の是非を検討することは止めておくとして、一つだけ指摘しておきたいことがある。このような「理論的見通し」が実現するためには最低でも一つの前提条件が満たされていなければならないということである。その前提条件とは、次々と生起してくる複雑な社会的、政治的諸条件をかいくぐって、共産党が常に正しい政治戦略・戦術を提起するということである。これは一体何によって保証されるのであろうか? 具体性の欠如した政治情勢把握で、正しい政治戦略・戦術を提起できるのであろうか? 「真実は細部に宿る」のではないのか? 
 戦術(作戦)は具体的な諸条件を考慮する場合にのみ、予想した結果が得られるのであり、具体的諸条件(現実!)を忘れた戦術で予想した結果を得ようとするのはギャンブルの世界に遊ぶに等しい。
 党中央の幹部連が「頑迷な教条主義のインテリゲンツィアにして政治的無能力者」である主要な原因は、このような単純な机上の世界観を持ち、現実をこの世界観に解消・裁断して理解しているからなのである。この世界観は理論というような高尚なものではなく、どんな国であれ、資本主義社会がそうなるほかないと予想する図式、型紙(「注11」)である。>

<(注11)さっそく、ここで考察した図式の事例が「赤旗」(8月9日)に発表されている。「全国都道府県委員長・選対部長・衆院予定候補者会議」での志位報告である。その文章を引用して、ここでの考察の証明とすることにしよう。

「第1は、いまの情勢の大局をつかむという問題です。・・・外交でも、内政でも、自民党政治がいよいよ大本からゆきづまり、その危機が限界まで深刻になっている。これが今日の事態の根本にあります。」
「第2に、このゆきづまり・閉塞状況は、自民、民主の『二大政党』では打開することはできない、自民党政治に正面から対決する野党としての日本共産党をのばしてこそ、新しい政治の局面が開かれる。これが、情勢の大局をつかむさいのもう一つの大切な問題であります。」
「アメリカいいなり・財界中心の政治を根本から転換する路線的立場をもつ日本共産党をのばしてこそ、日本の政治の深刻な閉塞状況を打開し、国民にとって希望がもてる日本の政治の新しい局面が開かれる。このことが、情勢の劇的展開のなかで、浮き彫りになっていることを、しっかりとつかもうではありませんか。」

「第1」、「第2」の引用にある「大局」という言葉に注目されたい。これが型紙の現実への適用、現実を型紙で裁断する好個の事例である。三つ目の引用文にある共産党の出番が「浮き彫りになっている」というのは、主観的願望である。
 「第1」の主張は今に始まったことではなく、長年言い続けてきた慣用的なフレーズで、根本矛盾の発現とそれを解決できない支配階級の危機を表現するもの。「第2」の主張は、民主であれ、二大政党であれ、誰もその根本矛盾を解決できず、共産党だけが解決できるという、これまた慣用フレーズで、その欠点は常にリアリティが欠如しているということにある。というのは、このフレーズもまた、現情勢の具体的分析から出てきたものではないので、「日本共産党をのばしてこそ」と言うものの、一体何議席を獲れば「日本の政治の新しい局面が開かれる」のか」明示できないからであるし、明示すれば逆に、リアリティに欠けることが白日の下に晒されることにもなるからである。
 引用した最後のフレーズでは、共産党だけが危機を解決できることが「浮き彫りになっていると主張しているのであるが、この主張は「理論的見通し」によれば、「浮き彫り」になってくるはずだという彼らの観念を事実と混同させてしまっているばかりでなく、「浮き彫り」になってほしいという彼らの願望をも表現しているのである。「浮き彫りになっている」というのであれば、客観的には、少なくとも、国民の過半数がそうした認識に到達していることが条件になるのであるが、そのような事実はないばかりか、都議選でも民主党の一人勝ちであった事実を見ればわかるように、「わかっている人」はまだ少数派なのであり、とても「浮き彫り」になっているとはいえないのである。浮き彫りになっているのは、志位報告が現政治情勢から遊離した慣用フレーズと願望で構成された情勢分析だということである。
 こうした型紙で裁断された情勢認識と、主観的願望から「最善、最強、最大」の選挙戦術である全小選挙区立候補戦術が出てくるのであり、自公政権の支柱という役割(現実)は無視されるのである。これだから、政治革新のためには無力な選挙戦術を提起することになり、実際の政治では自公政権の支柱という政治的機能だけはしっかりと果たすことになるのである。>

<(注12)党勢拡大=政治革新の前進という「公式」にもとづいて全小選挙区立候補でたたかい、仮に衆議院の議席が9議席から18議席に倍増したところで、現在の政治の構図には何の変化もないのであり、すなわち、躍進しても政治の現状放置なのである。2000年の衆議院では20議席あったのである。
 18議席への躍進が、政治の現状を変える選挙戦術(全小選挙区立候補の中止、選挙区の精選)の下で実現するのでなければ、その躍進も落成なった党本部での一夜の宴にすぎず、苦境にあえぐ国民生活の現状と政権交代を求める願望は放置されたままなのである。このような対照が生じてくるのは、全小選挙区立候補という選挙戦術が「党益」しか念頭にないセクト的な選挙戦術に堕してしまっているからである。
 同じ選挙戦術がいつの時代も同じ政治的な役割を果たすわけではなく、時代が変わり、選挙制度が変われば、その政治的役割も変化してくるのである。政治情勢とは無関係に選挙戦術を提起する党中央には、これらの変化が見えないのである。>

付記、本稿を書いているうちに、郵政法案が参議院で否決され、総選挙が現実のものとなった。「自民党をぶっ壊す」と公約して当選した小泉が公約を実行し、自民党は危機を迎えているが、共産党もまた正念場である。自民党をぶっ壊すはずの共産党が自公政権を支え、自公政権の守護神・小泉が自民党を「ぶっ壊す」という転倒現象は何を意味するのであろうか?
 期せずして、民主党が政権に就く千載一遇の機会がやって来ている。政治の世界では「一寸先は闇」とはいうものの、時の勢いとはこういうものである。貧困な観念世界の情勢に固執せず、共産党は全小選挙区立候補戦術を中止して、政権交代の妨害勢力となる役割を払拭するべきである。今は、小泉の強権政治と郵政民営化を粉砕することが何より重要である。「注」が膨大となり読みにくいものとなった。記して謝す。   2005/8/12