1、日本共産党による衆議院選挙総括の特徴
小泉を政権の座から引きずり降ろし、自民党政権を転覆させる千載一遇の機会を野党は逃したばかりか、ばらばらで臨機応変さに欠ける選挙戦術のために議席の2/3を越える巨大与党を生み出す愚を犯してしまった。小泉解散劇の巧みさをあげつらう向きもあるが、政治における巧拙とは相対的なものであり、野党のつたなさが小泉の巧を際だたせたのである。愚かさという点では野党各党とも同罪と言わねばならないが、とりわけ、「未来の政権党」を自負する日本共産党(以下jcpという)の愚かさは際だっていた。
新たに打ち出した「確かな野党」という標語をみれば明らかだが、他の野党からの票取りを重視する本末転倒の選挙戦術を終始変えなかった。その意味では巨大与党を生み出したA級戦犯である。
選挙戦の総括とは、選挙戦という「いくさ」をどのように戦い、どのような結果が生み出され、その結果のうちに生み出された戦果がどのようなものであるかを明らかにすることである。「未来の政権党」を自負する党であるならば、選挙戦の結果全体をみて、政治革新の途がどの程度、前進したのか、あるいは後退したのか、という戦果を評価する見地から総括の基本線を打ち出すべきなのである。
ところが、第4回中央委員会総会の志位・幹部会報告(以下、4中総という)の選挙総括では、そうした戦果とはおよそ関係のないこと、すなわち、「善戦・健闘」という評価を不動の前提として、この評価を「全党の深い確信」にするということが総括の中心になっているのである。驚くべき総括である。いわば、災害にあった国民を尻目に自己の安泰(9議席!)を喜び、「深い確信」にしようという総括なのである。これでは「労働者階級と国民の党」の名が泣こうというものである。「国民の苦難のあるところに共産党あり」とは単なる宣伝文句にすぎなかったのか?
小泉を政権の座から引き下ろすという千載一遇の機会を逃し、巨大与党を生み出し、国民をさらなる窮地に陥れてしまったという選挙戦の結果(これこそ、新しい政治情勢の特徴である)をみれば、9議席、492万票を「善戦・健闘」とする評価は誤りである。政治革新の途が一歩も進まなかったばかりでなく、逆に大幅な後退を余儀なくされたからである。
この党指導部にとっては、選挙戦全体の結果など眼中になく、彼らの唯一の関心事が党員の統制・掌握にしかないことを総括は示しているのである。党員に「善戦・健闘」という「深い確信」を植え付けられれば、党指導部の指導の正当性も自動的に保証されるというわけである。その意味では徹頭徹尾、セクト的な総括であり、セクト的である以上に党指導部の愚かな自己保身の総括なのである。
2000年以降の国政選挙における連戦連敗が党指導部の威信をゆるがしており、党指導部に自己保身の衝動が働くことは想像にかたくないが、これほどあからさまに党指導部の自己保身を露出させた文書もめずらしい。以下、その愚かな自己保身ぶりを見ていくことにしよう。
2、自己保身の総括をするための第1の視点
委員長・志位によれば、今回の選挙総括は「二つの基本的角度」から行うという。その一つは「『善戦・健闘』という評価を全党の深い確信にする」という「角度」から総括するというものであり、もう一つは「本格的な前進のためには何が必要か」という「角度」から総括するというものである。ここでいう「角度」とは総括する視点のことである。総括する視点というのは、いろいろありうるのであるが、設定された視点によって、見えてくるものはおのずと限定されることになる。
第1の視点は、お互いの健闘をたたえあい、その「善戦」ぶりを文字通り善戦であると確信しようという視点から総括するというわけである。このような総括視点から見えてくるものは、選挙戦の結果全体ではなく、選挙戦を力戦敢闘した党活動の評価すべき点である。党の内部にのみ目を向け、しかも評価すべき点だけを見ようとする視点である。あたかも、野球の試合で自軍の選手の守備や打撃だけをビデオに録画し、それらの場面のうち、よさそうな場面のみを編集して再生するようなものである。むろん、エラーや三振の場面はないし、相手の試合ぶりや試合全体の様子、試合の結果も写ってはいない。しかし、これは異なことである。どうしてこんな一面的な編集、「未来の政権党」にあるまじき偏狭な総括視点が打ち出されてくるのであろうか?
「善戦」をすなおに善戦とは確信できない党内事情、すなわち、巨大与党が生まれているのに、前回議席なみの結果を「善戦」と言えるのか、という根本的な疑問が党内に広範にあるから、こうした偏狭な総括視点が打ち出されてくるのである。つまり、「善戦・健闘」という評価を党員にたたき込む目的で設定された意図的な総括視点なのである。それだから、この総括視点は二重の偏狭さを持たざるを得ない。一つは選挙戦の総括でありながら、党内のみに目を向けていること(巨大与党の成立という事実を排除すること)、もう一つは、党指導部と党員の評価すべき点だけをみることである。議席増とならなかった問題点を見ては党員に「確信」を持たせることが困難になるからである。そして、この「確信」を是が非でも党員に植えつけることが、党中央の指導の「正しさ」を担保することになることは指摘するまでもない。
野球チームのビデオ録画ならともかく、党指導部が党員を統制・掌握する目的で、国政選挙の総括をここに例示した野球ビデオの編集なみに取り扱うことは党員と国民への背信行為である。
この偏狭で狡猾な総括視点は最悪の政治的意図の下に設定された総括視点である。党指導部の自己保身のために党員に偏狭な視点・視野を持つことを強制し、党外のことなど見るなと統制する行為は、党員の創意ある活動を封殺する党の自殺行為であるということさえ、この党指導部は理解できなくなっているのである。この総括視点にこの党中央の堕落の到達段階が凝縮されている。
3、自己保身の総括をするための第2の視点
第2の視点から見えてくるのは、党中央の視野狭窄を反映して、議席を増加させられなかった党の力量・活動水準を高める必要性、その方策(中心は党勢拡大大運道)だけである。第2の視点・「本格的な前進のためには何が必要か」という視点は、その言葉の本来の意味からすれば、議席増とならなかった党の様々な弱点、欠点、とりわけ、党指導上の諸問題や連敗続きの選挙戦術などへも目を向けることになるはずであるが、志位の視野の中では、諸問題は具体性を欠いた「党の力量不足」という抽象的な言葉に翻訳されてしまう。「日常的な党の活動の水準、党の実力の水準を、抜本的に高めることがもとめられる」。
こうして党の抱える諸問題が抽象化され、ごちゃ混ぜにされ、原因も責任の所在も行方不明にされる。そのうえ、この「党の力量不足」の中には、党中央の指導上の問題が含まれていない(4中総にはその指摘がない)のであるから、結局のところ、「党の力量不足」というのは、党員が少なく、党員とその活動の質が低いということになるわけである。それだから、党の力量を高める対策は、党員、機関紙の拡大運動と、党の綱領をよく読めということになる。百年一日、繰り返し言われてきたことである。
まるで、手品師のマジック・ボックスを見ているようである。いろんなものを箱に放り込んで、手際鮮やかに、その中から鳩を取り出すというアレである。具体的な諸問題を「党の力量不足」という抽象的な言葉に翻訳する言葉のマジックで、すべての原因は党を売り出す営業マンの量と質の問題に還元され、議席を含めて、党勢の後退、停滞の原因と責任は、事実上、一般党員に転嫁される。党員は「党勢拡大大運道」のノルマ(50万の党、機関紙の3割増)に追われ、党指導部の最大の任務は「大運道」のノルマを日常的に点検するということになる。まるで倒産間際の企業経営者を見るようである。
4、選挙情勢はどう把握されているか?
選挙情勢について語られているのは、小泉の「奇襲攻撃」であり、「小泉突風」であり、小泉によるウソの郵政民営化論であり、マスコミの小泉翼賛、経団連の小泉全面支援など、jcpの選挙戦を困難にした諸条件という位置づけで言われているだけである。だが、総括とはこれらの困難な諸条件を考慮してどのような作戦をとり、その効果がどのようなものであったかを検証することであろう。選挙戦は党派闘争なのであるから、相手に有利な条件を敵が提供してくれるはずもない。敵の作り出した困難な条件を列挙して、自己の停滞の理由にするようでは総括ではなく、単なる弁明にすぎない。
司馬遼太郎の著作のなかに「世に棲む日日」という小説がある。その中で、わずか数十騎で長州藩の政治・軍事情勢を回天させていく戦略家・高杉晋作のことが書かれており、起死回生の挙兵の場面に言い得て妙な文章がある。
「政治風景というものは、こう押せばこう変わるのだ。」(「功山寺挙兵」)
この党指導部にはこれがない。「こう押せばこう変わる」という戦術を決定する構想力、すなわち、事態を展開させる政治的能力がない。小泉にはこれがあった。民主党躍進の原動力たる「改革派」というイメージを奪取すれば、政治の風景がこう変わるという構想力があった。
志位は選挙戦の最中に、郵政民営化法案に反対する「国会共闘」を提唱したが、私はそれを「あきれはてた政治音痴」(「現状分析」欄9月9日)と評した。はたして、選挙後の国会では、この「国会共闘」など問題にもならなかった。この党中央は小泉が圧勝すれば「国会共闘」など問題にもならないという政治判断すらできない、したがって選挙情勢さえまともに理解できない党指導部なのである。
彼らが選挙情勢さえ理解していないと指摘すると、信じられない向きもあるかもしれないが、jcpの発展を「必然」と考え、その顕現を絶えず待望するという偏光フィルターのかかった目で選挙情勢を見ると、自己に好都合な側面だけが針小棒大に見え、事態の正確な状態が見えなくなり、誰にでもわかるような単純なことも見えなくなるのである。その事例は次項でみられよう。
事態が見えなくなれば諸困難は打開のしようがなく、こうして諸困難は自然現象(「小泉突風」!)のように扱われ、己の政治的無能力も恥ずかしげもなく正当化(弁明)されるのである。
5、「善戦・健闘」と評価する個々の論点の特徴
党指導部はその指導を正当化するために「善戦・健闘」という評価を与えたのであるが、志位が言うその評価を構成する要因を見ると、無理やりにつくりあげた「善戦・健闘」という評価の無理が露呈している。
「善戦・健闘」という評価を構成する第1の要因は小泉の「『奇襲攻撃』の動きをみぬき、いち早くたたかう構えをつくりあげたこと」である。第2の要因は「確かな野党」というキャッチ・フレーズで論戦したことが「新鮮な共感と期待を広げました。」ということである。第3の要因は「草の根の力が発揮されました。」ということである。第4は「比例を軸に」という取り組みに「新たな前進がはかられました。」ということである。
書き写しているこちらのほうが気恥ずかしくなるが、これらが、「日本の政治の未来がかかっている」(不破「政治のゆきづまりをどう打開するか」)重要な選挙戦におけるjcpの評価点なのである。小泉に中身の大半を喰われた大きな重箱の隅をつつきだして、やっと拾い出した米粒のようなものである。
これらの4つの要因はすべて党内要因ばかりであり、敵に打撃を与えたという指標や平和と国民生活向上の可能性を前進させたという指標がない。党指導部が言う「善戦・健闘」の中身がわかろうというものである。みんなで頑張ったということの諸要因がその中身なのである。みんなで頑張ったと総括できれば聞こえはいいが、党指導部の責任も免責されるわけである。しかも、数値化してその評価の客観性を確認することができないものばかりである。したがって、検討するに値しないのであるが、無理な評価づくりの有様を見ておくことも、この党指導部の愚かな姿を理解するうえで意味がある。
さて、簡単に論評できるところからいけば、第2の要因から見ることにして、「新鮮な共感」とは何のことか意味不明ではあるが、「共感と期待を広げた」というのは、どう贔屓目にみても選挙戦をたたかった者の感想の域を越えるものではない。「共感と期待」を広げても9議席と前回なみなのであるから、特段の評価点とするわけにはいかないであろう。
第4の要因は、比例票の獲得にこれまでになく意識的に取り組んだということである。従来も「比例が軸」として取り組んできたわけであるから、これまた、感想の域を越えてはいない。実際、比例票が前回と比べて飛躍的に伸びたわけではない。得票数では前回より、34万票増やしているが、得票率で見れば、7.25%であり、20議席から9議席へ半減した前回の7.76%よりもさらに後退しているのである。
第3の要因では「草の根」として「全党的に82%の支部が・・・たちあがりました。」とある。確かにここには評価の対象として一つの数字がある。しかしながら、党支部の82%が選挙戦に立ち上がったということが「善戦・健闘」という評価を構成する要因になりえるのであろうか? 支部の個々人のことではなく支部自体のことなのだから、全支部が立ち上がって当たり前ではないのか? 前回の参議院選では「97.5%」(2中総)が選挙戦に参加しているのである。 「党の力量不足」が問題になっている折りに、82%しか立ち上がらなかったことは、むしろ、反省点であろう。これでは幽霊党員がいるばかりでなく、幽霊支部が18%もあるということになる。全国の党支部24000(3中総)のうち、4300の支部は国政選挙もたたかえないのである。他ならぬ社会変革の志をもった国民が集まった党支部でありながら、4300もの支部が国政選挙に立ち上がれないという事態は党指導部にとっては反省点以外の何物でもない。
最後に第1の要因である。
「いち早くたたかう構えをつくりあげた」という場合、問題になるのは本格的なスタート時点である。選挙準備の本格的な開始ということになると、少なくとも、衆議院における採決で5票差で可決という事態が明らかになり、造反派の亀井が「次は完全にノックアウトです」と、参議院における否決に自信を示した7月5日が一つの基準になる。というのは、衆議院における5票差で可決という事態を見て、各党は一挙に解散・総選挙モードに突入していくからである。7月6日の読売新聞のトップ記事では「小泉首相は、法案が否決されれば、衆議院を解散することを決意していた。」と明確に書かれていた。
ところが、志位の言う「いち早く」とは衆議院解散直前の8月3日に開いた「都道府県委員長・選対部長・衆院予定候補者会議」を指すのである。「第1に、小泉首相の『奇襲攻撃』の動きをみぬき、いち早くたたかう構えをつくりあげたことです。とくに8月3日に開いた都道府県・選対部長・衆院予定候補者会議・・・云々」 8月3日では「いち早く」どころではなく、他党との比較では出遅れなのである。事実を見よう。7月8日の朝日新聞は4面で「民主代表、衆院選準備を指示」という見出しで次のように書いている。
「民主党の岡田代表は7日、国会内の記者団に対し、・・・選挙準備を急ぐよう党内に指示する考えを示した。民主党は次期衆院選で政権交代するため、170小選挙区での勝利をめざす。250人余りの候補者を内定、残る選挙区への擁立を加速させる。共産党は小選挙区で100人近い候補者を内定。」
ごらんのとおり、民主党は5票差可決の2日後には選挙準備の指示をだしており、候補者擁立でもjcpは民主党に負けている。jcpの候補者擁立は7月5日以降の選挙モードに突入してから、急遽、進められてきたのである。jcp最強の選挙区である大阪選挙区でさえ最後の9選挙区9名の候補者が「赤旗」で発表されたのは8月3日である。8月19日の「総選挙全国決起集会の報告」(「赤旗」8月21日)で志位は「短期間にこれだけの候補者を擁立した」と述べている。
他党の議員は選挙モードに入っているのに、jcpは候補者の擁立を急ぐ段階であり、やっと、8月3日に決起集会にこぎ着けたというのが実情なのである。これでは、どうみても他党派なみ以上ではないのである。「小泉の奇襲攻撃の動きをみぬき、いち早くたたかう構えをつくりあげた」というのは、見え透いた大嘘である。
誰もが納得する評価点を見いだせない党指導部は、「善戦・健闘」という評価を党員に植え付けるために、苦し紛れに、とるに足りない恣意的な評価点を取り上げるか、事実をも偽る大嘘の評価点を打ち出すほかないのである。
6、今回の得票率は「底割れ」状態
さて、今回の選挙戦では比例区の得票は492万票、得票率では7.25%である。前回2003年は458万票、得票率7.76%である。したがって、得票では34万票増やしているが、得票率で見ると0.51%の減少である。議席数で見れば9議席で前回と同じである。さて、ここで問題である。評価の対象としてどの数字を重視するかという問題である。少しでもよく見せたい党中央は得票数34万増に着目して「善戦・健闘」と評価するわけである。
しかしながら、評価の基準は恣意的なものであってはならないのである。党勢の発展を見る尺度としては得票率が第1位に来なければならないのである。得票数で見る場合は、投票率の高低が影響し、正確な党勢の発展の程度がわからなくなるからである。
今回の選挙の投票率は67.51%で、近来稀に見る高投票率であった。前回は59.86%で7.65%もアップしているのである。そこで仮に前回並の得票率を獲得したとすれば何票になっていたかを計算すると、526万票である。つまり、前回並の得票率の陣地を確保するには526万票が必要なのであり、今回の得票は前回より増えたとはいえ、陣地のシェアとしては34万票足りないのである。
次に、この得票率を過去の実績と照らしてみよう。党勢の発展を歴史的に眺めれば、得票率7.25%の意味がより鮮明に理解できる。
今回の得票率の水準を70年代以降の衆議院選の歴史で見ると趨勢的には次のようになる。1972年の大躍進で10.88%を獲得、以後、長期の緩慢な低落傾向が続き、新党ブームに沸いた1993年の7.7%で底を打つ。そこから上昇を開始し、いきなり1996年に13.08%(得票数726万票)でピークをつけ、以後、再び低落傾向を開始することになる。2000年の11.23%、2003年には7.76%へ急落、議席も20から9へと半減以下へ、そして2005年の7.25%となるのである。今回の7.25%は70年代以降の衆議院選挙の中では最低の得票率なのであり、1972年以来、20年かけて底打ちした1993年の最低点7.7%さえ下に突き抜けてしまっているのである。株価用語で言えば「底割れ」である。
このように得票率でみれば、今回の選挙でjcpがたたき込まれた危機的状態が見えてくるのである。とてもじゃないが「善戦・健闘」などと浮かれている場合ではないのである。
7、流出した基礎票は100万票以上
4中総の報告で委員長・志位はこの得票492万票について次のような評価を行っている。
「わが党は・・・『小泉突風』が吹き荒れる超短期のたたかいで、党の基礎的な支持層をかためつつ、広く無党派層や他党支持層にも働きかけ、基礎的な党支持層の二倍程度まで得票を増やしたことになります。これを文字どおりの自力でやりとげたことを、全党の深い確信にしようではありませんか。」
志位は492万票を手放しで喜んでいるが、「底割れ」状態の得票率でありながら、支持層の2倍の得票を得たということの裏には危機的な事実が潜んでいるのである。すでに都議選の得票分析(「現状分析」欄8月5日の投稿参照)で述べたことであるが、基礎票の流出があるのであって、やせ細った基礎票の上に一定数の流入票があり、結果として、基礎票に倍する得票数をえながら得票率でみれば「底割れ」状態になっているのである。
そこで基礎票の流出について試算してみよう。
出口調査によれば、jcpの得票492万票のうち、共産支持層(基礎票)の票が51%(「毎日新聞9月13日)となっている。他の全国紙の調査には見あたらないので、この数字を利用しよう。志位は4中総の報告で、マスメデアの調査結果(たぶん、「毎日」の調査結果であろう)から「もともとの党支持者はだいたいその半数の二百数十万人程度だと推定されます。」と他人事のようなことを言っている。
今回の選挙戦では推定できる基礎票は492x0.51=250万票ということになる。この250万票を他の指標で確認してみよう。まず、jcpの「赤旗」日曜版読者数を3中総(2005年4月)から推定する。現状から27万部拡大すれば約165万部になるというのであるから、現在の部数は165-27=138万部である。次に党内では「赤旗」日曜版1部につき、経験的に2票の基礎票があると言われてきた(1995年ベース。宮地健一サイト「日本共産党の党勢力、その見方考え方」参照)。基礎票がやせ細ってきた現在では1部は2票以下に落ちこんできていることが推定されるが、2票という数字をそのまま使うことにしよう。すると、現在の基礎票は138x2=276万票となる。「毎日」が250万票であるから、ほぼ出口調査の結果は正しいと推測できる。
次に、基礎票の流出がなかった時期の基礎票を算出してみよう。jcpが史上最高の得票を得た1998年の参議院選を取り上げてみる。この参議院選では基礎票の流出はなく、かつ、jcpの支持層がこぞって投票所に足を運んだと推定されるからである。jcpの比例代表の得票数は819万票であり、「赤旗」記載(1998年7月14日付)の各新聞社の出口調査の基礎票比率は「朝日」48%、「読売」44%、NHK47%である。したがって、「朝日」の数字を用いれば、jcpの基礎票は819x0.48=393万票、「読売」の数字では819x0.44=360万票、NHKの数字では、819x0.47=384万票 ということになる。
さらに別な指標を探すとして、1998年以前は出口調査における比例区の政党別得票内訳のデータが見あたらないので、生の数字で推定するほかないのであるが、参議院選に比例代表選が導入された1983年以降の参院比例票をみると、次のようになる。
1983年-416万票(選挙区485万票、投票率57%、得票率8.95%)、
1986年-543万票(選挙区661万票、投票率71.36%、得票率9.47%、衆参同時選挙)
1989年-395万票(選挙区536万票、投票率65.02%、得票率7.04%、天安門事件、消費税導入)、
1992年-353万票(選挙区481万票、投票率50.72%、得票率7.86%)、
1995年-387万票(選挙区431万票、投票率44.52%、得票率9.53%)、
1998年-819万票(選挙区876万票、投票率58.84%、得票率14.6%)
これらの各選挙のうちで、最も投票率の低かった1992年、1995年の得票数に注目したい。というのは、有権者の過半が投票に来ない、国民の関心が薄い選挙では、共産党の場合には、比例票にほぼ裸の基礎票が出現していると考えられるからである。しかも、比例票と選挙区票ではかなりの開きがあるので、比例票の方が基礎票に近いことは言うまでもない。353万票、387万票という数字が見える。それから1989年である。この時は天安門事件があり、jcpには強烈な逆風が吹き、得票率でみると7.04%という「底割れ」の得票率になっているのであるが、それでも、395万票が獲得されている。これら三つの獲得票がほぼjcpの基礎票近辺にあると推定できるのであり、上記各社による1998年の基礎票比率にもとづく三つの得票数とほとんど一致する。
したがって、jcpの基礎票は1990年代では350万票から400万票の間にあり、少なく見ても350万票程度はあったのである。
現在の基礎票は250万票程度であり、1998年頃と比べて100万票以上も流出しているのである。
1989年の参院選直前の天安門事件のような逆風がひとりjcpに吹いたわけではない今回の総選挙で、「底割れ」の得票率を獲得したことの意味を党中央は理解するべきなのである。得票数は若干増えても、議席は前回並、得票率は「底割れ」では、踏みとどまったとさえ言えず、前回よりさらに後退しているのである。とても「善戦・健闘」と安泰を喜び、「深い確信」にできる状態ではないのである。
8、jcpは指導部をかえる必要がある
今回の総選挙は、改憲国民投票の前哨戦、先行モデルと見る必要がある。すでに9条改憲派は今回の総選挙をモデルに国民投票という「いくさ」の作戦を構想しているであろう。小泉圧勝の原因とも関係するが、小泉政治の最大の被害者でありながら選挙にも行かない青年層をたたき起こし、その票をかっさらったのはjcpではなく、小泉政権である。この事実は9条擁護派が心して考えなければならない問題の所在を示している。
今回の選挙戦ではいつになく投票所に足を運んだ「新しい票」が870万票あるが、自民の比例区増加票が522万、造反派の新党が集めた票が282万あり、870万票のほとんどが自民か元自民の候補者に向かったことが推定できるのである。憲法改悪をめぐる国民投票でも、このような「新しい票」がさらに大量に出現してくることが予想されるわけであるが、この「新しい票」が憲法改悪の帰趨を決める鍵を握っているということが第1、第2は、これまで手の届かなかったこの「新しい票」を9条擁護派に獲得するための独創的な言論と運動を創造する必要性=「9条の会」を発展させる基準。jcpの支部が衣替えしたような地域「9条の会」では役に立たない。第3は、現jcp指導部にはこの「新しい票」を決起させ、獲得する能力がないことを今回の総選挙は実地で示したことである。第4に、この時代の政党の顔は、その政策とともに、「新しい票」を獲得できる人材、国民の心をゆさぶり共感を引き出す力をもった人材でなければならないということである。
小泉を政権から引きずり降ろすことに失敗し、巨大与党を生み出すことに貢献しながら、自己保身のために大嘘をついてまでも「善戦・健闘」と評価するこの党指導部が、さらに大規模な仕掛けを用意してやってくる改憲国民投票で広範な国民の共感を呼ぶ「いくさ」を展開できるとは考えられないことである。
jcpは改憲策動を迎撃するにあたって、自己保身に終始し、大嘘つきで政治的にも無能力な現指導部を替える必要がある。来年1月の党大会で主要議題とするべきことは、賽の河原の石積みのような党勢拡大ではなく、党執行部の人事一新である。