ユーロコミュニズムが破綻し、国際共産主義運動はその存在意義は終演し、蛸壺的に自己保身をはかる時代の到来だった。つまり他国に干渉はしないものの、内部に向けては異端者は徹底的に粉砕する。お馴染みのリトル。スターリラズム官僚支配である。能力あるものの重用ではなく、学閥による人事。おしなべて幹部に逆らわない体制。80年代初頭に次々と起こった、いわゆる「民主文学問題」、「原水協・平和委員会」の粛正、党の民社化を求める個人・組織も悉く弾圧されたことはそんなに簡単に忘れられるものではない。どれだけ志高い党員たちが去っていったのか?党中央は自己の正当化にのみに汲々としてきたのではあるまいか。選挙のたびごとのに(社会党の右転落による漁夫の利は除いても)敗北に次ぐ敗北。
中央の自己批判など皆無だった。そして現在、グロテスクな社会帝国主義中国との「和解」、百歩譲っても、到底社会主義とは言えない北朝鮮軍事独裁政権を容認する程までに成り下がった。
理論戦線においても現代思想に置いてけぼりにされても何の通用も感じない無神経さ。一体日本共産党の存在意義はどこにあったのか。「消費税反対」、「小選挙区正反対」、「国民生活を守ろう」というスローガンだけであり、個別的な課題による共同を模索しながらも、現実的な力とすることができない無能力者であることを示したに過ぎなかったのではないか。
これらは単に「名称変更」の問題ではなく、その「存在意義」そのものが問われていたことの例証ではあるまいか。また党内民主化は少しでも前進したであろうか?大衆運動の後退は目に余るべきものだった。学生運動然り、青年運動然り、労働運動しかり、婦人運動さえもである。
私がかつて所属していた民医連の職場は、党員はまず勉強しない。古典なぞ見たことも触ったこともない党員が多数を占め、60年代入党組は本来彼らが持ていた筈の「理想主義」さえも失っていた。経営者が主であり、党員としての運動参加は全くなし。資本主義的経営に浮き身を費やしているばかりだった。もちろんこれは私の個人的な経験である。
しかし総体として日本共産党は下から上まで、あるいは上から下まで腐っていた、と思う。何ごとにももちろん例外はある。それを差し引いても、共産党は、国政革新などを本気で目指していなかったことは明らかである。党中央は「段階論ではない」と、いいながら自らが「段階論」の幻想を振りまいていたのではなかったか。
結論として、私は、日本共産党は解党すべきである、考える。左翼を標榜するならば、少なくとも「イタリア左翼民主党」なみにすべきである。実体としては「左翼民主党」よりも非民主的で、右翼修正主義的なのだから。
そうした現状認識に立って、志ある党員、支持者、そしてかつて党から放逐された有名・無名者による対抗勢力を結集していくことこそ現実的な課題ではないだろうか、と愚考する。