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「現状分析と対抗戦略」討論欄

統一と協同の護憲闘争の思想

2005/11/22 千坂史郎 50代

原仙作さん、再度のお返事をありがとうございます。

 「護起憲」運動の提唱は、実践的運動論的に、閉塞した状況を打開しようとされる原さんらしいユニークでありかつ有意義なご提案であると、共感をもちました。
 憲法をとりまく自民党の攻勢的な現在、原さんが、いまの共産党執行部では改憲の策動を打破できないという意気込みが伝わってまいりました。原さんの趣旨は理解できました。

 にもかかわらず、私には重要と考えられる、ふたつの誤解ないし誤読がありますので、その点を述べさせてください。

1 私の11/12論文において、こう述べました。

 「私は、指導部を変えてもそれほど期待できるとは考えていません。むしろ、いま求められているのは、後退を余儀なくさせられている局面で、後退しつつも、連携を強め、抵抗の闘いをやむことなく持続させる主体の形成だと思います。(以下川崎市長選の経過・略)
 指導部でも一般下部党員でも、いまの困難な状況を打開するかでは変わらぬ特質をもっていると考えます。「お上頼み」や「下部通達主義」。まずは自らの状況判断や責任主体を形成することでしょう。」

 この文章をどう解釈されたのでしょうか。
 私は、指導部だろうが、一般党員であろうが、日本共産党が自立した党員や個性ある人格として個々の党員が自らの創造的主体となることがなければ、いかに指導部が変わろうと、末端は変わらぬという文脈で述べています。
 なぜソ連でスターリン独裁や戦時中の粛清が生じたのか。中国文化大革命で毛沢東の専制主義が社会主義法規範を逸脱していったのか。カンボジアのポルポト政権が知識人虐殺を行い得たのか。
 これらの疑問に、原さんはどう答えますか?私は、いずれもそれらの人民や共産党員の人格的成長の度合いが、経済的社会構成体の未発達も反映して自立した個性的人格が未完成であったことととらえています。
 それは、竹内好が日本共産党をとらえて『現代中国論』や『魯迅』で、アジアにおける近代のありかたを鋭く問い、日本共産党が欧米に追随して近代化をなしとげようとした「ドレイ」の文化であると批判したこととも照応しています。
 私が、指導部の更迭の問題がすべてを解決するわけでなく、個々の党員の変革主体形成をなしとげるだけの主体形成の問題にあることを主張したいわけであります。

2 「統一と協同」のテーブルについた共闘の運動と主体形成。この私の叙述をどう解釈されたのでしょうか。原さんがおっしゃるような「安易に「統一と共同」とか「結集」とは言いたくない」という言葉。小田実氏の「統合しようなんて考えない方がいい」という言葉も援用されています。
 私は、共産党が指令する従来の統一戦線に比して、共産党を排除しないけれども、日本共産党も構成の一員に過ぎないようなテーブル(円卓)方式のフォーラム形式こそ、いままでのピラミッド型組織に対して、新たな可能性を拓くものと考えています。それは、緊急の運動論として早急に実現するものではないかも知れません。しかし、運動論以前に存在論として、多くの国民をアメリカの世界覇権主義やネオコンのブッシュ戦略に対して、自民党の良識派をも含めて、日本の国民的世論形成を培っていく大きな思想の中核として構想しています。
 原さんは、小泉首相の選挙戦略や改憲策動に、早急に手を打たなければという危機感をお持ちのようです。私とてそれとさほど変わるわけではありませんけれども、総選挙での小泉圧勝の背景にはアメリカの強硬な梃入れがなされたこと、特に情報戦略が極めて高度の宣伝広告技術を駆使して行われたふしがあります。にもかかわらず、本家のアメリカは、ハリケーンやイラク戦争にまつわる失政でブッシュ政権の足元が揺らぎ始めています。いまブッシュ政権の中枢はネオコン派からリアリスト派(その記事は人としてはライス国務長官などをあげています)へ軸足を変えざるを得ないとまで言っています。
 国民全体が、大きなうねりをおこすにはあまりに異なる現実ですが、しっかりとした足元を固めて憲法九条を創造的なものとして再把握すべきです。
 「活憲」を称揚し、「狭い守旧派護憲運動のイデオロギー運動」とみなす原さんの憲法観に私は根本的に疑問をもっています。かつて雑誌『世界』が「平和基本法制定」を論じたことがありました。それは究極的には、自民党改憲派に擦り寄る動きの一端としかならなかったのでした。
 「創憲」も「論憲」も「活憲」もそう大差なく、結局は自民公明民主の改憲勢力の渦の中に飲み込まれていきます。
 いまは劣勢でも、世界中の反戦運動や平和運動に連帯して、日本国憲法の擁護を原則的に貫き、それを現実問題に適用していかに創造的な論陣を張るかが重要なのです。

 最後に原さんの駆使する言葉について。
 原さんは11/18論文で何回か「民主集中性」と使っています。それは『民主集中制』とどう違うのでしょうか。私の理解する「民主集中制」とは、民主主義的中央集権制というよりは、生産力が高まり大工業が発生した段階で、労働過程において生ずる民主的集中制を根本としています。それは労働過程から始まりやがて労働者階級の労働組合や労働者全国政党の組織原則にまで発展していきますが、労働過程が資本主義的生産様式に包摂された段階では必ず資本主義によって疎外されざるを得ないことは必然的です。労働者政党においても。この民主集中制を廃止するのではなく、疎外された民主集中制と闘争し、それを止揚する闘争が為されない限りは、「民主集中制」はかならず労働者の桎梏とならざるをえない。この『さざ波通信』が意義をもつのは、疎外された民主集中制との闘争でもあるからだと私は考えてきました。かつて私も過労で倒れるまでは日本共産党内外にいましたので、いかに「民主集中制」の名の下に「非民主的分散バラバラ制度」がひどいものかは経験的に知っております。
 そして、「統一」と「統合」、「協同」と「共同」を恣意的に使用する原さんの11/18論文では、私が古在由重さんが健闘した原水禁統一の実行委員会のように、共産党も一員とするけれども同じ立場の「統一と協同のテーブル」を構想して述べた概念を、「統一より多様性が必要、テーブルについた共闘の運動や主体形成など必要ありません」とおっしゃっておられますね。
 運動論としては画期的な見解を独創されながらも、原さんの論理には、抵抗運動の存在論や思想、哲学についての展望はうすいものと言わざるを得ないのは残念です。