千坂さん、こんにちは
簡単にできるところから、お返事します。
1、「民主集中性」と書いたのは私のミスプリントで「民主集中制」の誤りです。訂正します。その意味は当サイトの多くの投稿で批判されているものと同じです。千坂さんの言われる「労働過程において生ずる民主的集中制」なるものとは関係ありません。
2、哲学的、思想的素養に欠けるのは私も自認するところで「抵抗運動の存在論や思想、哲学についての展望」を語る能力は私にはありません。
3、指導者が替われば党員が変わるかということについてですが、千坂さんの当初の質問は次のようなものでした。
「それと闘う上で、「不破、志位、市田ら」を全面交代して指導部を民主党のように公開で選挙で変えれば、日本共産党は強大な党に生まれ変わる可能性があるとお考えですか。」「私は、指導部を変えてもそれほど期待できると考えていません。」(11月12日付、千坂投稿)
この質問に対し、私は「指導部を民主党のように公開で選挙で変えれば」、共産党の「民主集中制」が廃棄されるのだから、大いに変わる と答えたのですが、この回答に対する千坂さんの次なる批判は以下のものです。
「いずれもそれらの人民や共産党員の人格的成長の度合いが、経済的社会構成体の未発達も反映して自立した個性的人格が未完成であったことととらえています。」 「私は、指導部だろうが、一般党員であろうが、日本共産党が自立した党員や個性ある人格として個々の党員が自らの創造的主体となることがなければ、いかに指導部が変わろうと、末端は変わらぬという文脈で述べています。」(11月22日付、千坂投稿)
大まかに言えば、戦後市民派リベラルというべき大塚久雄や丸山真男らが提起した問題です。これは共産党員に限らず、日本人の国民性とその文化大革命の問題で、日本における市民革命の成就なしには定着し得ないもの、あるいは市民革命の実現過程で生み出されて来るものです。
私は「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と言い切った丸山を評価するものですが、千坂さんの当初の質問(11月12日付、千坂投稿)とは問題の次元が違います。千坂さんは別々な問題を同一の問題として取り扱われています。現在の組織に置かれた共産党員の問題と、日本人の国民性が同一視されています。私の回答は両者を区別し、前者に対して行ったものです。千坂さんのように同一視すれば、何も現在の組織に置かれた共産党員の問題を論ずる必要はありません。共産党員が「石頭」であるのは、共産党員独自の問題ではなく日本人の歴史的な特質だからです。
問題を現実から離れて、不当に一般化したり、誤った同一化をすれば、問題の所在が見失われてしまいます。
4、「統一と協同のテーブル」についてですが、円卓のフォーラムにしろ、何であれ、現状では特定の諸党派の狭い運動体にしかならないから、それよりは市民が思い思いに自由な9条擁護運動を進めた方が実効性があるというのが私の議論です。それに対し千坂さんは次のような構想を対置されています。
「私は、共産党が指令する従来の統一戦線に比して、共産党を排除しないけれども、日本共産党も構成の一員に過ぎないようなテーブル(円卓)方式のフォーラム形式こそ、いままでのピラミッド型組織に対して、新たな可能性を拓くものと考えています。それは、緊急の運動論として早急に実現するものではないかも知れません。しかし、運動論以前に存在論として、多くの国民をアメリカの世界覇権主義やネオコンのブッシュ戦略に対して、自民党の良識派をも含めて、日本の国民的世論形成を培っていく大きな思想の中核として構想しています。」
自民党の改憲策動に反対する運動も、「存在論」としてのこのフォーラム形式に結集していくことになるのでしょうが、この「存在論」としてのフォーラム形式は、9条擁護や改憲反対などの一点で結集するものとは違いますよね。フォーラム形式の何らかの存在を「大きな思想の中核」とする構想で、そこへ結集するには「アメリカの世界覇権主義やネオコンのブッシュ戦略に対して」反対するように国民を説得しながら、なおかつ、改憲反対の説得をもしなければならないわけですよね。
これでは課題が多すぎて改憲反対運動を狭いものにするばかりです。千坂さんが認定される「自立した個性的人格が未完成」な日本人には重すぎる課題じゃないですか? ブッシュとネオコンとアメリカの世界戦略の関係を国民に説明しているうちに、国民はどっかに行ってしまいます。右傾化する国民意識の現状を考えればなおさらのことです。
いずれ、何らかのセンターを持つようになるにしろ、現状では、それはいたるところで進められる運動の盛り上がりの中から形が見えてくるもので、多分、9条擁護の一点で結集するようなセンターになるでしょう。「大きな思想の中核」の形成は国民的大運道による9条擁護の勝利の暁に見えてくる将来の課題だと思います。現在の政党状況、国民の政治意識や千坂さんの構想にある政治課題のはらむ困難さ、広範さを考慮すれば、千坂さんの構想は順序が逆になっています。
5、最後の問題です。今、これが議論すべき一番大事なことです。千坂さんは次のように述べておられます。
「かつて雑誌『世界』が『平和基本法制定』を論じたことがありました。それは究極的には、自民党改憲派に擦り寄る動きの一端としかならなかったのでした。『創憲』も『論憲』も『活憲』もそう大差なく、結局は自民公明民主の改憲勢力の渦の中に飲み込まれていきます。」
千坂さんは「創憲」も「論憲」も「活憲」も「大差なく」「改憲勢力の渦の中に飲み込まれていきます」と述べています。しかし、この議論はまちがっています。これまで、よくこうした議論が共産党サイドを中心に言われてきました。
この議論のまちがいを説明するために次のような議論を出すことにしましょう。旧来の護憲論(注1)もまた9割方はすでに改憲論に飲み込まれているのだと。
千坂さんのここでの主張は護憲論が全盛期で自民党が改憲など言い出せなかった時代に正しかった議論なのです。その時代は護憲運動の国民的発展など真剣に考える必要がなく、せいぜい、憲法記念日に集会を開いて憲法論争をするだけでよかった。つまり、憲法をめぐる戦闘は論壇レベルが中心であり、そこでは改憲論に飲み込まれない(つけ入れられない)議論ということに全戦闘の一中心点があったわけです。当然、各種の憲法論をこの中心点から評価することにひとつの正当性がありました。世論は護憲派であり、憲法擁護の論戦で足りた時代です。
<(注1)ここで用いた旧来の護憲論という言葉の意味は次のようなものです。現行憲法は侵略戦争への深い反省に立ち獲得された平和憲法であり、その改変はいかなるものであれ平和憲法を改悪するもので、絶対に認められないし、変えてはならない、と特徴づけられる議論のことです。>
ところが現在では世論の7割強が改憲容認であり、国会議席の9割は改憲派が占拠するような状態になっています。憲法をめぐる政治情勢はすっかり変わってしまったのです。護憲派は論戦で改憲派に飲み込まれない議論をしていれば済む時代ではなくなったのです。
護憲論の主張は国民的運動を大規模に誘発する議論に発展しなければ、論戦としての勝利もあり得ない時代になったのです。つまり、自民党による改憲が現実のものになってきており、仮に実現されれば、論としての護憲論もまた現実には飲み込まれることになるのです。かつては護憲論で足りた。しかし、現在は護憲論プラス国民的憲法擁護運動の発展という枠組みで戦いを組む必要があり、各憲法論に対する評価もまたこの枠組みの視点から評価しなければ現実に有効なものになりません。各憲法論間の論戦のレベルだけで各憲法論を評価できない時代になっているのです。
千坂さんの議論はかつての護憲論で足りた時代とその論戦のレベルを暗黙の前提に置き、単に護憲論の論陣の視点から「飲み込まれる」と評価しているから誤りなのです。
かつては、戦争の惨禍への反省を背景として改憲策動が逼塞しており、憲法擁護の論陣だけで憲法を守るほぼ必要十分条件を満たしていました。その意味では国民の平和意識を風化させない論陣の陣立てが主要な問題であり、その陣立ての視点から各種の議論(論憲、創憲、加憲、活憲など)を評価することができました。
しかし、今日、旧来の陣立ての視点からのみ各議論を評価することでは足りません。国民的憲法擁護運動を誘発する陣立てが必要になっており、その時代に、旧来の論戦で足りた時代の護憲論で各種の議論を評価することは今日の現実を過去の現実と同一視することを意味するのです。これは現実の見誤りであり、過去の時代に正しかった議論をそれが適用できない時代にあてはめるという意味でひとつの観念論、教条に転化するのです。護憲論が現実の変化に対応できずに教条への転化していくのです。
現在の共産党の議論を見ていると、この違いがわからない。一つの観念論に転化することによって、過去に正しかった議論が現実を見誤った教条に転化するということがどうしてもわからないのです。護憲派はピンチだという現状を知っていてもなおかつこうした過去に正しかった議論をするというということは、事実の上で、現状が護憲派にとってピンチだということがわからないことを意味しているのです。
それだから、万古不易の議論と作戦が出てきて、他者を批判し、結集すべき仲間を蹴散らしてしまう仕儀に相成るのです。自民、民主らの改憲、創憲は論外として、その批判が同じ陣営の、市民の間から湧き起こってくるあれこれの「活憲」論に集中してくるようになるであろう原因もまたここにあります。
同様のことは、国民投票法をめぐる対処法で先行して示されるでしょう。
千坂さんがまちがっているという私の主張で最後に残っている問題は、従来の護憲論ではなぜ国民的大運道を誘発できないのかという問題です。 その答は現実そのものが示しています。従来の護憲論でやって来て、世論の7割強が改憲容認となっているという事実がそれです。この現状認識から私の言う「活憲」論が錦の御旗になる可能性があるという議論が出てくるのですが、その内容は、いずれまた、ということにしますが、要するに多くの国民を、すなわち、9条を堅持し、なおかつ改憲を容認する国民をも結集できる護憲論ということに鍵があるのだと思っているのです。
蛇足ながら、千坂さんの抱く二つの誤解を解いておきます。
まず、私は『活憲』を称揚しているわけではありません。私は次のように書いています。「『活憲』論に立った9条擁護が自民党の改憲論を迎え撃つ錦の御旗になる可能性が高いのです。」 つまり、実際の9条擁護の運動を見回すと、さまざまな議論(注2)が出てきており、その中で広範な民意を結集していけそうな議論は、旧来の護憲論ではなく「活憲」論になりそうだ、と言っているのです。9条擁護運動についての現状認識です。私はまだ「活憲」論の中身を述べておらず、旗も振ってはいません。
<(注2)おりしも、法政大学の五十嵐仁教授の「活憲」という名の著作(五十嵐仁サイト参照)も出版されるようですから、市民サイドの議論を広範に渉猟し研究してみる必要があります。>
それから旧来の憲法改悪反対運動を私が「狭い守旧派護憲運動のイデオロギー運動とみな」しているわけではありません。私は次のように言っています。
「(共産党は)伝統的な「護憲、護憲」の一本槍で、護憲論が特定の政治勢力の「ゴケン」イデオロギーにされてしまいかねない危険性があるのです。」
つまり、政治情勢や国民意識の変化を考慮しない共産党の「憲法改悪反対」一本槍の旧来の議論は、現在の政治情勢の下では、特定党派・共産党などに特有の議論として、「イデオロギー」のレッテルを敵から張られ狭い運動に閉じこめられてしまう危険性があると言っているのです。これは共産党などの護憲運動についての現状認識です。通史的な私の護憲運動観ではないのです。
どうも、この辺が千坂さんには区別していただけないようですね。60年代、70年代、80年代とそれなりに憲法擁護の積極的な役割を果たしてきた護憲運動も、そのままの形では、現在の政治情勢においては同じ役割を果たせなくなってきていると言っているのです。護憲論が狭い「護憲イデオロギー」にされかねない危険性は、敵の攻撃と味方による護憲論の教条化によって生み出されるのです。