第一次共産党事件の未決監から、一九二四年一月二四日に同志野坂参三と一しょにでてきた同志渡辺満三は、一九二五年五月二六日に死んだが、最近こう夫人が新聞きりぬき帳を大切にしまっておられたことがわかった。
そのなかに、亀戸虐殺事件のきりぬきもある。大震災のとき、山の手と江東との両方面が大火のために、数日間まったく連絡がとだえていたので、私は火がおちて交通ができるようになると、すぐ亀戸へでかけた。一つには亀戸方面の同志の消息をたしかめるためと、もう一つには、渡辺政之輔の留守宅で、重病のためにねていた黒田寿男の身のうえが気にかかったためであった。近所の魚屋で自転車をかり、パンをうしろにつんで、本所被服廠 あとの、一万数千人の焼死体がおりかさなって何ともいえない屍臭 のただようそばをとおり、電車道の上に子どもをだいてまっくろこげになった母親の死体をよけたりしながら、亀戸についたが、じつはその日の朝――一二九二三年九月四日――三時から四時のあいだに、河合義虎ら一〇名の革命的労働者は、亀戸警察署で虐殺されていたのであった。
きりぬき帳には新聞の名がないが、その記事はつぎのとおりである。
「震災後亀戸警察署で多数労働者殺害の惨害が行はれたが、警視庁は絶対秘密を頑守すると同時に、内務省警保局と打ち合はせ、一切掲載禁止を命じて許さなかったところ、一〇日午後三時警視庁より解除された。
事件は九月三日に初まる。同夜十時ごろ市外大島町三の二二三元純労働者組合長平沢計七(三五)は、九時夜警から帰宅したるところを張り込みの亀戸署に検束され、つづいて市外亀戸三五一九南葛 労働組合本部理事河合義虎(二二)、同山岸実司(二一)、同北島吉蔵(二〇)、同鈴木直一(二四)、同近藤広造(二〇)、同加藤高寿(二七)は、三日夜会合してゐる所をおなじく亀戸署の多数刑事に踏み込まれ、書類、端書などことごとく押収の上六名とも検束され、さらに同夜、隣町吾婦町字小村井南葛労働組合吾嬬支部を家宅捜索後、夜警中の同支部長吉村光治(二四)を九名の警官がおそひかかって検束し、つづいて同労働組合の佐藤欣治(二二)、中筋宇八も検束し去ったが、その後、家族知己が検束後の消息を案じ、亀戸署に照会すると、ことごとく放還の旨を回答した。しかるに、五日午前三時から四時のあひだに、同署演武場前広場において、前記十名とともに、暴行した自警団員人夫鈴木金之助、理髪業木村条四郎、請負業秋山藤次郎、機械商岩本粂男の四名をも合せて、軍隊の手で銃剣を以て、一同が革命万歳を叫ぶうちに刺し殺したものである。」
そのころ、南葛飾 の工場地帯は、革命的労働運動の一つの中心地であった。渡辺政之輔、河合義虎が指導していた南葛労働会――のちの東京合同労働組合――は、そのなかでももっとも戦闘的で、いつも亀戸署の刑事たちがこれを追求し、機会があったらとねらっていたものであった。その年六月の第一次共産党事件で、渡辺政之輔は投獄されたが、河合、山岸、北島らは検挙されずに、元気で活動していた。そこへ、突然あの大震災だ。九月三日までつづいた大火のあいだ、軍隊も警察もみずから混乱してなにもしなかった。火事がしずまって、人々がおちつきをとりもどしそうになったとき、軍閥は東京各地に戒厳令をしいたが、それは秩序をたもつためではなかった。まず二日の夕方から、朝鮮人が火をつけてまわる、井戸に毒をなげこむ、といううわさが、電気のようにひろまった。軍部と警察がそのうわさを流言飛語としてとりしまったのは、さんざん朝鮮人にたいする無知な日本人の暴行がおこなわれ、国際的世論が非難しだしてからのことで、もう一週間もすぎさっていた。
一体、だれがこのうわさをつくりだしたのか? 日本人は政府のことばにだまされて、ただの流言だと信じこみ、今日でもそうだとおもっている人が多い。だが、真相はべつだ。日本帝国主義が一九一〇年に朝鮮を併合してから、日本人官吏がつぎつぎと朝鮮へでかけた。日本の軍部や警察に圧迫された朝鮮人がなにか復しゅうをしないだろうか、武器をもたない朝鮮人は、火をつけたり、井戸に毒を投げてむのではないか、というよこしまな妄想にとりつかれどおしだった。そこで一九一九年の万歳事件で、朝鮮民衆がたちあがったあとには、妄想からくる恐怖で一ぱいになった日本帝国主義者の残忍なテロルがあれくるった。
わたしは大震災のとき、自分が白刃のなかをくぐり、狂暴なテロルと、朝鮮人や革命的労働者の大虐殺のおこなわれたことを、身ぢかに経験したので、この流言飛語の真相をつきとめることに苦心した。オットマン・トルコゼのアルメニア人の虐殺や、ツァーリズムのもとでしばしばくりかえされたユダヤ人迫害(パグローム)の歴史もある。幕末に、英艦が長崎におしいり、乗組員にコレラ患者があったとき、上陸して井戸に塩化石灰をいれ消毒したので、日本人が井戸に毒をなげこんだとうわさしたこともあった(このときから長崎にコレラの大流行がおこったので、日本人はてっきり毒のせいだとおもった)。そして万歳事件以後は、土地をうばわれて日本にくる朝鮮の労働者や学生を、日本の警察はたえずつけまわした。そこで朝鮮人がおこって、宮城に爆弾をなげつける計画をたてたとかいう事件を大げさに報道させて、逆にまたとりしまりをきびしくした。
関東大震災がおこったとき、日本帝国主義の特務機関は、一挙に家財をやかれた人々のするどくなった不満が、階級闘争の激化にみちびかれるのをおそれ、なんとかごまかそうとかかった。朝鮮でさんざんわるいことをしてきた官憲は、例の妄想がかまくびをもたげて、ここに朝鮮人の放火、投毒というあくどい逆手のうわさを、計画的にふりまいた。むろんそのうわさをでっちあげた製造元は、ごく少数であったが、それが警察や軍部のあいだには、朝鮮での古傷にひびいた。それがまた大震災でたたきつけられ、やっとしずまりかけた日本人の神経にぴんとひびき、帝国主義者が多年日本人のあいだにつちかってきた民族的偏見をかきたてて、あの自警団さわぎになった。
ところが、その大衆心理の反作用で、軍部も警察もあおりたてられて、今度は自分たちが朝鮮人虐殺のもとじめになった。このどさくさで、震災でいためられた人民大衆の注意を、国家権力と支配階級からそらせることにまんまと成功した官憲は、第一次共産党事件でうった網にかかったものが、あまりにすくなかったのを、なんとかしてつぎの網でとおもっていたやさきでもあり、この機会をとらえて、かれらが共産党員とみとめるものをどしどしとらえて、さんざん暴力をくわえた。
九月三日、亀戸署には、七百四、五十名も検束された労働組合員や朝鮮人がいた。これでは足のふみばもないことになる。この血まよった検束に、抗議がでるのはあたりまえだ。はじめのころ、秩序維持を警察も軍隊もほったらかしていたので、人民は朝鮮人暴動さわぎのうわさのなかで、自然発生的に自治組織をつくろうとした。南葛労働会の人々は、そのしごとにまじめにあたっていたところ、またそれをさらにただしくすすめることを協議していたところを、警察から無法に検束されたことは、右の新聞きりぬきからでもわかる。
だがどこの町でも、田中義一が主唱してつくらせた在郷軍人会が、この民衆の治安のただしい気もちをひんまげてしまった。軍閥の下部組織が暴行をはじめたのである。こうして、自警団は軍国主義者と警察におもうぞんぶんひきまわされた。興奮した四名の自警団員が警官と衝突して、このまじめに、秩序ただしく、はたらいていたのにつかまえたとふんがいしている人々のなかに、ほうりこまれてきたのだからたまらない。とりのぼせた亀戸署の古森署長以下の全警察官吏は、まるでかれらが暴民であるかのようなまぼろしにつかれた。そこで、署長は、いよいよおもだったものにたいする殺意をきめて、署員をそそのかした。まず興奮した自警団員をひきだしたので、かれらは抵抗した。そこで本能的に虐殺の危険をさとった労働者や朝鮮人も協力した。署長は、ちかくの亀戸郵便局にきてまちかまえていた近衛騎兵第一三連隊をよんで、一四名を銃剣と軍刀でころさせたのだ。家族の人々が心配して、警察にたずねてくると、警察は、もう釈放したとまっかなうそをついた。あの自警団さわぎのまっただなかだから、釈放されたあと、どこかで自警団にでもやられたのだろうと、ごまかすつもりであった。私は四日の朝、南葛労働会の事務所をたずねたが、戸がしまっていてあかなかった。そこで近所の渡辺政之輔の留守宅に、黒田寿男をたずねた。渡辺の母(渡辺てふさん、のちにわれわれが投獄されたとき、市ケ谷、豊多摩、小菅とうつされる監獄をたずねてさしいれをしてくれた)と丹野さんがいて、黒田は八月三〇日に上野の病院へいったとつげた。てふさんは、こめかみに梅干をはりつけていた。河合らのことが気にかかるので、きいてみると、三日の夜、警察へひっぱられたという。じつは私が、はじめて山の手方面から連絡にでたその日の夜あけに、ころされていたのだ!
だが悪事千里をはしる。どうやらころされたらしい、とのうわさがとびはじめた。大杉栄らが憲兵にひっぱられて、かえってこなかったところから、ころされたらしいといううわさがたったすぐあとであった。外国新聞記者は、憲兵や警察がかってにふるまわせている虐殺事件を、どんどん打電した。大地震の時まで内務大臣だった水野錬太郎は、朝鮮総督府で政務総監をやって、爆弾事件で腰をぬかした経歴の持主であった。内務大臣となってから、朝鮮人にたいする圧迫を強化する方針で、警察を指導していた。大震災のテロルにはこうした方針も大きい役わりを演じた。内務大臣後藤新平は、外国人から、しきりにそのことで質問された。後藤は壮年時代に国際的な話題となった相馬子爵家の事件でうまく名を売った味を、まだわすれずにいた。国際的な世論の威力を知りぬいている老獪 な政治家だ。とてもかくしきれないと観念したかれは、軍閥や警察官僚の反対をおしきって、これを公表することにした。その準備をととのえたうえで、まず大杉事件を、それから亀戸事件を発表したのだが、そのあいだに、亀戸署と警視庁とが真相をどうゆがめてだすかについて、うちあわせがすっかりおこなわれたのだ。
それについては、きりぬきを見ると、古森署長の奇怪千万な談話がでている。
「平沢等八名は、二日夜亀戸三ノ五一九南葛労働組合本部河合義虎の屋根上で、火災を見ながら、おれ達の世がきたとて革命歌をうたひ、朝鮮人が毒薬を井戸に投入したなど流言を放ってみたことを付近のものが密告してきたので、おどろいて引っぱってきた。佐藤欣治、中筋宇八の二人は、大島町の自警団が朝鮮人と行動を共にしてゐたといふので、それと一緒に本署に拉致し、留置した訳である。ところが四日夜、前記自警団四名に応じてさわぎ立て、そのうへ同夜一二時から五日午前三時のあひだに、留置中の朝鮮人が狂暴となり、すさまじい奇声をあげるや、一同雷同し、革命歌をうたひ、殺すなら殺せ、おれ達の世がきたとさけび、実におそるべき状態となったので、自分は死を覚悟し、署員一同にも同様覚悟を申し渡した。併し、到底手がつけられぬので、矢張軍隊に制止方を依頼した。少尉が五六人の兵士を率ゐてくるや、一層騒ぎ立て、監房から引出すと、同じく薪で抵抗したから、演武場前広場につれて行き、兵士が銃剣でさし殺したのである。
死体は一時筵をかぶせておいたが、異臭を発散するので、七日、四つ木橋の荒川放水路で一般民を火葬してゐる所へ、高木部に命じ、人夫数名に運ばせ火葬に付した。遺族に対し放還したと答へたのは、実際をいふては騒ぎが大きくなるからで、今から考へれば申し訳ないが、あの場合やむなきを得ぬ処置として、決して悪いとはおもってゐない。警視庁へも報告したが、自分の進退に関して何ともいってこないし、また辞表を提出しやうとは考へておらぬ。」
古森はうまくごまかしたつもりだが、事実はまったくあべこべだ。
第一、平沢計七はもともとアナルコ・サンジカリスト系の労働組合運動の人物で、河合とはまったく方針をことにしていたから、いっしょになって屋根の上でさわぐわけがない。平沢は亀戸ではなく大島町の自宅へ夜警からかえってきたところを、無法に検束された。
第二、河合らが二日夜、屋根の上でうかれさわいだというのもでたらめだ。河合たまさん(義虎の母)の談話が、やはりきりぬき帳にでている。
「地震のあった日は、本所の方から火の子はとんでくるし、地震はひきつづいておこってくるし、とうてい宅にみられなかったものですから、せがれの義虎はじめ宅にゐました山岸、北島、鈴木、近藤、加藤らと共に、葛西川の方へ避難しました。二晩の野宿をした後三日に帰宅しましたが、その日から夜警がはじまって鈴木、山岸の両人を夜警に出しましたが、一一時に交代だといって帰ってまゐりました。その後義虎は頭が痛いといって寝てゐるので、お前は先に立ってやらねばいかないよといふと、それなら出やうといってしたくをやってゐる所へ、三人の私服が見えまして、いきなり土足で上ってきて、家中はおろか、ぬか味噌の樽のなかまで調べた末、その場に居合した六人をつれて行かれました。それから後は何の消息もありませんが、近ごろ友達の方がきて、どうも義虎さんは殺されたやうだといはれますので、心配してみました。二三日前、宅の前の菅原といふ家へ警察の方が見えまして、義虎の金が警察に保管してあるから取りにこいといふ伝言があったといふことで、警察にいってみると、すでに義虎は警察から放還したといふ話で、そのまま帰ってまゐりません。」
これでもわかるとおり、河合らは二日には避難して事務所にいなかった。それだのに、古森署長は二日の夜に、かれらが屋根から火災を見物して「おれたちの世がきた」といって、革命歌をうたったと密告があったのでつかまえた、と見えすいたうそをついている。
第三、南葛の同志たちは、すすんで自警に参加し、朝鮮人暴動が人々の混乱につけこんだデマであることを人々に説得していた。また、官僚機構が無能とろうばいでまったく人民の生活をかえりみないとき、自警団をただしい線にそって発展させようとした。第二次大戦後、各地におこっている人民の自主的な管理運動は、そのきざしがじつにこの大震災のときはじまったのである。ことに病気をおしてまで、河合は先頭にたって治安に努力した。吉村光治は病気の母を背って避難し、しもの世話までやった孝行むすこで、これも夜警中ひっぱられた。佐藤、中筋両人は、自警団が朝鮮人で血まなこになってさわぐのをおしとめたので、在郷軍人や町内の反動的な小ボスの指揮する自警団が、二人は朝鮮人と行動をともにしていたと、でたらめな理由で警察にわたしたのだ。つまり、民衆をあの大被害のなかからすくいだし、帝国主義者の虐殺に反対して治安にあたろうとしたからこそ官憲のあくどい計画をじゃまするものとしてころされたのである。
第四、警察で手がつけられないので、署長の依頼によって、少尉が五、六人の兵士をつれてきたというのもうそだ。三日夜から、食糧もあたえず、七百五十人もつかまえておいたのも、そのなかのめぼしいとにらんだものから、つぎつぎにころす陰謀が軍部と警察では、はじめからもくろまれていたからだ。無法な検束とあつかいかたに反対したのを口実に、軍隊に指導的分子をひきわたして、全収容者の面前でこれをころして、おどしつけにかかった。それに軍隊では出動する人員に一定の規則がある。将校斥候のばあいはべつとして、少尉はけっして五、六人の兵士の長としてでてくるものではなくて、一小隊をひきいる。このときも、古森のいうような少人数がきたのではない。その指揮官は、田村騎兵少尉であった。
第五、古森署長の言によれば、刺殺された死体は、七日まで三昼夜以上も、検束されたものをおどすために、署内の演武場前の広場にほったらかしにしてあった。夏のこととて、死体は急速に腐敗していった。古森は「異臭を発散するので」と、およそ人間として口にすることをはじるようなことを平気でいって、荒川放水路の一般の火葬死体のなかにほうりこんだという。その遺骨を遺族へおくりかえすかんがえはなかった。しかも、放還したとうそをついたことを、やむをえない処置として、けっしてわるいとはおもっていないと放言するばかりか、警視庁からなんともいってこないし、自分でも辞表をだすつもりはないとまでいっている。
古森署長の談話がおかっぴき根性まるだしのでっちあげであることを、私は五項目にわけて説明したが、警視庁ではなんと弁明したか? 正力官房主事の談話がやはりきりぬき帳におさめられている。
「三日夜、亀戸署へ罹災者で検束されてゐた数は七百七十余名で、騒擾はなはだしく制止しきれぬので、警視庁から軍隊の応援を依頼し、協力して留置場から引出すと、またさわぎだし、革命歌を高唱し、あるひは鮮人襲来等の言を流布し、制止しきれぬため、軍隊は衛戌勤務規定により、労働者十名と自警団員四名を四日夜つひに突き殺した。
しかし警官は手を下してゐない。自警団員がダンビラで巡査を追ひかけた証拠が歴然たるので、二日夜に古森亀戸署長は部下にたいし決心の命令を下し、十日朝に同署長は当時の混乱状態を泣いて警視総監に復命してゐる。おれも聞いてみて、ついもらひ泣きをしたくらゐだ。」
これで古森が独断でころしたのではなくて、警視庁が戒厳司令官に連絡して虐殺をすすめたことがわかる。しかも警官は手をくだしていないとしゃあしゃあしたものである。官房主事は検束されたものが署内で鮮人襲来の言を流布したというが、一体警察署内でそんなうわさをふりまいてさわぐバカが一人でもあるだろうか? 革命歌を高唱したからつきころしたというが、かたるにおちるのことわざどおり、ひきだしてころす段になったからこそ、この勇敢な労働者たちは覚悟をきめて、革命歌をうたいながらさされただけのことだ。
この正力警視庁官房主事とはだれか? 米騒動のときには警視として民衆弾圧にのぼせあがり、日本の特高制度の創設にあたり、のちに読売新聞社長となってナチス・ドイツとの同盟を主張し、軍部の手さきとなって、第二次世界大戦の火つけ役のために世論をつくりあげた戦争犯罪人の正力松太郎のことである。
では、田村騎兵少尉の虐殺行為について、戒厳司令部はどういう態度をとったか? それは戒厳軍の行動上当然のものとして、なんら犯罪を構成せず、したがって軍法会議の活動もないというのである。近衛師団法務部員は、つぎのように新聞記者にかたっている。
「あのばあい戒厳軍隊としては、ああいふ手段にでるよりほかに適当な方法はなかったのでせうから、やむをえないとおもひます。それを一々軍法会議にかけてゐたら、軍の行動ができませんからね。」
大杉夫妻と甥の橘宗一を甘粕らがころしたという事件も、軍法会議の審理はまったく憲兵司令部がしくんだからくりにすぎなかった。だが、とにかくこの事件は軍法会議にかけたが、亀戸事件ときたら、それが労働者の虐殺であるからという理由で、てんで問題にもとりあげなかったのだ。これで革命運動に献身するものは、ころしたところで殺人罪にはならない。軍も警察もきりすて御免が確認されたわけだ。こうして第二次世界大戦で敗北するまでのあいだ、軍国主義者と警察と司法官吏とは、気ちがいじみたテロルをほしいままにおこなうこととなった。
このらんちきが軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させたのである。万世一系の皇国は歴史的法則の上に超然としたものであり、かれらのいっさいの行為は正当化されると妄想したために、ローマのごとく、秦のごとく、ブルボン・フランスのごとく、ツァーリズムのごとく、オットマン・トルコのごとく、ナチス・ドイツやファッショ・イタリアのごとく、日本の軍事・警察的国家機構も、その内在的な弁証法によってつぶれたのである。
では、河合義虎とはどんな人だったか? かれは新潟県中頸城郡田口村の貧農の子であった。土地のない貧農のなかから、この世の地獄とうたわれた鉱山に坑夫としておいこまれるものがでるように、かれの父も坑夫となった。かれは秋田県椿鉱山から茨城県日立鉱山とわたり歩いた。一九二〇年(大正九年)の経済恐慌で、日立鉱山でも大首切りがおこなわれたとき、一九歳のかれは、もっとも勇敢に反対闘争をやって、山をおわれ、母と妹とともに東京へきた。事務員や工場労働者としてはたらきながら、日本大学夜学部に一時席をおいていたが、一九二二年一一月七日、渡辺政之輔とともに南葛労働会を組織した。それまでも労働組合を組織するために熱心にはたらいていた。
私がかれとはじめて知りあったのは、一九二二年七月のある日、戸塚町源兵衛の暁民会事務所での集会でのことであった。その日は、高津正道が訳したプレオブラシェンスキーのパンフレットの朗読がおこなわれたが、おれが読んでやろうといって、精力的なからだつきの青年がパンフレットをうけとった。わらうと白い八重歯がすこしでたのが、印象にのこっている。この青年を川崎憲二郎が、河合義虎ですと紹介してくれた。それから、しごとの関係でたびたびかれといっしょになった。私が入手した青年共産運動の文献を訳してかれにわたすと、かれはよろこんで、むさぼり読んでいた。一九二三年、党の機関誌『赤旗』にかれが青年運動についての論文をかいたが、私の生硬な訳文をそのままとりいれていたので、あとでかれとわらったこともあった。かれは共産青年同盟が創立されたとき、その委員長となったのである。
かれは豪胆で精悍な青年だったから、争議にあたって資本家と交渉するときも、なかなかずぶとくぶっつかっていた。なにしろビラ一枚はるところを見つかっても、すぐ警察の豚ばこにほうりこまれる時代だったから、まずビラの上下に郵便切手のようにのりをつけておいて、夜になるとなにくわぬかっこうで自転車をはしらせながら、つばでのりをぬらして電柱にだきつくとたんにべたりとはりつけて、またはしりだす。そのために、つばがでなくて、口のなかがカラカラにかわいてよわったというはなしもきいた。
私が南葛労働会の事務所をはじめてたずねたのは、一九二三年の第一次共産党事件のすこしまえのことであった。はじめのときは道をまちがえてむだあしをふんだが、二度めにでかけたときには、河合、北島、山岸と数時間はなした。入口のたたみのうえに一人のひげの多いおやじがすわっていて、「河合君はいませんか」ときいたら、すこしうさんくさそうに「だれですか」といった。そのおやじは藤沼栄四郎だった。河合が二階からちょうどおりてきて、「やあ君か、あがれ。藤沼君、これが新人会の志賀君だよ」といった。七月、八月とロシア飢饉救済運動でも、対露非干渉運動でも、河合とよくおちあった。山川均が『前衛』に発表した「方向転換論」もよんでいくうちに、セクト的解党派的にゆがめられた主張が、どうも、なかばおぼろげながら、なっとくできないことをはなしあった。
北島吉蔵は、河合とともに日立鉱山からおわれた。かれは秋田県小坂鉱山に坑夫の子としてうまれ、父が日立鉱山にくるときいっしょにうつった。ころされたときは二〇歳で、広瀬自動車工場ではたらいていた。かれは河合と親友であり、まるまるとふとった、いかにも感じのいい青年であった。ヨッフェが日ソ国交回復の交渉のため横浜に上陸したとき、一人の青年労働者がつかつかとそばによって握手し、刑事どももあっけにとられているうちにすがたをけしたことがあった。その「怪青年」が北島であった。どちらかといえば無口なおとなしいあの青年が、とわれわれはおもった。かれとは、大震災の前夜、月島の労働会館でスパイにふみこまれて、二人がはきものを手にしてにげだし、中華そばとシュウマイをくったのがいきわかれであった。
山岸実司はきびきびした青年であった。長崎県のうまれで、一四歳のときに上京して、方ぼうの機械工場ではたらいていたが、帝国輪業会社のストライキでつかまったことがあった。私と事務所であったときにも、熱心にマルクス、エンゲルスやレーニンのものを研究していた。ころされたとき二二歳だった。
吉村光治は石川県石川郡三馬村にうまれ、兄は水野成夫とともに、獄中で最初に転向したなかまの一人の南喜一であった。兄よりも重厚な感じのする青年だったが、屋外労働者としてはたらいていた。私が黒田寿男にともなわれてかれとあったのは、南葛労働会吾嬬支部の二階であった。まじめな青年で、かれや佐藤欣治のようなおとなしい青年をころしただけでも、軍隊と警察の血まよいかげんがわかるというものだ。加藤高寿、近藤広造、鈴木直一の三人はたしかに私のあった人たちだが、もう二五年にもなるのではっきりした記憶がない。ただきりぬき帳にある写真をみて、そのおもかげをしのぶばかりである。
一九二二年九月に、大阪で労働組合総連合大会が決裂してから、そのころのことばでいえば、労働組合運動にも「アナかボルか」の対立がはげしくなっていった。平沢計七らは『労働総聯合』というタブロイド版の機関誌をだしていた。これにたいし、一九二三年に、河合義虎が編集人となって、『労働組合』という日本ではじめての赤色労働組合機関誌が発行された。だが、第一次共産党事件がおこるまでに、もうアナルコ・サンジカリズムの労働運動にたいする影響は急速にうすくなりつつあった。そして大震災で、経済的・政治的にも軍事的にも一時打撃をうけた日本帝国主義は、社会民主主義的な政党運動と改良主義的な労働運動とにたいして、公然または陰然の援助をあたえるようになった。大震災はこの点で、労資双方の陣営に一つの転回点であった。アナルコ・サンジカリズムはその本質上経済主義であるから、ひとたび天皇制の官僚と独占資本とが、いままでの労働運動弾圧の一本やりでやってゆけなくなり、労働ボスや労働貴族層――西洋の資本主義諸国にくらべればごくわずかであり、貧弱でもあるが――を買収して、労働運動を改良主義の線にむけようとすると、そこには経済主義のあたらしい形態がうまれる。それが大震災のあとでひらかれた労働総同盟の宣言にあらわれている。政治的には社会民主主義である。第一次世界大戦の数年間にサンジカリストだった山川均、荒畑勝三両氏が、戦後には共産主義者となって、多くの貢献をしながら、一九二四年から社会民主主義者として、しだいに党からはなれていったのは、むしろ当然のみちゆきであった。河合義虎が『労働組合』の編集者として活動しだしたのは、まさにこうした転換期にあたっており、共産党は労働者の自然成長性をただしく目的意識性によって戦闘的な労働組合にたかめようとつとめたのである。そしてこの雑誌は、同志野坂参三らが指導にあたっていた。
河合義虎は、第一次世界大戦のころから第二の発展期にはいった日本の労働運動がうんだ労働者革命家の一人であり、私は、かれと渡辺政之輔と国領伍一郎とをもっともすぐれた同志だとおもっている。河合は青年共産同盟の最初の委員長として、今日数万人の会員をもつまでに成長した日本青年共産同盟が、わすれてならない先駆者である。そして、今年の九月一日は関東大震災から二五年めにあたり、九月五日は河合義虎らが虐殺された二五周年記念の日である。かれらは虐殺されて、遺骨もどこに警察がやったのやらわからないし、葬儀さえ警察の弾圧のためにおこなうことができなかった。国領とともに青年共産同盟がその創立時代にうんだ河合のために、青共の同志たちが記念のもよおしをするのは当然のつとめであろう。
私が国領伍一郎とはじめてあったのも、河合の紹介であった。上野山下の省線電車入口のベンチで私を待っていた河合が紹介状をかいてくれたのは、一九二三年六月のおわりのことであった。私はわかいとき、河合や国領のようなりっぱな労働者革命家とともにはたらいて、どれだけ多くの教訓をえたかわからない。
大震災のとき、天皇制の軍閥や警察は、このときとばかりに、河合らをころした。それで革命運動の重要拠点のひとつを根こそぎにしたつもりであった。だが、それは階級闘争の弁証法を知らない天皇主義者の誤算であった。
古森亀戸署長はすこしもわるいとはおもっていないと放言したものの、虐殺事件のあと、ながく、一人で外出することをおそれていた。ことに日がくれてからは、絶対に一歩もふみださなかった。復しゅうされることをおそれたからだというが、それはかれのやましい行為がうむ恐怖感と、いかに亀戸一帯の労働者や勤労小市民のにくしみと不信がつよかったかということのためである。一九三〇年のメーデーのとき、古森はとりしまりにあたっていたが、上野の山で一人の参加者が「平沢計七の虐殺をわすれたか」といってピストルで古森をうったことがある。それはアナルコ・サンジカリズムというすでに時代おくれになった労働組合運動の小児病が、一九三〇年のころ深化する経済恐慌のなかに、あたらしくストライキに参加した労働者大衆の気分をうつして、反射的にあらわれてきたために、こうしたかたちの行動となったのである。しかしその底には、天皇主義者の残虐な殺人事件をけっして労働者階級がわすれるものでないことの一つの証拠がある。
また、そのころ南葛労働会にでかけては、河合らを検束していた亀戸署のある刑事は、虐殺の口火になったひきわたし人が自分であるという事実がたえずあたまからはなれず、とうとう死霊にとりつかれたと口ばしるようになり、その「死霊」をとりはらってもらうために、千葉県の成田山にでかけてたびたび護摩をたいてもらっていた。
また、大震災のとき軍部と警察にあおられて暴行と虐殺をやった自警団の連中は、国際世論がうるさくなったので、司法警察から検挙され、検事局のしらべをうけた。その検事のしらべがまたシニカルなもので、けっして刑罰をうけるおそれはないから、ただ暴行殺人の事実だけをみとめてくれと口ぐるまにのせておいて、有罪の判決をうけたものがすくなくない。こうして裁判所と検事局とは、あの大テロル事件をただ平静をうしなった暴民の無秩序な行動であって、戒厳軍も警察もまったくあずかり知らないことであるかのように、まんまと内外のうたがいをごまかしたつもりでいた。だが憲兵と警視庁は、本所被服廠跡に、テロルで半ごろしになった朝鮮人をトラックがはこんできては、かれらを山とつみあげ、ガソリンをぶっかけてやきころしていたことを、なるほど記事掲載禁止の命令で新聞にはのらなかったものの、自分の目で見たものから、つぎつぎと口うつしにいいつたえてきている事実をうちけす手段はもっていない。
第一次共産党事件から自警団事件のかかり検事としてさんざん悪事をかさねた石田検事は、その後やけ酒をのんでいたが、一九二四年のある日、大森駅構内で死体となっていた。むろん他殺ではない。しかもいくらしらべても原因不明だった。大杉栄ら三人をころして、たった三年で千葉監獄――獄中特別待遇をうけていた――からでてきた甘粕大尉は、軍部の手あつい保護でフランスにあそび、軍の特務機関の活動を研究してきたが、満州国がでっちあげられると、いきなりその参議に任命されて、日本人をおどろかせた。そのかれも日本帝国主義が敗北したとき、しばいがかりで自殺したが、それは、満州国協和会の特務活動だけでなく、大震災のときの憲兵隊の虐殺陰謀の真相があかるみにでることをおそれたためである。
石田、甘粕、古森といい、「死霊」にとりつかれた刑事といい、大震災テロルの記憶をもつ人民大衆のあいだでは、仏教的な因果応報説の影響から、当然のむくいだという気もちでうけとられてきたが、問題はこうした個々の悪人にあるのではなくて、まさに日本帝国主義が人民および他民族にたいしてやった圧迫の現象であったことが、第二次世界大戦での敗北によって、人民大衆のあいだにしだいに理解されてくるようになった。この理解と、それによる人民民主主義への前進こそが、あわよくば日本をふたたび帝国主義の軌道にのせようとする保守反動勢力の陰謀の足がかりとなる残存物を、根本的に清算する一つの大きい保障だ。
また日本の革命運動にとっても、この虐殺で、りっぱな革命家となるべき人びとをうしなったことは大きい打撃であったにはちがいないが、すべては弁証法的だ。徳田は、この虐殺で、共産党が亀戸一帯にぬくべからざる根拠地をもつこととなったと法廷で陳述したが、そのとおりだ。今日でも河合らは亀戸一帯にも、日本の革命運動にも、いきてはたらいている。
「歴史の魔の釜」(マルクス)は、そうたやすく煮えかえるものではない。釜の下の薪は、時にはけむたくくすぶるばかりのようなこともある。けむたいといってにげだしたり、なげたりするようではだめだ。
河合らのころされたそのとき、釜の下はくすぶっていたのだ。やがて、それはもえだした。一九二八年には、共産党ははじめて日本帝国主義者のまえに、一個の怪物として徘徊しだした。六年にわたって帝国主義者は釜の下の火の手をおさえるために、あらゆる努力をはらった。火は消しとめられたように見えた。一九四一年にアメリカとの戦争がはじまったとき、治安維持法を改悪して予防拘禁所までつくり、ふたたび火のもえあがるのを封じこんだつもりだったが、やはりそれはくすぶっていたのだ。敗戦のあらしは、これまでにないいきおいで火の手をふきつめた。火床はもう絶対につめたくなりっこはない。ときには煙さえ見えないようなときがあろうとも、歴史の魔の釜はかならずたぎる日がくる。
――一九四八・二・ニ七――
(あとがき) この論文のなかに引用した新聞きりぬきでは、河合らがころされたのは九月五日早朝となっているが、調査によると九月四日のことであった。私がこれまで『アカハタ』その他で発表した記事でも、この点混同していたようだ。この第四版の校正刷りを見てくれた酒井定吉同志の注意によって訂正することにした(一九六三年八月)。
編集者注:『日本の革命運動の群像』(第4増訂版、1963年)所収のものを底本とした。