日本共産党資料館

『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」

  一

 私の戦後初期論集の第三巻にあたる本書には、日本共産党指導部の一人として、私がおこなった報告や論文のうち約二十編とともに、党が不幸な分裂におかれた時期以後のいわゆる五〇年問題を直接主題にしたものを中心に十一編の論文がおさめられている。短い二編は直接関係あるものではないが、その時期の執筆のものとして加えた。私の書いた五〇年問題の諸論がはじめて本書におさめられて、量的にも本書の過半数の分量をしめている。
 私が戦後初期におかれた状況については、既刊の『天皇制批判について』『民主民族戦線の展開』の「まえがき」などでもふれたが、初期論集を終わるにあたって、若干付言しよう。
 私は戦前、学生時代に仲間とともに社会科学を学び、人類の知的集大成としての科学的社会主義共産主義の正当性を学問的に確信し、それを実践に生かすために、当時非合法だった日本共産党に入党した。日本社会の民主的進歩的発展をはばむ絶対主義的天皇制と侵略戦争に反対して、民主的日本を建設し、それを通じて社会主義日本をめざす道を歩んだ。日本共産党は、迫害・弾圧をうけ、私も長期投獄をうけたが、この党の活動と展望こそが唯一の正しい未来をさし示し得たことは、客観的に歴史が証明した。
 戦後、はじめて日本共産党が公然活動にのりだした。私自身も獄中の日々、まさに夢見たその日の到来であった。しかし情勢は複雑多岐で、緊張した日々の活動が求められた。獄中で非転向を貫いた少数の者が中心となって再建された党は、様々な難問をかかえた。アメリカ帝国主義の軍隊が日本に進駐してきた状況から、日本の歴史上はじめて、他民族支配からの真の独立の課題が日本の新しい重大問題となってきた。日本共産党は、アメリカの反共政策からの様々な迫害に直面しつつも、日本の諸政党のなかで、もっとも民主的で進歩的な方策をかかげ、進歩勢力の共同統一戦線にも熱心にとりくんだ。党は戦略上のねりあげ、指導部の集団指導の未確立、自主性の未確立などの主体的客観的な制約と欠陥をもちつつも、第六回党大会の行動綱領や民主民族戦線のよびかけなど、積極的な方針の下に各分野でたたかった。それらの成果は、私が『民主民族戦線の展開』の「まえがき」で戦後最初の高揚期とよんだ一千万人をこえる民主主義擁護同盟の結成や、一九四九年一月の総選挙での二百九十八万の得票、三十五人の当選にも現れた。
 著者自身のことについていえば、出獄した一九四五年の十月から一九四六年にかけて党活動のさなか三十編余りの論文を書いたことは、まずかなり精力的であったといえよう。獄中十二年間の空白があったのにとの問いにたいして、獄中生活の中で身体的には拷問、病気など様々の災厄は覚悟の上として、精神的には共産主義者としての活力の継続性のための工夫を重ねたことが私に浮かんでくる。
 私は、『自由と独立への前進』への付録として出したような「治安維持法改悪反対闘争のボルシェヴィキ的展開のために」「現在における経営細胞建設の意義とその任務」その他いくつかの論文を、検挙前に書いている。指導的メンバーが絶えず検挙をうけた地下活動のなかで、私も若輩ながら党中央の一員としての責任を果たさなければならなかったからである。
 検挙されたあと、留置場で私は何も読めない日々、党の政治路線である民主主義革命から社会主義革命への路線についての動かない確信の下に、地下活動の党建設について、いかに不敗の党をつくるかという公案に思いをはせた。時間は十分にあった三百余日の留置場生活での私の結論は、十分可能ということだった。
 未決の刑務所で教誨師の検閲下であるが、可能な読書をできるだけ系統的に、とくに日本社会の歴史と現実についての基礎知識の蓄積につとめた。
 この時期の読書について、私は一九三四年の宮本百合子宛の葉書のなかで「ここでの読書のプランは、中心を、政治・経済・軍事に関する具体的知識を深めることにおき、併せて、芸術哲学、歴史伝記等を学びたい」と書いている。基礎的知識は「現代についての具体的知識」、社会経済史、マルクス主義の三つの源泉といわれる近代古典。〝軍事〟というのは、日本の政治で侵略戦争が一つの基軸となっているので、私はレーニンもあげていたクラウゼヴィッツの「戦争論」も読んだ。このコースで「初年度は約一七〇冊読んだ」と「私の読書遍歴」(一九五二年)で書いている。
 私が公判以外はいっさい黙秘を貫いた結果、公判が始まると一般にはすでに発売禁止処分になっていたマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作を、共産主義運動の関係文献、公判資料として差し入れることを可能にし、改めて系統的に詳細に読むことができ、科学的社会主義の原理への理解と確信をいっそう深めることが出来た。
 私は、日本の情勢の急変なしには早々出獄を考えることは出来なかったが――それは日本の侵略戦争の歴史的な失敗なしにはおこり得ないと考えていたが――私の心の準備は、十二年前の投獄された時の社会変革の運動の一員としてのひきつづく活動に備えていた。
 私は戦後、政治局員、アジプロ部長、統制委員会議長等の任務についていたので、全般的問題とともに、具体的諸問題についても書いた。地方にもたびたび出張して、党組織内外の人々とも接して皆の声もきいた。
 主題としては、党員三倍加運動、アジプロ活動の改善、基礎理論の重視、党生活での民主集中制と規律を前提としての党内民主主義と同志愛の重要性、党風についての党外大衆への接し方と党内生活の基準、党内討議の民主的作風と個人的感情的態度への批判、党内外のインテリゲンチャからの要望についてなど、多岐にわたっていた。また、そのなかには、今日の革命運動の古くて新しい課題となっているものも少なくない。
 いちいち個々の論文の説明にたちかえることはしないが、これらの問題は、初めて公然活動をはじめた日本の前衛党にとっては、科学的社会主義の立場からの未開拓の分野への鍬入れ作業の開始だった。
 アチソン反共演説のあとながら、「社会主義国の平和政策の輝かしい進行、欧州の新民主主義共和国の成長、世界労働組合会議の役割の増大」(「組織的に精力的に、実現せよ党員倍加」)の局面についての明るい特徴にも言及していた。ロシア革命、中国革命と違って、日本では「民主主義革命の徹底を武装蜂起によらず遂行し、それを通じて社会主義の建設を行なうという方向にある」として、ロシア革命等とは違っていることを私たちは重視していた。この点では、日本の現実への判断は基本的に現実主義にたっていた。しかも、世界はどこでもまだ、発達した資本主義国での革命の実例をもっていなかった。日本の共産主義者の緻密で勇気ある探究と挑戦が歴史的に求められていたのである。
 今日の課題との関係で少し立ち入っておくことがある。「党活動について」の統一戦線の項目は、コミンテルン第七回大会の決議を引用して、当時、「日本の社会党の指導部は右翼の勢力下」におかれていると分析して、「地方でも社会党本部の反動的幹部に追随する右翼小幹部への無条件的追随をこととしては、決して民主戦線はうまれない。共産党とともに戦闘的な民主戦線をつくろうとする、社会党左翼幹部と大衆および一切の民主的団体とのあいだにこそ、民主戦線はつくられるのである」としている。この判断は、今日からみても根拠があった。
 コミンテルン第七回大会は、ファシズムと闘うための統一戦線の実現を国際労働運動の当面の主要な任務として、その見地から社会民主党その他勤労者の諸組織との共同活動を達成することにつとめなければならないとした。しかし、「党活動について」で引用した決議も示すように「共産主義者は統一戦線に反対する社民党右翼の議論を暴露し、社民党の反動分子とたたかい、共産党との統一戦線に賛成である、社会民主党の左翼的労働者および役員ならびに機関と密接に協力すべきである」(第七回コミンテルン大会の決議)としている。
 よく、社会党批判などについて、すべてを社会民主主義主要打撃論などと批判する向きがいまでもあるが、コミンテルン第七回大会の決議も決して統一戦線に反対する右翼社会民主主義潮流への批判を不当としたものでないだけでなく、社会民主党の指導部が右翼反共分裂主義の勢力ににぎられているときに、その指導傾向のあやまりの実態を批判することなしには、社会民主党のより誠実な部分との統一も達成されないことを力説している。もちろん、この大会は、戦争とファシズムに対して、統一戦線を築くために、社会民主主義勢力との共同につとめることを当然強調しているが、なお、その共同も、社民党の分裂主義的指導部によって妨害されている状況下では、拱手傍観でも、分裂主義への追随でもなく、当然、断固として批判を求めているものである。
 この点は、今の日本でも、とくに一九八〇年以来、反共社公合意の反革新的役割が顕著となり、一方、一部社会主義国からの日本社会党美化問題が今日大きな問題となっているとき、歴史の教訓として忘れられてはならないものである。
 総じて、この時期、日本共産党は戦略的には模索中であり、当面の革命と社会主義革命の関係が、あとで実現されたような明確さで理論的規定を伴って分析されてはいなかったが、「国の独立をふくむ人民のための民主主義革命」という第六回党大会の目標は、重要な意義をもっていた。そして、党建設の課題でもさまざまな積極的な探究と実践のために努力がおこなわれたことは、この論集にもその一端が反映している。
 ただし、党指導の核心である党中央での集団指導の欠如など、重大問題をかかえていた。それが結局、五〇年問題での未曽有の困難となってあらわれた。
 いま一つの重大な欠陥、限界として、当時の国際的風潮であったが、ソ連や中国の共産党への事大主義的追随傾向が支配的であった。そこから国際問題での自主性の欠如が、党内問題での自発的対処をきわめて困難にした。第六回党大会から第七回党大会にかけての十年以上の歳月にわたる全党員とその周囲の人々の、涙と汗を伴う文字通りの苦闘が、それをのりこえるために注がれなくてはならなかった。

  二

 五〇年問題は、日本共産党史上、最大の悲劇的な大事件だった。かつて、これほどの大きな誤りはなかったし、これからもないだろう。絶対にないことを願わずにはおれない。この問題については、『日本共産党五〇年問題資料文献集』(全四冊、九三四ページ)があって、資料的には公表された当時の文献がまとめられている。
 一九五〇年六月六日、アメリカ占領軍の司令官マッカーサーの追放令によって、日本共産党中央委員会の全員に、軍国主義者を公職から追放する公職追放令が適用された。この時、二十日間の猶予期間があったのに、徳田球一はじめ政治局の若干名は、この弾圧を機に正規の連絡を断ち、政治局員である宮本、志賀をはじめ何名かの中央委員をも一方的に排除して、徳田らだけが党の指導にあたることを申し合わせて、中央委員会は機能を失ったと称して公然機関として椎野悦朗を長とする臨時中央指導部(臨中)なるものをつくって、彼らの指導下においた。政治局分裂につづく中央委員会の解体措置であった。
 私は十八中総(第六回党大会第十八回拡大中央委員会総会――一九五〇年一月十八日~二十日)以後、政治局の多数決による決定によって、私の意思に反して九州地方の党組織に派遣されていた。地方に行けば統制委員会議長の兼任は無理という口実で、議長代理に椎野悦朗がついたが、発表は統制委員会議長とされ、以後訂正されなかった。私はこの追放令が発表された後、直ちに帰京した。党本部に行って、党指導部に連絡を求めた。不自然な空白を残さないために率直に書くが、野坂政治局員と会った。マッカーサーの決定は党大会や党中央の決定を無効とし得るものではないので当然、正式の公職追放までの猶予期間もあり、今後の党活動について協議すべきであるというのが私の主張だった。これに対しては全く要領を得ない対応であった。まともに同志的に問題を協議しようとする態度でなく、この夏は「氷屋でもやって暮らすか」という調子だった。他にも連絡を断たれた中央役員の党本部に出向いた時の話も私の耳に入った。その後も、再三、党本部を訪れたが、要領を得ないままに猶予期間も過ぎ、公職追放令の発動によって、私たちは公職追放者として、当局の様々な規制措置を受けるようになった。
 その後の内外情勢の推移と党の状態――私自身が中央委員として、第六回党大会で選出された中央委員会で政治局員に推された人間としてどんな方針で活動したかということは、この巻に収めた諸論文に詳細に展開されている。
 ここではその後、四十年近い歳月が経過した今でも、とくに印象深かった発端としての私への除名カンパニアの開始と、それ以後、私がここに収めた論文を書いた時期の特徴、とくにこの問題の展開を通して明らかになった内外にわたる中心点と教訓の基本についてだけ略記する。

 党本部で、政治局員の一人である自分がどのような対応を受けているかを考えて、私は全体として、党が大きな危機に向かわされていることを心からの驚きと憤激をもって受けとらざるを得なかった。「分派活動の全貌について」などという統制委員会名の文書が「党活動指針」に発表され、統制委員である私への事前の何らの招集通知もなく、もちろん私の意見も聞かず、このように私や他の党役員への除名カンパニアが開始された時は、第六回党大会で正式に選挙された役員への党籍の剥奪がこのような陰惨な形ですすめられていることに強い衝撃をもって受け止めざるを得なかった。
 問題の核心は、マッカーサーの弾圧を契機として党の指導を党中央委員会の政治局の特定の人たちのグループで独占し、しかもそれを合理化するための様々な詭計が党の正規の指導のごとく用いられて、事態の真相が内外の人々に判別できないようにされたまま、党中央委員会の解体下での党の分裂が押し進められたことにある。中央委員会の機能のこのような破壊は、何の弁明も許されない解党主義の一種であることを、私はレーニンの著作などから確信していた。そして、この異常を批判し、中央委員会の機能の正常化を求める中央委員や党組織の活動を「分派」呼ばわりして除名カンパニアが敢行されたことでこの異常さは倍加され、革命運動はふかい混乱の中に投げこまれた。多くの党員はこの真相とそのおそるべき意味を知らされない状態におかれていた。
 このような事態が招来された主体的条件は、当時の党指導部の中にあった。当時の党全体は、戦後の党再建の下、民主革命への反動勢力からの妨害に抗して、政策的組織的に全体として前進をつづけてきた。とくにアメリカの全面占領に抗して「民族独立」の旗をかかげた民主民族戦線の結集のために奮闘し、大衆運動、選挙戦でも高揚をつくりだした。しかし、党中央の指導には重大問題があった。書記長だった徳田球一は獄中で十八年も非転向で頑張った同志であり精力的な活動家だったが、彼を中心とする家父長的個人中心指導がはびこった。集団指導と個人責任の結合がなく、批判・相互批判の気風もなく、科学的社会主義と原則的理論の著しい軽視があった。そこに、後で禍根となった投機的な不純分子が党指導の中心に接近・潜入する余地を残した。
 一九五〇年のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)批判や綱領問題についての探究という状況の中で、あくまで家父長的指導を握りつづけようとする徳田らのあせりと不安が、党内の問題をあくまでも党内民主主義で解決する方向でなく、情勢の急変にかこつけてあのようないわば「クーデター的な手法」に訴えたのである。そのことは、内外の反動勢力の攻撃を警告し、党の思想的組織的統一と強化のため「全政治局員はじめ全員」の一致したたたかいを強調した十九中総の直後に徳田を中心とする特定の政治局員などの集まりが党本部近くの家で開かれたというその後の確認によっても、歴史的事実として裏付けされていることである。

 国際環境と党の自主性への未成熟もこの暴挙を阻止するのに有利でなかった。当時の世界の共産主義運動はソ連無謬論とスターリンの強大な権威によって、コミンフォルムは事実上、コミンテルンの再生を思わせるものがあった。毛沢東も「蛇にも頭がある」と言ってソ連の指導性を認めていた。ソ連の党は、中国の党もそうだったが、第二次世界大戦中の栄光の余光をもっていただけでなく、国際的にも全体として、恒久的平和のための先進的部分として世界の勤労者の支持をえる要素をもっていた。善意からの敬意もこれらの党への過大な評価を醸成する要件に入っていた。
 一九五〇年一月六日のコミンフォルムの論評やその後中国共産党の機関紙人民日報の同年一月十七日、九月三日等の主張は、日本共産党の隊列に大きな影響を及ぼした。コミンフォルム論評は、当時のアメリカ占領軍支配下での情勢と行動綱領の方向をいわゆる「野坂理論」との関係で論じ、中央委員会は結果的には満場一致で承認ということになったが、それに内心不服をもった人々の底にあったのは、「野坂理論―占領下平和革命論」への批判の問題だけでなく、それが党の指導的中核への批判となるという問題であった。その批判の仕方がいきなり、困難な条件下の党への頭ごしの唐突の批判であったことはたしかに乱暴で、そこに異議をもったことは自然なことだった。一月十二日の政治局が多数決で決めた「『日本の情勢について』に関する所感」は、その不満をたしかに表明していたが、日本の情勢と「野坂理論」として表明された傾向への本格的再検討の意志はないものだった。人民日報の一月十七日社説は、この「所感」への批判にあてられたものだが、十八日の拡大中央委員会総会が「所感」を支持せず、一致してコミンフォルム論評の積極的意義を認めることになったのは、多くの人々が批判の仕方よりもこれまでの党内にあった情勢と戦略的方向についての不明確さの解明、党指導の刷新に役立つと判断したことが主な動機だったろう。
 たしかに、コミンフォルムの批判の仕方は乱暴で、そこにその後の党分裂問題での大国主義的干渉との関連をみることが出来るのだが、「所感」の支持者たちが大国主義的干渉反対で一貫しなかったことは六・六追放後、中国共産党の指導部からの日本での武力闘争奨励への彼ら自身の呼応や中国への亡命のいきさつ、その他からして明白だった。
 「所感」を多数決で採択した政治局員らは十八中絵で「所感」の撤回を余儀なくされた後も、「所感」に反対した人々を十九中総でも排除する官僚的セクト的傾向をつづけ、党の分裂の主要な一因となった。中央委員会の分裂に反対し、その機能回復を求めたものが、私をふくめ、分裂を敢行した中心勢力について、当時、端的に「所感派分派」という名称を用いたのは、そういう傾向を重視したからであった。

 この事態を科学的にどう規定するかということは、この問題解明の政治上、理論上の核心であった。第七回大会を準備するための第六回大会選出の中央役員といわゆる六全協で選ばれた中央役員の合同会議(一九五七年十月)で、徳田中心の集まりが十九中総直後ひらかれたことについて次のように分析した。「この会合に参加した人々の主観的な意図と動機は必ずしもおなじではないが、これらの人々の行動は参加した個々人の主観的意図いかんにかかわらず、また政治局の多数者の行動であったとはいえ、十九中総の一致団結の決定に反するだけでなく、党の規約と組織原則に反して政治局の統一的運営を破るものであった。厳密にいえば、政治局内にフラクションを形成する誤りを犯したことになる。これは政治局と中央委員会の分裂の第一歩であった」。この中で、とくに「厳密にいえば」などと書いているのは、これを関係者たちの主観的意図はともかく、科学的社会主義の原則からみれば、こうなるという説得的な表現とみるべきである。
 党中央委員会の分裂――中央委員会の解体に反対して、党中央委員会の機能の回復を求めた立場の中央委員にとって最大の難問は、この活動のために何をすべきかということだった。こういう実例について、先駆的に正しい道を示したケースは、国際的にも見当たらなかった。拱手傍観――文字通り何もしないで状況の変化を待つという典型的な日和見主義に立たず、党大会で選ばれた中央役員としての責任を果たすには、政治目標として第六回党大会の行動綱領があったが、組織的には統一をのぞむ中央委員とそれに同調する連絡組織をつくるしかないというのが、何度も協議した結論だった。これは所感派グループから「分派」という名目で排撃されても、ここに唯一の大義名分があるという確信を実行するしかないというのが、私たちの信念だった。これらの党役員はマッカーサーの追放命令でいつも警察の監視下におかれた。また、中央役員をのぞく党組織は公然性を保っていたので、公然機関として、一九五〇年九月に全国統一委員会がつくられた。
 ソ連共産党や中国共産党の発言が、国際的に大きないわば決定的権威をもっていた情勢の中で、どうしてもこれらの党の理解を得るということを避けるわけにはいかないので、そのための代表の派遣もおこなった。しかし、徳田球一、西沢隆二らはすでに北京に渡っていた。志賀義雄は九月三日の人民日報の社説の直後、国際的雲行きが徳田たちに有利らしい状況をみて、早くもこの共同行動から離脱した。
 人民日報の九月三日の社説「今こそ日本人民は団結し敵にあたる時である」は「日本共産党中央」の周囲への団結をよびかけたもので、起こっている事態の原則的で放置できない問題点を見れないものだったが、日本共産党の歴史的役割への期待などは説得的な調子のものだった。この論評に接して全国統一委員会側は誠意をつくす立場から、自らの解散を声明し臨時中央指導部に話し合いを申し入れたが、これは拒否された。「分裂の固定化」がされる事態の下で統一を求める中央役員側が、全国統一会議をつくり理論機関誌を発行した。その連絡組織は十以上の地方党組織に及んだ。
 徳田派は党規約に反するやり方で四全協を開き、極左冒険主義の方針を決定した。これは第六回大会や十八中総、十九中総の政治方針からの全くの逸脱であった。また、「分派主義者に関する決議」をおこない、その分裂と中央委員会解体方針の正当化をおこなった。コミンフォルムの機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」にこれが掲載されると、それは分裂促進勢力にいっそう誤った自信を与え、日本ですすんでいた統一のための話し合いの気運の阻止に作用した。
 後に判明したのだが、この頃モスクワでスターリンの下で日本から参加した代表をふくむ会議がおこなわれ、統一の回復を主張するものを「分派」と裁定し、五一年綱領が押しつけられた。袴田は党分裂の真相を説明するために外国に派遣されたもので、他の重要問題で、とくにこれまでの立場に反して同調する権限は一切なく、明らかに越権行為であった。私たちは、コミンフォルムが誤った態度をとり、日本共産党の内部問題に不当な干渉をしたことに、批判と憤懣を禁じ得なかった。しかし、やむなく「全国統一会議」の解散を声明した。私は二つの共産党に分裂が固定化する事態を避けることを重視していた。
 一九五〇年一月コミンフォルム論評「日本の情勢について」の時から、一九五一年八月の四全協についてのコミンフォルムの報道までの間に、私自身のコミンフォルム観は大きく変わらざるを得なかった。自分たちが身をもって日々切り開こうとしている日本共産党のまさに内部問題についての、実情を知らない干渉の不当さというのが私の判断の到着点だった。

 日本共産党はその後、レッドパージなどの弾圧ともあいまって惨憺たる状況におかれた。国際的に指導権を公認された徳田派の極左日和見主義指導の強行とそれに伴った弾圧、五一年綱領の無条件支持の強要、党内の誤った分派狩りと糾問は党員の離散を早めた。五一年綱領はスターリンの指導下につくったものだから、討議はしても一言一句変更は許されないという五全協以来の指導は、共産党の大衆討議では本来全くあり得ないことだった。
 党員数は過去の数分の一以下となった。大衆の支持も急速に減退した。選挙での党への支持は一九四九年の二百九十八万票、一九五二年十月の八十九万票、一九五三年四月の六十五万票と支持者の約五分の四を失った。一九五二年十月の第二十五回総選挙では一人の当選者も出すことが出来なかった。党に近かった民主諸団体も混乱の渦に巻き込まれていた。
 極左冒険主義への日本人民の拒否、党勢の著しい衰退、党内矛盾の激化と「総点検運動」による統制強化等の失敗、徳田の北京での死、北京での伊藤律の失脚等があいつぎ、これらを契機としてこれまでの徳田派の党活動の再点検気運がおこった。徳田派の国内での中枢にいた志田重男らが、当時、党機関の外にいた宮本との会談で、運動の転換について協議をもちかけたのは、そういう状況であった。「六全協」の内容ができた経過についても徳田死去後、北京に亡命していた人々のモクスワ訪問ののち、結局、最終的にはモスクワでの協議の結果として伝えられた。
 しかし、その後党は、革命運動の自主的進行をすすめ、第七回党大会でいわゆる五一年綱領を正式に廃止し、行動綱領を決定した。綱領の正式決定は第八回党大会に持ち越された。内外情勢と党内の要求にこたえて、新しい前進と統一の基準を確立するために力がつくされた。

  三

 以上は、五〇年問題の問題点の核心についての簡単なスケッチだが、ここには世界と日本の共産主義運動の負の遺産が、重なり合って日本の党史上未曽有の否定的局面として展開された。
 それは直接、間接の関係者、何十万という人々の確信と希望、絶望と挫折の入り混じった悲劇の局面だった。科学的社会主義の原則へのゆるがない信念による日本の革命運動の自主的再建の展望をつくり出すことで、この大きな悲劇を未来への光ある序曲に転ずることこそ、私たちの新しい生きがいだった。
 一九五九年三月三日、中国鄭州で会った毛沢東は、私が求めもしないのに過去、ソ連のスターリンの勧告の下で日本共産党の分裂問題のときとった態度の干渉の誤りを私に率直に詫びた。各国の運動は自主独立であること、誤りがおこったら自分たちの手で自主的に直すことだということを、中国革命の対ソ関係の教訓としても語った。思わぬことに多くの言葉もなく、彼の反省の言葉を率直に受け取った瞬間だった。一九六六年、アメリカのベトナム侵略反対の国際統一戦線について毛沢東と話せば分かるだろうという私にあった期待は、一九五九年にみた毛沢東の率直さへの評価に根ざしていたようだ。しかし、一九六六年の会談で反米反ソの統一戦線論の固執の源が彼であることを知り、またその直後の「文化大革命」での彼の役割を知り、現在の日中両党関係を考えると、私の今日での批判的感慨は単純ではあり得ない。
 第六回党大会から第七回党大会にかけての党の組織原則にもとづく正統性を確立するとともに、自らの綱領案を、三年間の党内大衆討議にかけて全く自主的に練り上げて、第八回党大会で満場一致で採択した。私は第七回党大会で党書記長に選ばれたが、五〇年問題という大きな傷を負った党の再出発にあたって、とくに指導部として人事問題で重視したことは、第八回党大会の政治的組織的方針で団結する以上、分裂の時期の立場の如何にかかわらず、能力と品性、誠実さで活動家を選び、前方に向かって団結するということだった。それは大勢として、第八回党大会後の党の統一と前進は、この原則的な広い団結の立場が道理にかない、適切なものであったことを証明したと思う。一九五七年から五八年にかけての志田重男、椎野悦朗らへの処分は、彼らの地下活動中の腐敗が暴露して、彼ら自ら党機関の調査から逃亡したものだった。
 野坂さんは、第七回党大会以来同じ戦列にあって、先に九十五歳を党として祝った。

 この巻におさめた論文は発表の時期と条件は種々だが、政治情勢の激変のために、執筆時の条件も著しく異なっているのが特徴的である。
 「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」は、十八中総が政治局「所感」の撤回と野坂自己批判論文を承認した後の事態に書いたものである。
 「論評」が外部からの手法としては乱暴な介入的論評であったのに、あのようなうけとめとなったのは、ただ党がまだ、ソ連や中国などの党への対外的な事大主義を脱していなかったというだけの条件からみることの出来ないものであった。すでに第六回大会の行動綱領をはじめアメリカ帝国主義の日本全面占領の問題は、その日本の支配階級への政策とともに、党の路線にとっても重大問題となり、討議されはじめていた綱領問題としても第一義的な意義をもっていた。だが、党指導にあった理論軽視、家父長的個人中心指導と結びついた官僚主義のもとでの相互批判の欠如の風潮の中で、科学的解明は全体として少なくない渋滞と一部に実践的な混迷、たとえば、吉田内閣を打倒さえすれば権力獲得可能とか、その地方警察力をマヒさせれば地方権力の獲得は可能などの偏向論議を伴い、しかもその誤りを指摘する意見も少なくなかったが、党内討議で是正することが妨げられていた。
 私の論文の基本は、それらの事を党の到達点の前進を願いながら解明して、党の戦略的展望と当面の目標との統一的前進をはかることにあった。今日からみれば、ソ連の千島問題、コミンフォルムそのものの評価など、すでにその後の党の自主的発展の中でのりこえ、克服してきた諸問題を内包しているという弱点はあるが、同時に、当時のソ連の国際政策にも各国の労働者階級の支持をうける積極的要素があったことも特徴的だった。ソ連は、国連では原子兵器禁止のグロムイコ提案のような先駆的提起をした。ストックホルム・アピールについても非常に積極的だった。「右翼社会民主主義者との闘争と労働者階級の統一」と、国際的にも右翼社会民主主義の分裂的役割を指摘していたことなどもそうである。また、ソ連はアメリカの対日占領の延長である単独講和に反対し全面講和を明確に主張していた。従って、こういうソ連の方針への当時のわが党の賛同は認識上、一定の根拠があったもので、単に事大主義にもとづくだけとすることは適切ではない。
 日本の勤労大衆の一定の積極的評価を得たソ連のこれらの点が、核兵器全面禁止の棚上げ、部分核停条約の美化、右翼社会民主主義勢力との癒着と利用、ケネディ美化論などの無原則的な対米方針に転換したのは、フルシチョフ以後のことに属し、とくにそれは日本では、革命運動、平和運動への露骨な干渉を伴った。この大国主義は残念ながら今日も引き継がれている。
 私は戦後初期論集第二巻の「まえがき」で、中曽根康弘が首相在職中、一九四九年、一九五〇年「当時の共産党はまだ武力、暴力共産党であった」として「共産党が電源を爆破して日本を革命しようとしている」などと述べ、当時の私の行動として、群馬に入って「暴力革命的なことを教えこんだ」とした事実無根の誹謗について、私が民事裁判に訴えていると書いた。中曽根の弁護者たちは、その後も党中傷に手段を選ばないものとしてコミンフォルムの「論評」と当時の党の問題を根本的に歪めている。
 いわゆる「野坂理論」とされた「占領下の平和革命論」は、アメリカの全一的武力占領下で、政権獲得を甘く主観的に展望したもので、正しくないものであった。当然のことながら、「野坂理論」を批判することが占領下の武装闘争を主張することと同じ意味では全くなかった。「論評」自体も、そういうことを何ら主張していない。反対に当時の党の主張と同じく、政策的にも実践的にもポツダム宣言の全面実施、全面講和、独立と民主主義のための民主民族戦線を基本路線として強調していた。これはいうまでもなく、政治的組織的に広大な国民大衆の自覚と組織化を決定的手段とする民主主義闘争への指針にほかならなかった。私の論文がこのことを強調して結びとしていたことも偶然ではない。
 徳田自身も十八中総後の党内情勢を論評し今後について書いた論文「たたかいは人民の信頼のもとに」で、盲動主義としてブランキー主義、一揆主義をきびしく戒めている点は何らのあいまいさもないものだった。日本共産党中央委員会が三月二十二日付「民族の独立のために全人民諸君に訴う」で一貫して強調していたのは、「民主民族戦線の結成」であり、それは第六回大会以来の政治目標下の大衆的統一戦線方針の発展方向であった。
 したがって、徳田らが六・六の弾圧後、極左冒険主義に走り、これをコミンフォルムの機関紙が肯定的に報道したというその後の経過を例証として、十八中総ですでに全党的に武装闘争路線に踏み込んだとか、私の論文もそれだとする反動勢力の解釈は、事実によらない不当な類推で、それ以後の日本共産党の活動全体を極左冒険主義の推進者にしあげようとする大きな歪曲にほかならない。党の分裂以後の事態でも、このような弾圧者好みの歪曲は許されない。
 党を分裂に導いた勢力は、その首脳部の多くの北京亡命と前後した時期から、たしかに、不幸にも外部からの干渉ないし示唆に同調して、極左冒険主義に走った。しかし、分裂を余儀なくされた勢力は、政治方針としては第六回大会の政治目標の堅持を一貫して強調した。そのことは、私の当時の論文「党の統一を妨害しているのは誰か(一)(二)」の中でも繰り返し、力をこめて書いている。この論文に引用している九月十二日付の「全国統一委員会」の声明は、その中で党全体の団結の基本方向として「主観と方向を問わず一切の分派の解消」とともに「官僚主義・解党主義・極左主義の克服」をあげている。また、「所感派の政治方針は、最近でも、ひところの一揆主義的煽動から最近の右翼社会民主主義者をふくむ『野党』への追随主義にみられるように、変転つねない日和見主義的逸脱を続けている」と糾弾している。同種の立場は、中央委員会の機能の回復と党統一を主張していた側から、それより以前からも明白に主張されてきた。

 「十八中総以後の日本共産党中央委員会の基本路線は、党中央の団結と民主民族戦線の発展を軸とするものであり、われわれは今日の段階においてもこの路線を堅持発展させなくてはならない。そしてそれを妨害する一切の挑発と偏向を克服してゆかねばならぬ。ところが、最近の情勢の評価と、それにともなう闘争方針に関して明らかに誤った傾向が生じている。そのもっとも顕著なものは所感派分派にみられる一連の傾向と行動である」「大局的にもっとも主要な傾向としては、情勢の主観主義的な過重評価と、そこからくる極左冒険主義的なブランキスト的な方向である。」(五〇年十二月「新しい情勢と日本共産党の任務」、『解放戦線』第一号所収)

 したがって、コミンフォルム「論評」を口実にしての反動勢力の党攻撃は、論拠のないものであり、成り立たないものである。
 この論文には、今日からみれば、スターリンへの評価など適切でない点もあきらかだが、当時さまざまな立場から問題視された論文だから、あえて発表当時のままで収録する。
 戦後初期論集の第二巻『民主民族戦線の展開』に収録された諸論文によって戦後初期の革命的高揚に貢献したと私が第二巻「まえがき」で書いたのは、基本的にアメリカ帝国主義への闘争を極左冒険主義的な方法によらず、そういう主張に対して厳しくこれを批判しつつ、大衆的民主運動の方法で、すなわち具体的には民主民族統一戦線の展開に向かって努力を傾注したところにあった。
 「二つの偏向の克服と党の統一強化のために」は、十八中総以後の憂慮される党内情勢の中で、党の思想的、政治的統一を念願して書いたものである。徳田を中心とする政治局の多数の人々は、十八中絵での「所感」の撤回後も、「所感」の立場での官僚主義的しめつけを強化していた。一方、一部の分派主義者は、志賀義雄が、十八中総前に政治局に提出した意見書などを流布し、「所感」への人民日報の批判なども口実として妄動していた。私は志賀の動きには批判的だった。たまたま本部勤務員の一人が「志賀・宮本ライン」を云々しているということを理由として、椎野らは私の不在中の政治局の意向として、志賀と私に彼らを批判する論文を書けと言ってきた。志賀はこれを断ったが、私は「特定個人のラインは問題になり得ない」という見地から、これを書くことを約して、九州に出発する前三月二十一日に政治局に提出した。しかるに、椎野らは、これを黙殺したまま四月十五日付の「同志志賀提出の意見書を中心とする策動について」の中で、私から何も出ていないかのように、あきらかに虚偽のことを書いたのである。これが虚偽だったことは、四月二十日に椎野が「アカハタ(十五日付)の発表に関する補足」として、曖昧な形ながら、私について書いたことを「とりけすことにする」と言わざるを得なかったものである。
 この本に収録した論文は、こういう椎野らの新しい中傷的策動を念頭において、真相をあきらかにして、二つの偏向の克服の重要性を強調したものだった。ところが、この論文は、「政治局、統制委員会の合同会議」で、私をのぞく多数意見で原文発表が反対され約三分の一に削除されて発表されるにいたった。当時未発表だったこの論文をここに収録するにあたり、約三分の一に削除され四月二十日付「アカハタ」に発表された「党のボリシェヴィキ的統一強化のために」も併せて収録することにした。
 なお、「二つの偏向の克服と党の統一強化のために」の中でふれているこの論文に先立って執筆した「党の政治的、思想的統一の基礎」という論文は、発見できないまま現在にいたっている。この約三分の一に削除された論文が「アカハタ」に発表された十日後に十九中総が開かれ、総会での一致団結の強調をふみにじって、その直後に、徳田、椎野らの党を分裂に導く分派活動が一層具体化されたのである。
 党の分裂のさなかに書かれた論文は匿名のものもあり、すでに党の統一が実現してから三十年以上たっている今日みれば、この論究スタイルに分裂のさなかの息吹きがきわめて濃厚なものがあり、平時の党活動ではタブーとされるべき表現も少なくないが、ユーゴスラビア問題でコミンフォルムの立場で言及した若干の表現や個所などを除き、「世界の模範的友党ソ同盟共産党」などという、今日では不適当だけでなく実感からつよい違和感をひきおこす表現もあるが、分裂問題の本質にせまる点では歴史的記録となっているので原文のままにした。
 「第六回全国協議会」を党史上どうみるかということの概要は、それ以後三十年以上たった今日、『日本共産党の六十五年』の記述その他で明白になっている。六全協は、徳田らが中心となった党中央の分裂・解体の下での、党規約に反する四全協、五全協の延長線上という不正常な歴史的制約をもった会議であった。とくに、その五全協で採択された、不正確な点の多い五一年綱領について、その「すべての規定が、完全に正し」かったとして、五一年綱領を党の統一の前提とするなど重大な問題点のあるものであった。また党の分裂問題の根源にも手のついていないものであった。ところが一方、党に重大な損害をあたえていた極左冒険主義への批判と党指導の家父長的個人中心主義、セクト主義・官僚主義を批判している点で、また過去の重大な誤謬を限定的ながら自己批判している点で歴史的に重要なものであった。そして、第六回党大会選出の中央委員も参加して党の政治的組織的転換への重要な一歩となったことも、歴史の事実である。
 「第六回全国協議会の基本的意義」は、六全協記念政策発表演説会での演説者の一人であった私の発言である。この演説は今日読めば、六全協の積極面を主として押し出した一種の祝賀演説の感がある。大衆的集会での発言としても、六全協の歴史的制約や欠陥などに言及していない点は甚だ一面的である。
 なぜかと考えてみると、それは、六全協では五一年綱領問題が極左冒険主義を否定する当面の立場と両立するものとして現れ、その当面の道は民族解放民主統一戦線としたことを歓迎する党内外の気分を反映したものではなかったか。それは一面、それまで党に暗い影をおとしていた極左冒険主義と家父長的個人中心主義、セクト主義・官僚主義への訣別を歓迎する多くの党員大衆の気持ちの反映ではなかったか。
 ところが、ここであえて一言しておく必要があるのは、反動論者の一部の者が、六全協の運営に加わった以上、全ての者が五一年綱領を認めたのだから極左冒険主義―武装闘争路線を肯定したのだとして、今日も党攻撃の口実としている点についてである。
 六全協の特徴の一つは、五一年綱領を正しかったと強調する反面、極左冒険主義を激しく批判した点である。五一年綱領は米軍の全面占領下での平和革命の可能性を否定していた。しかし、その文中に武装闘争やテロリズムなどを指示するところはなく、反対にもっとも強調していたのは大衆運動としての民族解放民主統一戦線の結成と前進のための闘争であった。六全協の参加者は、党の分裂時にどの立場にたった者であっても、極左冒険主義については日本の情勢に適しないもので、その採用は根本的に誤りとして排する点では、間違いなく一致した了解に達していたのである。
 従って、六全協で五一年綱領を是認した全ての者が、武装闘争やテロリズムの賛同者だったとすることは根拠のない中傷にすぎない。
 私はかつて、コミンフォルム批判の積極面とは五全協で「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とした五一年綱領を採択したことかと、インタビューで問われて、「そうではない」と答えるとともに、五一年綱領は「四全協の極左冒険主義の路線を是認し強化した所産である」と述べたことがある。今でも実態ではその通りだと考える。
 たしかに、党分裂後の徳田、志田、椎野らの実践と、いわゆる四全協後の活動は分派主義、極左冒険主義が特徴的だった。この極左冒険主義を重大な誤りとして指摘した六全協が、五一年綱領以来の綱領の個々の規定のすべてが正しかったとするのは、実態的には大いに矛盾する。
 五全協での五一年綱領の採択は、国際的・国内的実態関係からみて、四全協での極左冒険主義の決定とその実践の総括と不可分のものとみなされるべきであったが、五一年綱領は文面的には極左冒険主義を支持するものとなっていない特徴があった。この実態関係のリアルな反映がなぜおこなわれなかったか。
 ここに、新たに必要とされる解明点がある。
 四全協以来、極左冒険主義の失敗は明白であった。サンフランシスコ条約締結後の日本の政治情勢で、党活動の合法性を獲得できる条件が生まれており、党全体が公然活動に乗り出すための新しい転換が必要であった。しかも、五一年綱領の作成で果たしたスターリンの役割からみて、スターリン死後とはいえ五一年綱領そのものが欠陥品として論議の対象となる状況ではなかった。
 六全協の政治方針としては、占領下での平和的革命論の否定は、極左冒険主義を不可避とするものでないとなっている。むしろ、五一年綱領の規定は正しいのだが戦術的に情勢や力関係を無視した指導から極左冒険主義が発生したとする立場と建前に立っていたのである。
 そこで六全協では、四全協以来の極左冒険主義の方針と実態、それについての五一年綱領の関係が一切、討議されなかった。
 しかし、六全協後の指導部は、六全協のこの限界と矛盾に正面からとりくんで、その後、五一年綱領の日本の実情に適していない点を公然と論議し、一九五六年六月の第七回中央委員会総会ではその改訂の必要を認め、次期党大会に綱領の改訂を提案するために準備することを正式に決めた。
 第七回党大会の綱領問題で、私が党中央を代表して五一年綱領の廃止を提案したことは、党の分裂のなかで生じた一部の否定的経験を批判的に究明し、今後の正確な路線をめざす者として、歴史的、理論的に当然の帰結だったのである。
 スターリン絶対化の国際的風潮のなかでは普通であったが、今日ではふさわしくないマルクス、レーニンとスターリンを同格視する用語「マルクス・レーニン・スターリン主義」などの用語やそれに類する引用は全体としてできるだけのぞいた。もちろん、論文の性質上、加筆・補筆は全体を通じて一切ない。ブハーリン裁判についても、今日、冤罪としてソ連で名誉回復されており、ハンガリー事件もその後の研究での到達点ソ連軍の介入を不当とする立場からそれぞれ、本書での言及個所は除いた。
 「党創立二十五周年を迎えるために」(一九四七年)で「科学的社会主義、マルクス・レーニン主義の旗のもとに」等とあるのはそのままだが、周知のように日本共産党はマルクス、エンゲルス、レーニンの業績と歴史的役割を高く評価しているが、今日では個人の名を冠せず、科学的社会主義と呼んでいることを付言しておきたい。
 この論集のなかの『百合子追想』『わたしたちの宮本百合子論』の「あとがき」二編はこの論集にとって少し異色だが、「五〇年問題」の前記の経過にもみられるように、結局私は除名はされなかったがどんな党の部署にもつくことのなかった日々、一九五一年後半以降のある歳月を、私が宮本百合子全集の解説や文学運動のセクト的潮流の批判などに打ち込めたのは不幸中の幸いであったと思う。
 「共産主義の不滅の旗の下に」は、六全協後の党指導部の立場での党創立記念日の政治演説だが、国内外の諸問題についてすでに党中央として積極的展望を提起しているのが特徴的である。スターリンの問題についても、ソ連共産党中央委員会の「個人崇拝とその諸結果の克服について」に関して「私たちは、たとえばレーニンが、ソ同盟共産党第十三回大会にあてて手紙をよせ、スターリンについて忠告していますが、そのような忠告があったにもかかわらず、なぜ誤りがこんなに大きくなり固定する以前に、双葉のうちに、克服できなかったか、こういう点についても今後ともさらに研究と分析が必要であろうと考えます」とのべている。これは今日の国際的問題でもある。
 こうしてみると、この四十年間を通じて、日本共産党の科学的社会主義にもとづく自主的発展の道での歴史的前進は、とくに第七回党大会と第八回党大会以来顕著で確固としているが、スターリン問題、ハンガリー問題、ユーゴスラビア問題など一連の国際問題でのコミンフォルムやソ連共産党からの影響を受けた問題が、その後の再検討を求められた点となっていることが判明する。「日本共産党の六十五年」はこれらに対応して記述されているが、この戦後初期論集でも、当時の諸論文の刊行にあたって否定的な削除や批判的注釈を必要としたのは、この分野の問題だった。
 このことから、地上に出現したそれぞれの社会主義国の前進の努力をそれにふさわしい実情に即して判断するとしても、究極的に言って、あれこれの試行錯誤や低迷の実態をみるにつけ、現在の社会主義国は歴史の巨視的な立場からすれば、まだ生成期であるという見地を再確認せざるを得ない。そして科学的社会主義はレーニンがカール・マルクスの学説の三つの源泉でも明らかにしたように、人類の進歩的知識の集大成であり、近代および現代の矛盾にみちた世界で、もっとも科学的な羅針盤であるということの意味は今日の共産主義者にとっていっそうの重大性を加えるのである。

 五〇年問題は、日本共産党にとって不幸な一大試練だったが、今日では党の長期にわたる集団的努力を通してその総括は全体としてふかく解明されている。分裂時の様々の立場にもかかわらず、また当時の関係者の多くの人々がなんらかの意味でふかく傷つけられたにもかかわらず、こういう全党的な合意が形成されたことは、何よりも日本共産党の革命的伝統と科学的社会主義への誠実さの結果である。その意味で革命的伝統と真理が勝利したのである。わが党は、党の革命的伝統の不屈さに勇気づけられながら、しかし無謬主義に立たず、誤りの是正においては率直・勇敢だった。
 いま、世界の共産主義運動は科学的社会主義、共産主義の初心と原則の立場からの、脱皮に向かっての激動期にある。国際的に、新しく原則的解明を求められている問題は少なくない。
 五〇年問題という、内外の誤りが重なった難問題を棚上げせず、あせらず、しかも出来るだけ早期に勇敢に自己分析して、党の再出発の糧としたことが適切であったことを、今日の内外情勢からみてこの機会に改めて痛感させられる。

一九八八年八月十五日

宮本顕治

「赤旗」一九九三年五月十九日 再録