日本の政府と上層階級が人民大衆の記憶のなかからぜひともけしてしまいたいと思っていた歴史的な事件が三つある。それは幸徳事件、米騒動、もう一つは大震災のときの虐殺事件である。これらの三つの事件の性格は、おのおのことなってはいるが、明治以来の軍部、警察、司法部のらんぼうきわまる圧迫が極端に走って、人民のために先頭に立ってたたかった勇敢な人びとにたいする白テロルがどんなものであるかを、人民の頭のなかにきざみこんだからである。
関東大震災からもう二三年たつ。ところで三つの事件のうち、まったく根も葉もないことをきっかけにして、白テロルがあれくるった点では、大震災のときの虐殺が一番ひどかった。九月二日は、国際青年デーにあたるので、われわれはいろいろと奔走していた。たしか代々木の明治神宮の近くにあった金子洋文の家で、「青年の夕」をひらいた。三一日には月島の労働会館へまわり、二日の青年デーのうちあわせをすることになっていた。四、五人あつまったところへ刑事がやってきて、私と北島吉蔵とはうまくにげ出して中華そばやにかけこみ、そとで腹ごしらえをしてわかれたのは午後一一時近くであった。
その年の六月、第一次共産党事件がおこり、警察のわれわれにたいする追求ははげしく、青年デーも示威運動を組織することができなかった。
一九二三年九月一日、よく晴れわたった日であった。
池袋の家で腹ばいになって新聞をよんでいたとき、急にゴオと地震がきたが、これはいつもより少しながいなと思ったとたん、はげしくなったので夢中でとびだしたが、これがまさかあれほどの大震災になるとは思いもかけなかったし、ましてその後であれほどひどく白テロルがあれくるうものとは、そのとき予想さえしなかった。当時共産党のおもだった人びとは市ヶ谷監獄に投獄されていたので、九月一日の夕方から私は堺利彦老の家へ歩いてゆき、ため子夫人をたすけて、四谷の堀端まで必要な荷物をもち出したり、布施弁護士の事務所が荒木町にあったので、獄中の同志たちの安否をたしかめるため、連絡に出かけた。
九月三日の夕方になって、一人のゆかたがけの男がやってきて、王子の方では朝鮮人が日本人を襲って、略奪をやっているので、大さわぎになっている、やがて池袋方面にもそれがくるであろう、とふれあるいた。それでたちまち自警団が組織されることになったが、こうしたうわさは電気のように、各方面につたわっていった。このとき、亀戸の渡辺政之輔の家には、親友の黒田寿男が重病でねていた。病人のことも気にかかるし、渡辺や河合義虎の組織していた南葛労働会の事務所に合宿していた同志たちの安否もきづかわれたので、九月四日の朝から、自転車にのって亀戸へ出かけた。本所の被服廠あとには、足のふみばもないほど多くの死体が一面にならんでいた。渡辺のおっかさんや丹野節子にあってようすをきくと、亀戸警察署に組合の人たちは引っぱられ、黒田寿男は、上野の病院に震災直前の日に入院したということであった。丹野節子の話によると、江東方面でも朝鮮人さわぎがひどいとのことで、私が亀戸へ往復する途中でも、そうしたうわさはいたるところできいた。両国橋のたもとでは、朝鮮人の夫婦がつかまり、さんざん暴行をうけ、警官にひきわたされたが、その女は妊娠していたのに、もう立てなくなって、ひきずってゆかれたということであった。
本郷にひきかえして黒田君のために、青木堂で食糧品を求めているとき、店員は青竹の杖がばらばらにさけるほど朝鮮人をなぐった、といって得々とかたっていた。私は平生善良そうなその店員がそんなにも乱暴なことをしたのにおどろき、かれにたいして朝鮮人はけっして火をつけたり井戸に毒をなげこむのではないと説明した。かれはがんとしてきかなかった。
私は当時二二歳であったが、ロシア史に有名なパグロームを思いだし、これはてっきり政府の陰謀だ、震災のどさくさまぎれに政府や金持に民衆の反感が向けられるのをおそれて、こんなうわさをつくり、まきちらし、民衆をあおって、その憎悪を異民族への侮蔑と反感へふりむけたのだ、と直感するようになった。
それから私は毎日白刃のもとをくぐりあるいて、つかまらずにのこった共産党の人びとのあいだを連絡してあるいたが、その人たちの大部分も警察につかまり、留置場で言語道断なごうもんをうけていた。
ここまでの話をきけば、いかにも大震災の混乱のとき、だれかがつまらないうわさをふりまいたのに、尾ひれがついて、あれほどの大失態を日本の無知な民衆が演じたと思われるだろう。また今日でも、昔話として、それくらいのことにしか思っていない人たちも多いであろう。ところがじつは、この大虐殺事件は決してそんな生やさしいものではなくして、政府によって完全にしくまれた組織的な白テロルであった。九月二日加藤友三郎内閣についで、山本権兵衛内閣の親任式がおこなわれたが、加藤内閣の内務大臣は水野錬太郎であった。水野は内務二官僚の元締の一人であったが、かれはその前に斎藤実朝鮮総督の下で政務総監をやっていたとき、京城の南大門の停車場で、なげつけられた朝鮮人の爆弾におどろいて、駅の貴賓室にかけこみ、ソファーの上に毛布をかぶり青くなって、数時間腰がたたなかった。
朝鮮在任中井戸に毒を投げこまれるといううわさにおびえた日本人官憲の数は少なくなかった。午後四時ご横浜方面から、憲兵が朝鮮人や無頼漢が略奪しているとか社会主義者がそれを扇動しているらしいなどという報告をもたらした。事実は極端な国家主義者の山口正憲が、ばくちうちとぐるになって横浜の税関を襲撃したのをまげて報告したものである。すっかり度を失って、一方では、大震災で家としごとをうしなった国民の目を朝鮮人と「主義者」(当時、共産主義者、社会主義者と無政府主義者をあわせてこうよんでいた)に向けるようにあおって、しかもその恐怖と憎悪で度をうしなった軍閥と警察は、たまたま内務省へ来あわせていた船橋海軍無電局の某大尉に全国に打電するようにたのんだ。その大尉は九月二日午前三時ごろ船橋にかえり、次のような無電を打った。「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火略奪の限りをつくしている。各地でも厳重手配を乞う。」
船橋で虐殺事件がひどかったのもこのためである。埼玉県では警察署や役場の掲示板に、反抗する朝鮮人はころしてもさしつかえないということまで県庁の名ではり出された。この無電は各汽船の無電技師にもうけとられ記録にのこったが、当時フィリッピンからかえる船にのっていた上原勇作元帥もたしかにそれをきいた。山本内閣の陸軍大臣は田中義一であった。かれは一九二一年上海で朝鮮独立党員のため狙撃されて以来、やはりたえず朝鮮人にたいする憎悪をうえつけられていた。その田中は同時に帝国在郷軍人会の組織者であり、青年団の創設にあずかって力のある男であった。
大震災のときに、在郷軍人分会が先頭にたち、官製青年団がこれに協力して、日本刀やら青竹の先にかみそりをつけたものまでふりまわした。在郷将校はピストルを腰にしたり、軍刀をぬいて指揮していたものである。田中は福田雅太郎大将を戒厳司令官に任命し、軍隊、憲兵、警察(警視総監は湯浅倉平)を駆使して、あくことを知らない白テロルをやったのである。
九月二日から朝鮮人さわぎが流布されたのはなぜかということが、こうしたいきさつによって明らかにわかるであろう。これは九月一八日ごろまでつづいた。九月四日、五日ごろ各所でつかまった朝鮮人が虫の息になっているのを憲兵隊、警視庁のトラックにのせて被服廠に運び、かれらをつみかさねガソリンをかけ、これに火をつけてやきころしていた。
このとき河合義虎、北島吉蔵、平沢計七ら八名が、亀戸警察署で習志野からきた騎兵部隊の一小隊にわたされて虐殺され、その死体は荒川放水路付近にすてられた。河合義虎は当時渡辺政之輔とならび称せられた若い労働革命家であり、もっとも勇敢な同志であった。かれらの最後はまことにりっぱなものであった。
この後亀戸一帯が共産主義運動のぬきがたい根拠地になったのは、この白テロルにたいする労働者のふんげきがあずかって力があったためである。私もまたそのとき同じように決心したものである。復しゅうといっても個人的テロルをもってやるのではない。日本の革命運動、労働運動を力強くして、その勝利のためにたたかうことこれが最良の復しゅうであると考えたしだいだ。のちに私が三・一五事件でとらわれ、獄中にいるとき、渡辺政之輔が台湾の基隆(キールン)で警官隊と乱闘ののちにたおれたことをきき、河合や渡辺の遺志をついでどこまでもがんばってたたかわなければならないとかくごをあらたにした。
無政府主義者大杉栄、伊藤野枝夫妻が、憲兵大尉甘粕によって運行され、親戚の橘宗一というかわいい少年までがいっしょに虐殺された事件は、血にかわいた日本の軍国主義者の残虐さをものがたるなによりの証拠であった。甘粕とその部下はのちに法廷で憲兵隊の内部でかれらを絞殺したといったが、実は大杉だけは麻布第三連隊の営庭で銃殺されたのである。甘粕事件の軍法会議における陳述は、すべてしくまれた芝居であり、決して甘粕20個人のやったことではなく、軍国主義者の組織的陰謀の一環であった。当時小泉憲兵司令官はこの事件になんら関係がないといっていたが、実は甘粕がこのえものをとらえてきたことを賞賛して、大杉の虐殺を命令した責任者の一人である。甘粕が反動団体の助命運動によって支持されたのも、千葉監獄で特別建築された建物で優遇をうけ、一〇年の禁固刑をたった三年で出てきたのも、ただちにばく大な金をもらってフランスに行ったのも、満州国がでっちあげられたとき軍事ファシストの頭領として満州国の参議になったのも、すべてその背後には軍閥の手あつい支援があったのだ。
大震災の白テロルに殺された朝鮮人は三千名におよび、また中国人は三百名にのぼっていた。こんどの大戦争で朝鮮、中国、南方において日本の軍隊があらゆる残虐行為をしたのも、皇軍なるものの正体が、国内においては革命運動、労働者農民運動を、植民地、外国においてはその人民を、無類の悪逆さをもって圧迫することと相互に結びついているということを端的に示したものである。
当時まだ若い一人の共産主義者として、方ぼう連絡にとびあるきすることのできた私は、いくど憲兵、特高、在郷軍人、自警団の誰何(すいか)をうけてころされかかったかも知れないが、あやうく虐殺をまぬがれた。そのとき大山郁夫教授のお宅をたずねたが、おどろいたことには、ここでも軍隊が銃剣をつけて、泥ぐつのまま侵入して家宅搜索をおこなった。これは早稲田大学の研究室捜査事件以来、大山教授がただ一人、学生連合会の反軍国主義運動に協力してたたかったことにたいする軍閥のおどしであった。
市ヶ谷に投獄されていた共産主義者のなかには、徳田、野坂の両同志をはじめ、仙台刑務所でなぶり殺し同然の目にあった市川正一や、警視庁で虐殺されいまだに死体のゆくえのわからない上田茂樹や渡辺政之輔などがいた。徳田は投獄者全部の先頭にたって当局に交渉し、秩序と規律のうちに収容者全体を団結させた。軍国主義者は当然共産主義者の引き渡しをも要求したが、所長はその引き渡しを拒絶した。これは司法省と所長の処置が正しかったというためではない。獄中の共産主義者によってしめされた毅然とした態度とその指導の下に全収容者が整然とした秩序と、おかしがたい団結をたもったからそうなったのである。
それにつけても思い出されるのは佐野学のことである。この第一次共産党事件というものは佐野学の不注意によってひきおこされたものである。早稲田の研究室に佐野が第二回党大会の議事録をかくしていたのを発見されたというので、検察当局はこれを学校から他の進歩的教授を追い出すための芝居に利用し、学校に軍事教育を組織的にもちこむための予備工作とした。佐野が共産党検挙の糸口を特高にあたえたのは、実はかれが挑発者をうっかり信用して自宅に出入りさせたためである。かれは委員長堺利彦の前で泣いて自分の不注意を陳謝したが、同志たちが投獄され、河合義虎その他かけがえのない同志たちが虐殺され、ひいては党組織そのものまでが、なかば解体状態におちいったのも佐野学の責任が大きいのである。
その後かれは党中央委員会の命令によって海外へ亡命した。獄中の同志が辛酸をなめ、りっぱな同志が虐殺されたとき、かれは海外にあって比較的安穏な亡命生活をおくっていたのである。もしかれに一片の良心があるならば、これら同志たちにたいしてつねにけんそんで、革命運動のために、どこまでも忠実につくさなくてはならない義務があった。しかるにかれは上海で逮捕されたとき、警視庁特高の離間策にのせられて、かれの逮捕は市川正一のせいであるとなし、検事や予審判事の面前で市川にたいし個人的反感をろこつにしめし、さらに党とすべての同志たちをそしり、まるでかれ一人が唯一のりっぱな革命家であり、コミンテルンの正統な代弁者であるかのごとくふるまった。同志徳田にたいしても煮湯をのませるようなしうちをした。私は当時大いにふんがいして同志徳田にたいして佐野の犯罪的誤謬を指摘したのであるが、のちに藤本梅市予審判事の呼び出しで佐野にあったとき、なぜあんな陳述をしたかとたずねたら、佐野文雄らがいろいろしゃべっているので、自分も同じように陳述してもかまわないと思ったと答えた。かれらは当時すでになかば破産していた。佐野文雄の陳述も愚劣き二わまるものであったが、それを警視庁でみせられて同じような陳述をしたということは、およそ革命家の規律として考えられない犯罪行為であった。
そのとき佐野は三・一五以来二年間にわたり敵前で完全に沈黙を守ってきたわれわれにたいしてなんとも申しわけのないことであるとあやまったので、われわれは佐野の重大な過失を許し、いっしょに法廷委員会を組織して公判闘争にあたることとした。佐野という人物の特徴は無性格にある。勇敢な同志たちといっしょにたたかっているときは決してボロを出さないが、一度困難に当面すると、たちまち闘争心をうしなうことである。
かれの性格のもう一つの特徴は、そのはげしい利己心である。団結と規律の上に、自己とその利益をおかなければ気のすまない異常な性質である。ルイ・ボナパルトの将軍バゼーヌ元帥はモルトケの軍隊のためにメッツで包囲されて醜態を演じ、後日、フランス軍法会議によって城塞監獄につながれ、フランス人民の侮辱と憎悪をあつめたが、脱走して家族とともに行方不明となって、歴史から姿を没したが、佐野はけろりとして自己の階級的犯罪を忘れ、日本人民解放運動の隊列のなかに小細工をしてもぐりこもうとやっきになっている。かれが一九三三年あの醜態きわまりない裏切りをやったとき、同志市川がかれに反対したというので、上海逮捕事件をもち出して市川へ獄吏の手を通じて挑発的手紙を送ったことがある。徳田、国領、志賀は第二回公判準備のとき、市川からそのことをきき、佐野の堕落と陋劣とにほとほとあきれてしまった。本年二月第五回党大会で、同志野坂が、佐野学をさして南京虫とよび、これにたいする道はただ一つひねりつぶすにあると叫んだのは決して偶然ではない。
〈あとがき〉 大震災の白テロルについては、かつて『戦旗』に江口渙が興味ある調査を発表していたが、これはもっと多くの人びとの協力によって詳細な記録をつくりあげる必要がある。そのことは幸徳事件、米騒動についても同様である。市ヶ谷における国際法廷では、いずれ日本の憲兵、特高の罪悪史についても裁判のおこなわれる日がくる。こうした諸事件について一人一人が自分の知識経験を別々にもっているのでは大して役にたたない。どうしてもそれを総合して完成する必要がある。『アカハタ』読者諸君もそのために協力されることを切望し、大震災白テロルの実情の一端をここに報告して注意を喚起するしだいである。
編集者注:『日本の革命運動の群像』(第4増訂版、1963年)所収のものを底本とした。