岩田が死んだのは一九三二年一一月三日の〇時三〇分だと警視庁は発表した。もう一五年半になる。私が獄中でそれを知ったのは数日後であった。路上でつかまったこと、警視庁でひどいごうもんをうけて内出血をおこしたのがもとで死んだこと、これだけがまずわかった。つぎに東大で解剖したことがわかった。熱海で一〇月末に全国代表者会議がひらかれたが、警察におそわれてつかまったこととあわせかんがえて、この会議出席者の検挙岩田の逮捕もすべて挑発者のしくんだ一連の事件だとは直観的にわかった。
徳川家康の農民政策は「百姓は生かしすぎぬよう、ころさぬようにするのが慈悲」というかれ自身のことばによくあらわされているが、特高の政策は「共産主義者はころす一歩手前までごうもんして自白させ、共産党員としては生きてゆけないうらぎりものにするのが慈悲」というところに、その目的があった。中国侵略戦争がすすみ、内外にかけて日本帝国主義の弾圧政策が狂暴となるにつれて、官憲はみずからの暴行やごうもんをさして、「親のおしおき」だと誇称していた。そのころの警察や司法関係の雑誌をみると、こういうことばが公然とつかわれている。日本は家族国家である。天皇と官吏の人民にたいする関係は親子同然だ。親が子にいたい目をみせるのは、けっしてにくいからではない。子をよくしつけてりっぱな人間にするためだ。これがかれらの論理であった。そこで特高どもが残忍きわまるごうもんをやるときにも、平然として「これは陛下の大御心にもとづいて、きさまを真人間にかえすためにやるのだ」と放言したわけだ。
では岩田はどんな「おしおき」をうけたか? 安田徳太郎博士のメモによると、かれの遺骸の解剖の結果はつぎのとおりだ。
「一九三二年一一月四日、東京帝国大学病理教室において、解剖番号一九五。
岩田義道氏。三五歳。
体重。六四キロ。
身長。一六〇センチ。
脳髄。一四四五グラム。
心臓。三七五グラム。
心臓は非常に大きく脂肪が堆積す。心筋は右心が〇五センチ、左心が一〇センチ。右心室は拡大されて心筋薄く、恐らく之が死亡の原因ならん。
肺臓は著変なし。肺結核の所見なし。拡大して出血あり。胸腔内に大量の出血あり。
腹腔内には出血なし。
胃腸その他の内臓器管には変なし。但し部分的には諸種器管に出血あり。
下肢。大腿部の前面後面に著明な皮下出血あり。これが死の誘因ならん。
上肢。所々に皮下出血あり。」
(この点については河上博士自叙伝第二巻二〇五~二〇八ページにもでている。)
この解剖報告は岩田の家族とともにたちあった安田徳太郎博士のおぼえがきを河上夫人がかきとめ、河上博士がその自叙伝の第二巻(二〇六~二〇七ページ)にのせているものだが、安田博士がみずから執刀して解剖した結果を精密に記録したものではない。東京帝国大学病理学教室でできるだけ警視庁の白テロルをあいまいにみせかけるためにやった解剖から、安田博士が心おぼえにぬきがきしたものである。
さる三月中旬、大阪府下の箕面村牧落で、日本の社会運動に関する文献をあつめている篤志家からみせてもらった当時の『東京日日新聞』によると、岩田はとりしらべの警察官にむかって、いきなり机上の鉄片をもって暴行をくわえようとしたから、これをとりおさえたが、それがもとで死んだとのことであった。つまり警察が岩田をごうもんのためにころしたのは、暴力行為にたいする正当防衛であったというわけだ。
一九三二年一一月五日号の『赤旗』の檄によると、
「同志岩田は三十日早朝、ピストル防弾着で武装した数百名の警官に襲撃され、極力之と闘ひ、遂に捕はれた。同志岩田は警察病院に入れられ、三日午前零時三十分、彼らの手によって虐殺されるに至った。警視庁は白々しくも、極力抵抗したので手錠をはめて運行したが、それでも尚抵抗したために、肺結核が極度に昂進し、又脚気衝心して喀血して死んだのだと称してゐる。奴等は四日、死体を帝大病院病理学教室に送り、しめし合はせ後日の証拠を湮滅する為に解剖に附した。」
一一月一〇日号によると、責任者の警視庁特高課鈴木警部がつぎのようなことをしている。
「同志岩田を虐殺し終った警視庁は、何とかして之を暗黙の裡に葬らうとして、わざわざ何も知らぬ同志岩田の姉を遠く田舎から呼び出し、警部鈴木は何と云ったか。
『岩田は脚気衝心で死んだが、岩田は恐ろしい銀行ギャングの親方なんだから、この死体もお前一人で、誰にも相談せずに早く始末しなければいけない。』
とおどしつけ、又入院届もなしに警察病院へ入れた彼らの全くの規則をかくし、後日の問題化の際の証拠煙滅のために、入院届をつきつけて、同志岩田の姉に署名捺印を強ひ、姉が入院させた如く装はんとし、之を拒絶されて更に、注射料三十円入院料数十円の書付をつきつけて彼らの虐殺料と虐殺糊塗料迄強奪しやうとした。」
こうした警視庁特高課のやり口を、できるだけは正当化しながら、どうにもならないところでは大いにぼかしてしまうのが解剖報告の目的とするところだが、とにかくそれにもとづいて心臓肥大症で右心室が大きく心筋がうすかったというかれ自身の心臓の故障のために死んだのが原因であり、大腿部の皮下出血はただその誘因にすぎないから、殺人罪も傷害致死罪もなりたたない。これが検事局のごうもん者を不起訴にした法律上の詭弁である。さらにこの事件から半年ばかりたって戸沢検事が不用意に私にもらしたところでは、共産主義者をごうもんにかけて、ときにはころすはめになっても、それを刑事事件にしたのでは、警察が検事局の指令や号令をきかなくなるし、またそれぐらいにやらないと、法の目的は達成されない。それに権力をもっておさえつけ、共産主義者をギャングやリンチのようにみせかけることに成功したいま、世論は警官の告発を検事局に要求しないから平気だ。これが私の逆尋問にまんまとのって戸沢検事が断片的ながらもらしたことばだ。同志多田留治にたいしても、戸沢検事はいった。
「警察の連中はおれの手足になってはたらいている。かわいい部下だからねえ。共産党員をころしたからって、いちいち裁判にかけるわけにはいかないよ。」
では一体どうしてころされたのか? 河上自叙伝には、河上夫人が告別式(死体解剖の翌日、一九三三年一一月五日)にでかけた記事がある。
「家内が駆け着けた頃、岩田君の遺骸は既に解剖を了へて白布に纏はれていた。まあ之を見てやって下さいとて細君が白布を捲くると、大腿部は恐ろしく膨れ上がって暗紫色を呈しており、目も当てられぬ様になってるた。特種の拷問道具によって圧殺したものと思はれる。」(Ⅱ、二〇六)
たしかに河上夫人とその話にもとづく河上博士との判断どおり、特殊のごうもん道具によって圧殺したものにはちがいない。だが人は外傷には目がつきやすい。また解剖報告も大腿部の著明な皮下出血が死の誘因だといっている。だが岩田のころされ方はもっとこみいっている。
一一月一〇日号の『赤旗』はのべている。
「同志岩田の死体は、一見しただけで拷問のための死であることは歴然とはっきりするのだ。
一、同志の大腿部及び胸部は見るも無惨に紫色に上ってゐる(之は写真に撮られてある)。
二、足と手には肉に喰入った鎖の跡が残ってゐる。
三、彼らが慌てて行った輸血の跡がある。
家族及びその他医学者の立会で行はれた帝大附属病院の解剖の結果は、
一、胸部と大腿部の脹れは打撲傷のためであり、その胸一杯の内部出血丈で致命的なものである。
二、彼らは肺結核と称してゐるが、その跡はない。
三、彼らの偽称する脚気衝心の症状も全くない。
かくして同志岩田の死因は全く拷問、殴打の結果であり、明白に虐殺、撲殺である。
之を警察病院では病死といふ詐欺の死亡届を出してゐる。」
たしかに『赤旗』の報道するところはただしい。おそらくこれはたちあった安田博士の証言によるものであろう。だがこれだけではごうもんがどうしておこなわれたか、およそどんな順序でとりはこばれたか、また警視庁のでたらめ発表がどうしてつくられたか、それがはっきりしない。警視庁は一切をやみにほうむるつもりだろうが、われわれはその手にのらない。ケルンの共産党事件の真相をあばいたマルクスは、いかに洞察的な検事も、またいかに練達な弁護人もおよばないような大眼光と大手腕でもって、文書や事件をとりあつかっている。これとくらべればいわゆる推理小説などは、その最良のものでも、子どもじみているし、ブリキのおもちゃのようにやすっぱい感じがする。二心分子や破壊分子がこりずに党にもぐりこみ、反共世論製造がしつこくつづけられている今日、われわれは大衆に事態の真相をつげ、歴史の真理をかたるために、ぜひともこうした方面にも習熟しなければならない。私は、党と革命にもっとも忠実であり、そのためにころされた河合義虎、岩田義道らのおもいでをかくにあたって、こうした方針と手法にしたがって、この報告をこころみたわけだ。
では、このぼやけた解剖報告を解剖すると、どういうことがはっきりしてくるか?
第一、上肢、所々に皮下出血ありとあるが、下肢の方は大腿部の著明な皮下出血に気をとられて――実はそこにだけ注意をむけて――膝関節下部のことがなにもかいていない。だが『赤旗』一一月一五日号には、おそろしくいびつにふくれた大腿部をもった同志岩田の下肢の写真がでていて、「膝関節から約一寸下に鉄鎖の喰ひ入った跡がある」と解説してある。これは第一回のごうもんのために、手足を鉄のくさりでしばりつけ、それが肉にくいこんだあとである。まずこうしてかれはさんざんぶんなぐられた。これで方々の皮下出血がおこった。だがそれだけではくさりは肉にくいこまない。くさりをつかんでごうもん部屋の床の上をひきずりまわしても、そうはならない。かれが第一回のごうもんで天井にさかさにつるされたという情報――鈴木警部にしらべられたものが、豚箱でこれをきいた――は、特に膝関節の下部とふくらはぎの上部とをくさりでしばってつるしたために、そこの肉にくいいったことでうらがきされる。
第二、下肢、大腿部の前面後面に著明な皮下出血ありというのは、注目すべき報告だ。私の判断によれば、けっして打撲傷ではない。もしも大腿部の前面だけならばひどくなぐられたあとだともいえよう。昨日友人Kがきて、このはなしがでた。
「私も告別式にでて、同志岩田の大腿部をみせてもらいましたが、それはもう二目とみられないほどむごたらしくはれあがっていました。あれはたしかにめちゃくちゃに乱打されたあとでしょう。みなそういってましたよ。」
「ごらん。この解剖報告には大腿部の前面後面とある。はれあがっていたのは上だけでなく、うらがわもそうですよ。」
「うらがわにはちっとも気がつきませんでした。」
「くさりで手足をつないで、床上にあおむけにして大腿部をなぐることはできる。だがうつぶせにして大腿部のうらをなぐることはごうもんの実例からみてもまずないですよ。それに大腿部のはれあがったところは皮がやぶれていましたか?」
「いや、ただひどくはれあがっていたんで、やぶれてはいなかったようでした。」
「もし、鉄や革のむち、あるいはステッキぐらいの棒ではれあがるほど乱打すれば、きっと皮がやぶれてしまいます。またバットのようなふとい棒でなぐったとすれば、後面のひどいはれかたがわかりません。」
「ではどうしてやったのでしょう?」
「前面後面とおなじところがやられているのですから、これは河上博士もいうように特殊のごうもん道具で圧殺したのです。つまり大腿部を上下からしめ木にはさんで、巨大な圧力でしめつけたとしかかんがえられません。」
封建時代の本には、そろばんぜめといって三角形のとがった棒をならべたうえにすわらせ、ひざの上には大きい石をのせた絵を紹介したものがあるが、同志岩田のばあいは、それよりもっとひどく、人間のたえられる生理的苦痛の限界をはるかにこえたものであった。私はこれが第二回の大ごうもんであったとおもう。
つぎに解剖報告から第三の大ごうもんのあとをひきだそう。
「肺臓は著変なし。肺結核の所見なし。拡大して出血あり。
胸腔内に大量の出血あり。
腹腔内には出血なし。
胃腸その他の内臓器管には著変なし。但し部分的には諸種器管に出血あり。」
できるだけ抽象的に書いたこの部分からなにがわかるか? 第三の大どうもんが窄衣という特殊の道具でおこなわれたということがそれだ。これはからだをなかにいれておいて、しばりあげる特製の被服だ。精神病院では狂暴な発作があったとき、患者をとりしずめるためにこれににた鎮静衣をつかうが、刑務所ではそれが圧迫用にむくようなつくり方となり、さらに警察ではごうもん用として極端にひどいものにしたてられている。
右の報告部分でも気をつけると、どこがもっともひどくしめつけられたかをよみとることができる。つまり胸をめちゃくちゃにしめあげたのだ。そのために胸腔内に大出血がおこった。これが岩田の死因であった。もしも良心とともに勇気をもった解剖学者ならばそれをもうすこしはっきりかいただろう。だが東京帝国大学は警視庁とおなじ天皇制の国家機構だ。人民の利益よりも、支配階級とその官僚の利益をおもんじなければならない。死体解剖をたのむからには、警視庁としてこれこれの経過でと実情を解剖者にしらせるのが当然で、それによって大量の出血の理由もあきらかになるのだが、科学的良心をもった解剖学者でも、国家権力ににらみつけられているから、結果的に見れば、科学的なようで、じつはまったく要点をぼかした解剖報告ができるわけだ。殺人や傷害致死の事件がおこり、警視庁や検事局が死体解剖をたのんだときには、解剖学者はじつに正確な報告をだすものである。こうした対照のうちにこそ、科学におしつけられる階級的性格がさらけだされている。
腹腔内に出血なしとあるのは、そこがしめられなかったからであり、肺臓が拡大して出血しているのは、胸腔をしめつけたときに、肺臓が出血するほどおしつけられたためだ。それだから、右心室の故障もおこった。心臓が肥大して、指肪が堆積していたこととむすびつけたのは、突然の心臓マヒが死因であって、けっして警視庁のごうもんのためではないことを、それとなく証明するために利用されているからだ。肺臓内に出血までしているのに、肺臓その他の内臓に著変がないというのも、肺臓には病患による異変がなく、外部からの圧迫によることをしめしている。
岩田の死体は東大病理学教室にうつされるまえに、警視庁から警察病院にはこびこまれていた。警視庁では、一〇月三一日にはもう大腿部のごうもんでたてなくなっていた同志岩田を窄衣にいれっぱなしていた。もうそのときころされていた。だが警視庁でころしたとあっては、いかに狂暴残忍な警察でもすこしこまる。そこで一一月一日に警察病院へうつしていろいろ手当をしたが、なにしろ心臓がもともとよわいので、翌三日〇時半に死んだと発表したのだ。あわてて輸血をやったあとうんぬんもうっかり信用してはいけない。輸血をやったあとのこしておけば、警視庁でころされたのではなく、病院で死んだことになり、また病院では岩田の生命をすくうために、全力をつくしたという口実になるからである。
それに解剖報告も警視庁や検事局で発表したのではない。安田徳太郎博士が報告をかきとめてきてくれたのが、河上夫人を通じて、河上博士によって自叙伝にのせられ、それが一六年をへた一九四七年にひろく人びとの目にふれることとなったのである。
これが民主主義の真実に生きている国なら、だまってそのままにされるはずがない。だが一九三二年末の日本は帝国主義が中国侵略にのりだして一年たったころで、新聞はまったく排外主義でみたされていた。議会には社会民主主義者がいた。しかしもう故山本宣治のように官憲の白テロルを公然と質問するだけの勇気のあるものはいなかった。かれらはただ軍国主義のためにおべっかをつかい、日本のプロレタリアや人民大衆を戦場にかりたてることに協力するだけであった。岩田をはじめ多くの同志たちが惨鼻をきわめたころされかたをしながら、戦争がすむまでほったらかしであった。そして今日すべての官僚は自己の旧悪について、石のようにかたく、蛇のようにずるい沈黙をまもっている。だがそのままわすれられ、うやむやになるものとおもっていたらまちがいだ。不遡及の原則はまだ権力をとらないプロレタリアにとっては通用しないものだ。
「共産主義者として生かさぬよう、さりとてころさぬよう」、これが日本の警察および行刑の方針で、この点では徳川家康の時代に確立された封建的土地支配制の警察司法制度がやはり多量に残存していることをしめしている。げんに牧野英一博士の門下で、エンリコ・フェリの実証的刑法学をかじったこともある正木亮は、行刑局長時代に予備拘禁所へきて、われわれのまえで、「もしもドイツだったら政治的確信犯はころされていただろう。日本だからこそ、ころさずに、こうして予備拘禁にしておくのだ。これは天皇陛下の御仁慈によるもので、収容者は日本にうまれたこともありがたいとおもわなければならない」といった。
ところが、その将軍的天皇的慈悲が度をすごして、健康をこわすことは、豚箱や監獄にほうりこまれたもののきっとなめさせられる経験だ。窄衣をかけられて、胸の病気にかかったものも、党員のなかにはすくなくない。その慈悲がさらに極端に度をこすと、小林多喜二や岩田義道のようにころされることになる。だがこの二人のばあいでもそうだが、どうもんがかりが興奮のあまり、うっかりころしたのでは断じてない。
もしごうもんをくりかえして、体力をよわらせつつ、「自由な陳述にもとづく聴取書」をつくりあげるつもりならば、あんなにせっかちなごうもんはやらない。当時の『読売新聞』の報道によると、岩田は一〇月三〇日神田区今川小路の道路上でつかまり、三一日警視庁で死にかかり、一一月一日は警察病院へうつされ、一一月二日の夜半に絶命したことになっている。つまりつかまった翌日はもうごうもんで事実ころされていた。一年も豚箱におかれ、未決を六年も七年もそれ以上つづけることをあたりまえとしたそのころ、どうしてこんなに手ばやく同志岩田を虐殺しなければならなかったか? そのおもな理由をあげてみよう。
岩田は一九三〇年うまく検事局の目をくらませて保釈出獄となった。そのかれがまもなく地下にもぐったのだから、検事局は地だんだをふんで、こんどつかまえたらと鬼のしかえしをもくろんだ。さらに岩田は一九二八年の秋、はじめてつかまったとき、特高のスパイと勇敢にたたかってほねをおらせた。かれをそのときめちゃくちゃな暴行でとらえたのは、のちに国領伍一郎を月島警察署の道場でさんざんにうちのめした藤井特高課巡査部長であり、私に尾行したこともあった。その経験で、警視庁特高はことに岩田には不信をいだいていた。ところが、挑発者になった解党派が岩田を釈放した方が党破壊工作に有利だと進言し、検事局もついその気になって、警視庁にも同意させたので、警視庁特高課としてはよけいにいまいましくて、畜生こんどこそつかまえたらどうするかみていろとあくどい計画をたてた。
そればかりではない。うまく地下にもぐりこんだ岩田は、事実上、たびたびの検挙に損害をうけた党を再建する中心人物となった。一九三一年秋、日本帝国主義が満州侵略をはじめたとき、党は堂々とこれに反対した。そとで軍国主義者と警察司法官僚はよけいに岩田にたいして憎悪を集中した。
それに岩田はがんばることにかけては、同志のなかでもたちすぐれた一人だ。かれをころした一人、藤井部長もそれをみとめていた。そのかれががんばりぬいて特高のもくろんだ、そして挑発者松村に党内へもちこませた、悪事のかずかず――ギャング事件その他――が、後日、あかるみにさらけだされ、逆用されてはこまる。どうしても岩田のいのちはけしてしまわなければならない。日本人は排外主義に熱中しているときだ。岩田をころしても大した反対世論はけっしておこるまい。こういうみとおしで特高は岩田をころしたのである。
そのころ東京地方裁判所の内部では、岩田をきびしい手段すなわち窄衣などでとりしらべるうちに、度をすごして心臓のよわいかれが死んだので、あわてて警察病院にかつぎこんでいろいろ手あてをつくしてみたが、もう手おくれだったという情報がおこなわれていた。私は獄中との情報を「裁判所赤化事件」という俗物をおどろかす名をつけられた事件の関係者からきいたが、これもまた裁判所自体がまんまと特高の宣伝にひっかかっていることをものがたるものだ。つまり、けっしてころすつもりでやったのではない、つい度をすごして死なれる始末となったのだと裁判所におもわせておけば、判事や裁判所書記のようにこうした事件の真相にくわしいとおもわれている人から、「これは秘密ですから、この場かぎりにしてほしいのですが、岩田が死んだのはじつはこれこれで」といわれれば、それがまことしやかにつたわってゆく。「敵をうまくあざむくためには、まずみかたをあざむけ」、これを特高はねらったわけである。おまけに鈴木警部は岩田の姉さんに「警視庁は岩田君を死なせたくなかった。岩田君を死なせて掌中の珠をうしなったような気持だ」となきがらをまえにしてかたったそうだから、いい気なものだ。
だが政治はペテンまがいの小刀細工ではない。一時は俗物どもを反共的にいきりたたせ、おくれた大衆をごまかすことはできても、やがて経験は大衆に事態の真相をつかませるようになる。第二次世界大戦の深刻な経験は日本の人民大衆を啓蒙して、特高の役わり、手口の秘密をわからせるにいたった。この経験は大きい意義をもっている。封建的特高制度にかえて、ブルジョア的特高制度がおこなわれても、やがてその本質を人民大衆はみぬくであろう。
われわれは岩田をころされて大損失をうけたが、かれの死が数百万の大衆に軍事警察的天皇制とそのファッシ的ふるまいの真相に目をひらかせた点で、偉大な役目をはたしたことはだれも否定することができないことはすべて弁証法的である。
一九二四、五年のころから、京大に岩田義道というなかなかしっかりした学生がいる、弁証法についてはなかなか勉強しているそうだ、こんなうわさが私の耳にもはいるようになった。一九二五年の夏、内幸町の産業労働二調査所へすこしおくれてでかけたところ、そこに世にもまれな善人の顔をした大学の制服すがたの青年がいる。
だれかとおもってみていると、その青年がかたわらにいた友人に「O君、紹介してくれ」といった。Oは「京大の岩田義道君です」ときまじめな顔つきでいったが、その岩田は善人顔のうえに、これはまたインテリゲンチにめずらしい心からのわらいをうかべて私の手をにぎった。私はこの青年に無条件に好感がもてた。青年などとかくと、私の方が年かさのようだが、そのとき私はかぞえ年二五歳、かれは二八歳であった。そしてあとで知ったことだが、かれはもう結婚して、ミサゴさんも三歳くらいになっていたときだ。雑誌『我等』にかれの論文がでたのも、その年の秋ごろかとおもう。
その年の一二月一日、私は下関重砲兵連隊に一年志願兵として入隊した。翌日手にいれた新聞をみたら、京大学生事件の記事がでかでかとでて、岩田義道の名もでていた。翌年の夏、事件関係者が保釈で出獄し、記事解禁となって号外がでたとき、第六中隊にいた私は、第四中隊の一年志願兵室で、きかれるままに、この事件と関係者のはなしをしていた。「志賀志願兵、この岩田義道は弁証法に造詣がふかいとかいてあるが、弁証法とはなにか?」と神宮講学館出身のわかい神官の志願兵が私にきいた。「神道流にいえば、ありとなしと相対立ち、成り成りて成りかわることだよ」とこたえたら、私と中学校から同級で、竜谷大学をでた田舎の住職の志願兵が「じや、仏教流にいえばどうなるんだ」ときいた。「成、住、異、滅の発展だよ」というと、神官と仏僧は「ふうん、この岩田という学生はそんなことをやるのか、あたまのいい男だね」といった。
二六年の一二月、除隊して上京したら、岩田も東京へうつりすんでいた。学生事件についてあいさつしたら、かれは例の笑顔で「やあ、いまからおもえば幼稚なことでしたが、監獄はたしかに真の革命家をつくりますね」といった。
かれはそのころ産業労働調査所ではたらいていた。二七年の八月になって、かれは労農党のスローガンについてすぐれた意見をもっていることがわかった。それからつねに私と連絡をとるようになった。かれが日本共産党にはいったのは、この年の一二月であった。
二八年一月末には衆議院が解散された。かれは労農党候補として福岡県北部からたった徳田球一の応援にでかけて選挙運動に力をそそいでいた。かれはそこから私にくれたたった一本の手紙をかいてよこした。大いにがんばっている、という一節をおぼえている。
選挙がおわってまもなく、かれといっしょに電車にのった。はなしをはじめたが、私はもともと右耳がすこし遠い(それが獄中でまったくだめになり、おまけに左耳の鼓膜もやぶられた)が、かれは左耳が遠いことがわかった。「これは不便なことだ」とならんでこしかけながら、からだをねじっておのおの反対がわの耳をちかよせてはなしをした。そのときかれはいった。
「僕はアジ演説にかけてはだれにもひけをとらないとおもっていたが、八幡市の同志佐々木是延だけにはかなわないと感心しましたよ。」
その佐々木もどうなったか、三・一五事件以来、私はまったく知らないが、岩田は優秀な素質をもった努力家が共産党員となったとき、しばしばみられるように、そのころから急速にのびていった。
一八二八年の三・一五事件で最初にやられた私は、しばらく、そとの事情がわからなかった。警察でも、検事局でも、予審廷でも、はじめから陳述を拒否していた私は夏までほったらかされていた。だが夏から秋にかけて検事がかわるがわるきたときには、いろいろそとの様子もわかってきた。検事は「岩田義道もまだつかまらない」ともらした。
岩田がつかまったのは一九二八年十月検挙のときであった。のちにかれを虐殺した藤井特高巡査部長がこの十月にもかれをとらえた。そのときも警察でひどいごうもんがおこなわれた。
私は一九二八年四月から翌年一月まで豊多摩刑務所の未決監にいたが、またぞろ市ヶ谷刑務所におくりかえされ、十舎にいれられた。おどろいたことには左右もむこうがわもみな共産党員だ。そしてとなりにいた同志が岩田であった。二週間もそこにいたかどうか。とにかくそのあいだ、毎日ひまさえあればかれと連絡した。そして三・一五事件以後の党活動について、かれからくわしくきくことができた。かれはつかまるまで相当重要なしごとにあたっていた。そしていまさらのようにかれがりっぱな共産主義者として活動してくれたことに敬意をはらった。なにしろ十舎に収容されたものの大部分が党員だから、刑務所もうのめたかのめで警戒したが、二週間ばかりたって、突然五舎の方にうつされ、二月のはじめにはさらに十二舎へうつされた。
一九三〇年になって、徳田、志賀の二人は同時にふたたび豊多摩におくられた。おなじ南舎の階上に、徳田、岩田、志賀があいだをおいてならんでいた。私のむかいがわには鍋山がいた。岩田の監房のまえをとおるたびに、かれはスパイ・ホールのふたがねをかたかたとつまようじのさきでつついて私にあいさつをした。とうとう看守の一人がそれをみとめて、かれに文句をいったこともあった。
私の監房は浴場のすぐとなりにあったが、かれは入浴のとき、いつもあいさつをした。かれは警察の白テロルと監獄の不自由な生活のために健康をそこねていた。妻君も子どもをかかえて生活がらくでなかった。そこをねらって、検事と解党派とが内外からかれにはたらきかけた。それにかれは世にも善良な顔つきをしていたし、人あたりもよかった。またその顔つきを活用して、とぼけることも知っていた。
ところがわれわれが意外なくらいはやく、かれの保釈が実現した。一時はおやとおもったほどであった。出獄してまもなく、かれは獄内のある同志あてにさしいれをした。しかしそのために刑務所が検事局に連絡して、岩田はこんなことをするとつげられるとこまるので、そのあたたかい心からのさしいれはそのままかえされた。これは有効だった。官憲は、岩田はやはりわれわれとは無関係だ、とおもった。
三一年の一月になって、私は岩田は保釈をとりけされるかもしれないというはなしをこっそりきいた。ちょうどその直後、私は小菅監獄にうつされた。手術をうけてねていた家人がやっとおきてきて面会にきたとき、岩田はすぐもぐってくれという意味のことをそれとなくつげた。岩田はうまく地下にもぐった。
一九三一年の九月、日本帝国主義が満州に侵入してから、共産党と労働者農民の大衆運動にたいする弾圧はいよいよ気ちがいじみてきた。そのとき、日本共産党がただちにこの帝国主義侵略戦争に反対して、闘争を組織したことは不朽の功績であった。なぜといって、まさにこのときから第二次世界大戦にまでたかまった世界の再分割のための狂暴な侵略の幕がきっておとされたしだいで、その最初の侵略にすぐさま反対してたったのはたしかに大きい意義のあることだった。まして第一次世界大戦のとき、第二インタナショナルの諸党が、くりかえし反帝国主義戦争の宣言をだしたにもかかわらず、いざその戦争がおこったとき、ボリシェヴィキと他国の若干のインタナショナリストをのぞいて、ほとんどすべて戦争を支持したことをおもえば、第二次世界大戦の序曲となったこの戦争に、日本共産党があの弾圧に屈しないでたちあがったことが、われわれ世界の共産主義者からたかく評価されたのも当然といえよう。そして岩田がこの闘争の先頭にたったのである。
かれが出獄するまえ、私がとくにかれにたのんだのは、まさにおころうとしていたこの侵略戦争にたいする闘争のことであった。そしてそのための武器として、『赤旗』を再刊すること、それもガリ版でなく、活版にすることであった。かれはこのしごとをも実行した。
党が三・一五以来、たびたびの検挙にもかかわらず、日本帝国主義の侵略戦争にたいしてたたかい、またこの戦争を推進する権力機構としての天皇制が、独占資本と寄生的地主のために、労働者農民や、一切の進歩的民主主義運動までも弾圧することにたいしてたたかったことについて、われわれ獄中にあった党員はすべて感謝もし、尊敬もしていた。そして獄中でも、その闘争の一部をわれわれはたたかった。
ことに岩田が血まよった官から虐殺されるほどにくまれたのは、官憲がかれこそ当時の党の指導者のなかで、もっともりっぱな革命家であり、いかしておけば日本帝国主義の野望と支配とにとってじゃまになるとおもったからである。
ただ当時の党はなにしろひきつづく検挙で経験にとみ、訓練をつみ、理論にすぐれた同志がすくなかった。警察の挑発と弾圧とデマとあいまって、この陣営のなかにも右翼的なあるいは極左的日和見主義がくりかえし再生産された。ことに大衆のなかにふかく根をおろし、経営を革命のとりでとすることについて、かなり欠陥がみられた。非合法生活の指導の面で、挑発者松村がくいこんだために、不健全な傾向があらわれた。あの激変する内外の情勢をただしく分析して政策をたてるうえにかくことのできない理論がたりなかった。トロツキストのまぜっかえしも手つだって、例の一九三一年のテーゼ草案がつくられた。佐野、鍋山はこれこそ当時のコミンテルンが無定見で戦略をあいまいにする無能ぶりをしめしたものだとわめきたて、また岩田こそその責任者だとふれまわったが、それはまっかなごまかしだ。日本に民主主義的任務の同時的解決をもたらす社会主義革命論をもちかえったのはだれか? それを獄中でコミンテルンの公式意見としてふりまいたのはだれか? トロツキストと協力した佐野学ではなかったか? それをまた豊多摩にできた獄内委員会の決定した方針として市ヶ谷にいた私につたえたのは、ほかならぬ三田村四郎であった。
警察、検事局、予審廷では、佐野学は虚脱したカエルのようになった。そして自分がつかまったからには、覚は一度つぶれたのもおなじだ、なにもかもしゃべって記録にとったら、それが党の歴史として、将来の党の健全な再建に役だつであろうというばかげたりくつで、佐野はしゃべりだした。三田村はそれを獄内委員会の決定だといって私につたえた。これが獄内の同志たちを混乱させた。だがこうした佐野らの態度こそ、挑発者への堕落の酵素だった。
第一に、こうした態度は攻撃にたいして党をまもらず、あべこべに党を解体させる。
第二に、裁判は闘争であり、自己批判はみかたのなかでおこなうものである。一人の将軍が戦争のまっただなかでとりこになって自己批判をやるばあいをかんがえれば、はっきりすることだ。
第三に、必死にがんばっている獄中や豚箱の党員の抵抗力を去勢してしまう。げんにかれの陳述はあとからつかまった党員をまどわせるために利用しつくされた。
レーニンは『ロシア社会民主労働党議会フラクションにたいする裁判はなにを証明したか』という論文のなかで、尋問にあたって共産主義者がいかにふるまうべきかを指示している。佐野はこのんでレーニンを講釈していたが、まさに党を破壊するために悪用しただけであった。その佐野は予審終決ごろから公判へかけて、なんとか自分のだらしなさをごまかさなければ、公判廷で信用されないとかんがえて、一九三一年三月一〇日に小菅監獄で一通の意見書をだした。それには戦略論をまた民主主義革命と社会主義革命の二段階説にひきもどしていた。そして後日三二年テーゼがで、さらに党が警察の挑発のなかに大打撃をうけると、かれは自分は共産主義者としても基本線をまもったが、コミンテルンは始終ふらついていたといって、挑発にとりかかった。そして挑発者どもは党の内外で、虐殺された岩田に三一年テーゼ草案をつくった日本人がわの責任をかぶせた。だが当時の戦略上の不明確さは、国外ではトロツキスト、国内では佐野派があたまから国際的規律、国際的定論であるかのようにおしつけてきたところからうまれた。それをごまかして責任を転嫁するところに、佐野らの挑発者としての面目があるわけだ。
こうした党史上の事実をしらずに、三一年テーゼ草案の批判にかこつけて、党の革命的な権威や岩田に不信をふりまくような文書が昨年来二、三発表されたが、こうしたおもいあがったひとりよがりは、革命にとって百害あって一利のないものである。ことに党員としては、実情もしらずに、あたまごなしな批評はつつしむべきである。かつて一九二五年から、福本和夫は自分の出現によって、日本のプロレタリアの真の歴史がはじまるとおもいこんだ。一九二七年には佐野学がいまこそ自分によって真の歴史がつくられるといきまいた。一九四五年からも党の内外の一部にそうした傾向があらわれかけた。
岩田は理論方面でもなかなかの努力家であった。河上筆博士もその点をたかく評価していた。私はただ党のしごとについてはなしあったことがあるだけで、理論についてはたちいってふれたことはなかった。しかし、しごとの面を通じても、かれがしっかりしたもののみかたをしていることがわかった。そして一九二九年の市ヶ谷の十舎で壁ごしに連絡したときには、かれが格段の発展をとげていることを知った。そしてその最後はまことに世界革命史に特筆されるように、白色テロルとたたかってころされた。それはわれわれをつねにはげましてくれる。かれはころされた。だがそれによってかれはわれわれのなかにいきている。
今日の日本はまことにみじめなありさまだ。このどんぞこから日本をはたらくものの国にするには、第二、第三と多くの岩田義道がでなければならない。そしてまたかならずでるであろう。
編集者注:『日本の革命運動の群像』(第4増訂版、1963年)所収のものを底本とした。