みなさん、まことにしばらくでございました(拍手)。
こんどの大阪の選挙の立会演説になりますと、かならずさいしょに言葉がかかりまして「四年半どこにいっとった」というのであります(笑声)。何度も催促のヤジがとぶとめんどうなので、まず答えることにしました。「私は、四年半、みなさんと同じように親切な日本のご家庭で守られておった(拍手)。われわれを追いまわす役人のかずよりも、そういう家庭のかずの方が多いから(拍手、笑声)、孫子の兵法にもありますとおり『衆寡敵せず』(笑声)こちらは衆に守られて、みなさんのところへ帰ってまいることができました。あとの同志たちも、みな出番をまっております(笑声)。しかし、でられないのは、逮捕状があるためですから、みなさんのお力によって、この逮捕状を撤回させていただきたい」こういうふうに申し上げておったのでありますが(笑声)きょうもそのことをまず、みなさんにおねがいします。横山泰三君のマンガによりますと、私どもはモグラにちかい種族に考えられておられるようでありますが(笑声)、好きとのんで地下にもぐっておるわけではございません。逮捕状さえなければ、みなでてきますから、どうかみなさんのお力によりまして一日も早く党の指導的同志諸君が、みなさんと公然と手をつないで活動できるようにしていただきたいのであります(拍手)。
きょうは、さきほど、春日議長も申しましたとおり、三・一五の記念日であります。同時に、党の指導者だった市川正一が宮城刑務所で獄死してからちょうど一〇年にあたります。きょうは、かれの一〇周年記念日でもあります。私は、党の指導部でも、市川ともっとも長くいっしょに活動したものであり、また今日まで党の陣営にのこったもののなかで、もうかず少なくなった一人です。
この同志のことについては、獄死の記念日のたびごとに、いろいろとその功績をたたえる論文、あるいは記念のことばが発表されておりますが、今日まであまりつたえられない面が一つございます。それは、ほかでもありません。創立いらい三三年間平和を守り、戦争に反対する旗をかかげとおしたという誇りをもつ政党は、日本でただ一つ共産党だけでありますが、その共産党の革命的伝統を同志片山潜、この偉大な共産党の父いらい、もっとも忠実に代表した指導者の一人が市川であったのです。そのかれが実際にやったしごとの面から、若干申し上げてみましょう。これはソビエト連邦と国交を回復し、また中国とも国交を回復し、朝鮮とも国交を回復することがしだいに日程にのぼってきておる今日、ひじょうに意義のあることであろうと思います。かれの業績から学んでこそ、われわれ共産党員は、平和のための活動を正しくつづけてゆくことができます。また国民のみなさんにも、かれがこういうことをやってきたのだ、党の活動のもっとも重要な場面で、もっともすぐれた活動をしてきたのだということを思いおこしていただけるでしょう。
しかし、そのまえに、かれの死んだ時のことをのべさせていただきます。かれは、宮城刑務所で獄死した。がんらい、身長は私とほぼ同じくらい一七一センチ、五尺六寸あまりありましたのに、死んだときは三八キロ、一〇貫そこそこでありました。歯槽膿漏が悪化して――これは監獄に長くいるとかならずやられるのですが、かれは、一本も歯がなくなってしまった。千葉監獄にいるときから、もう身体がしだいに弱っておりまして、やわらかい病人食でなければならなかったのに、仙台に移されてからは、あの大豆やトウモロコシのまじった麦めしそれもつぶした麦ではない、馬が食うあの丸麦であります。あのめしを食わされておったのであります。かれは、箸で一つ一つ豆やトウモロコシをとりのぞいて、馬の食う麦めしを箸でつぶして……(とぎれがち)……そうしてそれをダンゴにねって食べておったのであります。豆やトウモロコシをのぞくと、ダンゴの大きさは、手のひらにのるこれくらいの大きさになるのであります。それを一日三度食べて、ようやく命を……まあ、つないでおったようなわけであります。で、かれがあの弱った身体で、戦争のおわる年の三月一五日まで生きのびることができたのは、かれの革命家としての精神力のせいであったと、私どもは考えております。
すでに、予審のときから、しだいに身体を悪くしておったのでありますが、網走では、一度死んだのであります。あそこは、ご承知のとおり、春さきになりますと、ガスがよくおそってきます。北海道特有の海の霧をガスと申しますが、これがおそってきますとき、急に、寒くなります。着たきりスズメでありますから、体温の調整をすることができません。よく急性肺炎にやられるのでありますが、かれは、弱った身体で急性肺炎をやったために一度病室で死んだのであります。かれが気がついたときには、枕もとで線香くさいにおいがする。なんだか人の声がすると思ったら、みると教誨師がお経をあげている、かれの枕もとで――。それで、「このバカやろう!」と大きい声でどなりましたところが(笑声)、教誨師がとびあがっておどろいて、その線香を消せといったら、いわれるままに線香をさかさまにして消しておったそうであります。そういうこともありました。
それはたしか三月のことだったと思いますが、そのご、四月の下旬になりまして、一応みんな、市川、徳田、私なども、千葉監獄にうつされました。これは、べつに優遇する意味ではありません。もうそろそろ徳田、志賀というものが、私どものときはまだ治安維持法が改悪される前でありましたから、十年の刑期がなくなって――これを釈放するのはトラを野に放すようなものだというので(笑声)、とうとう考えついたのが、予防拘禁所というものです。この予防拘禁所に入れるために、ついでに、まだ無期で刑期の相当ありました市川正一も千葉へおくりました。それから国領は堺にある大阪刑務所にうつされてここでなくなったのであります。そのときに、私は市川と徳田とをひさしぶりにみました。いちばんかわったのは徳田で、頭がすっかりハゲておった(笑声)。その前、三六歳くらいのとき、予審で私ちょっと徳田に会いました。「どうも頭のテッペンがかゆくなった。かゆいのはハゲになる前兆じゃないか。お前、ひとつ、みてくれ」(笑声)。みたところ大分うすくなっていましたが「大丈夫、大丈夫」といったら、「そうか、そうか」といいながら(笑声)、おおいに安心した様子でありましたが、その頭の毛は上半分が千葉監獄にきたときには、すっかりなくなっておりました。また、市川は、長い間、北海道におかれて、いわゆる節を屈しない革命家はかならずとりつかれる座骨神経痛、それも急性肺炎にあったあとで、座骨神経痛のおきた身体をひきずりながら、運動にでておりました。かれは、とにかく、身体がもう立てないときのほかは、どんなに身体が悪くてもかならず運動にでる。四・一六でとらわれまして、ひどいゴウモンをうけたあとでもそうでした。このゴウモンをやったことは、昨年『文芸春秋』社から発行されました『昭和史読本』という本のなかで、当時の特高の刑事であった山県為三という男が書いております。これは多くの革命家を虐殺した男でありましたが、のちに東京都会議員になったこともあります。当時、野呂栄太郎を殺したのもこの男であり、また野呂の義足のなかに入れてあった千円――当時では大金――が紛失したのもこの男のしわざでありました。「義足を焼くときに、そんなものがあるとは知らなかったから、焼いてしまった」と、その読本のなかでわざわざ弁明しておりますが、義足は、これをかならずバラして、なかに密書があるかどうかを調べているのでありますから、千円の金を特高警察がみのがすはずがありません。ですから、そういうことも、やっぱり気がとがめるとみえて、『昭和史読本』のなかで弁解しておりますが、この山県が市川にゴウモンをくわえたことは、かれも読本でみとめております。どういうゴウモンをやったかは、書いておりません。市川に私が監獄で直接聞いたところによりますと、かれにたいするゴウモンは、日本ゴウモン史上でも有名な、京都の池田屋騒動のときに近藤勇一派の新撰組が古高俊太郎にくわえたゴウモンに匹敵するものでした。ただ、あのとき古高俊太郎にくわえられたゴウモンは、五寸クギをつちふまずから甲のおもてに通すものでありました。今日、特高がやるゴウモンは、そういう外傷――そとに傷をのこさないゴウモンのやり方でありますから、もっともっとひどいゴウモンであったといえるのであります。その証拠には、かれが数ヵ月警視庁におかれて豊多摩監獄にうつされたとき、ほとんど歩くことができなかった。それでも、かれは、運動にでたのであります。ほかの人ならば、とてもでられないような身体で、かれは手すりをつたい、壁をつたい、そして青竹をついて、運動場にでておった。この生活態度は、「革命家というものが監獄にほうりこまれたときに、敵の弾圧に屈服すると、それが気落ちのはじまり、それから健康も阻害され、闘争精神もにぶるから、いやしくも動ける以上ははってでも運動場にでてゆく」というのです。これがかれの主義でありました。網走におったときも、どんな、零下二〇度以下の厳寒のときでも、かれは、やはり雪の上にでて、運動をやることを主張しておったのであります。徳田などもいっしょにおったのでありますが、そういう生活態度でありました。その気はくがあればこそ、あれほどゴウモンで身体をいためたにもかかわらず、戦争のおわる年の三月一五日まで、手のひらにのせるような小さいダンゴを一日三度食べるだけで生きてきたのであります。
この千葉監獄から、徳田、志賀がいよいよ予防拘禁所に入れられる百日ばかり前に、小菅監獄に入れられたときには、市川は千葉監獄にのこされました。これが思えば生きわかれでありました。そのご、あの身体の弱った市川はどうしたかと、つねに気をつけておりましたが、宮城監獄にうつされたということだけは、どうやらつかむことができましたが、戦争がおわるころには、司法当局はいっさい口をかんして、私どもにはわかりません。わかったのは、戦争に負け、そうして外国の通信社の記者がはじめて府中の監獄のなかの一室で私たちに会ったときに、フランス通信社の極東総支配人であるマルキュースという人と日本の支局長だったロベール・ギラン――いまル・モンドの政治記者になっております――この二人がとびこんできて、徳田、志賀という名前とともに、「市川はいるか」という名前を呼んだ。私たちが二人に会ったときに、「市川はどうした」と聞かれるので、たまたま居あわせた拘禁所の藤田所長にたずねたところ、「市川さんは今年の三月一五日に宮城監獄でなくなりました」というのでおどろきました。この所長はおだやかな人物でした。というのは、その前任者である第二代目の林所長と私どもははげしくあらそって、涜職罪で告発し、とうとう田舎のほうへふっとばしてしまったことがありました。このときは、司法大臣も心配して、わざわざ巡視にきました。戦争で日本帝国主義も弱ったときでありまして、もうだいぶ力関係がかわっておって、私どももいささかこわもてになっていましたが(笑声)、とうとう二代目所長を追いだすことができました。そのあとへきた所長が、この人で、おだやかな人でした。こんどの選挙のとき、私のトラックの前にエプロンをかけた中年の婦人がかけつけまして、私の名をよぶ。だれかと思ったらこの人の奥さんでした。監獄にいたとき、空襲で所長官舎が焼け、所内の防空壕でかばってあげたことがありました。その人が、「あ、市川さんはこの三月一五日に宮城刑務所でなくなられました」ということをいったのであります。それで私ども、はじめて市川がなくなったことを知ったのであります。それまで、司法当局はかくしておった。
この市川正一が共産主義運動に参加するようになってきたのは、一九二〇年、二一年ごろからでした。一九二二年には、『無産階級』という雑誌をだしておった。もし、ここにいらっしゃる方でそれをおもちの方がありましたら、後刻ご連絡ねがいたいのでありますが、いま、入手しがたくなっておりまして、きょうの講演のために故人の弟である市川義雄君にもおねがいしてさがしましたが、どうも手にはいらない。この雑誌は、当時、豊橋で陸軍中尉をやっておった市川義雄君が共産主義運動に参加するために、将校をやめたときの退職金をもと手にして発刊したものであります。どうも日本の陸軍省もとんだ退職金をだしてくれたものであります(笑声)。これは、弁証法の生きた例であります(笑声、拍手)。この雑誌は、事実上、市川正一が主筆であります。当時の私は、まだ二一歳のかけだしの小憎っ子でありました。そのころ共産党の委員長をやっておった堺利彦老人に聞いたところによりますと、「今日、日本でもっとも理論的水準の高い雑誌である」ということでありました。この雑誌に、市川正一は『極東共和国の出生とその立場』という論文を発表しました。極東共和国と申しますと、今日、もうごぞんじない方がほとんど全部でしょう。若干の歴史家が、これに注目しておるだけでありますが、これは、一九二二年の四月六日に、ウェルフネ・ウジンスク――今日のウランウデを中心としてザバイカル州、アムール州、沿海州およびサガレンなどを領土としてできた極東民主共和国のことであります。これは共産主義者が中心になって政府をつくっておりました。他に、日本帝国主義に反対する民主的諸分子も参加しておりました。今日の新しい型の民主主義共和国、人民民主主義共和国のいわばはしりとでも申すべきものでありました。これが成立しまして、モスクワのソビエト政府からも承認されておった。ところが、当時の日本のシベリア派遣軍司令部――と申しますと、日本の侵入軍が、チタに本拠をおきまして、ザバイカル州をアムール州その他の地方と中断する位置におりました。そして極力その成立をさまたげておったのであります。したがって、当時、ソビエト連邦から撤兵せよ――当時は労農ロシアと申しておりましたその労農ロシアから撤兵せよ、ご年輩の方はごぞんじでしょう、「労農ロシアの承認」「通商回復」というスローガンが、このころになるとでてきております。さかのぼりますと、一九二〇年三月一五日、どうもとかく三月一五日というのはことのおこる日であります(笑声)。北浜および兜町で有名な大ガラがおきまして、世界経済恐慌の最初のあらわれとして、日本の経済恐慌がおこった。それいらい、日本の経済界はひじょうに困難がかさなって、国交回復、通商回復の要求がおこってきたのであります。このときにあたって、極東民主共和国というものに注目し、これと提けいする方向にすすむには、まずその実態をよく日本の国民に知らせなければならないということに着目したのは、市川正一ただ一人でありました。一般に「労農ロシアの承認」あるいは「通商回復」ということではたりない。実際当時の外交記録をしらべるとわかりますが、大連で、故松平恒雄が先方の代表ユーリンやペトロフと会談して決裂しております。そこで、その相手がだれであるかということをよくみきわめまして、そのうえで運動をやろうとしたのは、市川正一がまず最初の人でありました。当時の日本には、文献が少なく、外国電報その他外国の新聞、雑誌断片的にでたものを、それも当時まだ共産主義運動のほんの初期でありましたから、文献をあつめることさえきわめて困難であった時代に、一つの報告論文にしあげたということは、かれがいかにその着眼においてすぐれ、また政策の基礎をきわめて現実的にはっきりさせることを考える人であったかということがわかるのであります。
当時は、ご承知のとおり、山川均流の観念論的な、主観主義的な、宣伝作文からあまりでないような論文が多かった時代におきまして、こういうきわめて実際的な調査を基礎として、具体的に、現実的な政策の基礎になるような論文を書いたのは、この市川正一の『極東共和国』というものをもってはじめとするといってもいいくらいでありますが、この論文をかれが書きました。最初にこの論文を発表いたしましたのが、一九二二年の秋のことであります。この前、衆議院の副議長にもなりました高津正道らが、当時やっておりました暁民会というのがありましたが、この暁民会におきまして、わが市川正一は、極東共和国の報告をしました。
私が市川正一に会ったのは、これがはじめてでありました。ひじょうに謙そんでていねいな人であるということ、もう一つ、きわめてトツ弁でありながら、すぐれた理論家であるということが、私の印象にのこっております。しかも、その内容が、当時の日本の社会主義者、共産主義者のあいだでは、だれも考えたことのないような精密な分析であったということに、私ども若い連中、黒田寿男君なども驚嘆の念と尊敬の念をもってながめたのであります。これは、かれが日本の共産主義運動に寄与した最初の記念すべき論文であります。そのほかいろいろな論文がありますが、これがみな注目すべき論文であります。そして今日、私どもが、ふたたびソビエト連邦との国交回復、貿易拡大、さらには中華人民共和国との国交回復、貿易拡大の問題に当面しているときに、こうしたきわめて具体的な調査、現実の情勢の分析を土台として政策をたててゆくということは、どうしてもあらためて学ばなければならないところであると思うのであります。
この伝統が日本共産党にあるということが、こんご私どもが広い国民運動をおこしてゆく上において、重要なことであります。じっさい、当時、日本の政府をはじめ、官僚、政界、議会をもふくめ財界にもわたって、この労農ロシアの承認、それから撤兵、通商の回復ということを要求したものは、一人もなかったのであります。積極的な侵略を主張する参謀本部をはじめとして、原敬のような政治家にいたるまで、みんななんとかしてシベリアを、サガレンにいたるまで手ににぎっておきたい。ただアメリカが反対するから、これをどうしてやるかということで意見の相違がおこっただけで、徹底してこれを承認することを積極的に主張したものは、一人もいなかったのです。ただ、民間で中田江村、『東洋経済新報』そのほか若干の進歩的な人びとが、そういう主張をしておりました。それだけです。ほんとうにかすかな声でありました。これが、現実の力となったのは、一九二二年なかばのことです。「ロシア飢饉救済運動」をもととして、一九二二年七月一五日に日本共産党が創立され、共産党が創立されて以後の最初の政治活動として「ロシアから手をひけ」――対露非干渉運動というものがおきました。この年のなかごろからこの運動がおこっておりまして、神田美土代町のキリスト教青年会館ではじめて演説会がひらかれた。司会者は故人の弟の市川義雄同志でありました。ひらかれるとすぐに解散をくって、じっさいに演説はやれなかったのでありますが、これが大阪、京都、尼崎で演説会が計画されるということになったはじめであります。
このときから、労働組合そのほか、いろいろな共産主義的サークル、それから文化団体などがいっしょになって、この運動をひろめたのであります。ちょうど、今日でも、鳩山内閣だけにまかせておいたのでは、どうもうまくいきません。最初から沖縄、小笠原は日本の領土であるのに、この両島をアメリカが永久に占領して、大軍事基地をきずいていることから目をそらせるために、サガレン、千島の問題を鳩山内閣がもちだしているような、こういうときにあたって、私どもが考えるのは、やはり、政府だけにまかせておいたのでは国交回復はできない。どうしても民間が、つまり国民の団結した力で、民主勢力の統一した力でもって国交回復、貿易拡大の方向へもっていかないことには、実現しないということであります(拍手)。当時も、国民の間で、弾圧をうけながらも、共産党が先頭にたって、この運動を組織していたことが、ついに一九二五年にソビエト連邦との国交回復を実現するキッカケとなったのであります。今日でも、久原房之助が会長になっている日ソ・日中国交回復促進国民会議というものが、この運動を全国にひろめることになっており、やはりこういう運動で国民の力でおしてゆくのでなければ、とうてい、この国交回復ということは、国民の希望するような形と内容をもって実現しがたいのであります。この教訓が、すでに市川正一が『極東共和国』という論文を書き、そうして対ソ非干渉運動が当時おこった経験からみてもいえることであります。
一九二五年に、ソビエト連邦との国交が回復し、ソビエト大使館が日本にひらかれるようになった。ちょうど、これは五月のことで、私は儀仗兵がシルクハットをかぶったソ連邦大使ののった宮廷さしまわしの馬車をまもって行くのを見たことを今でもおぼえております。これよりすこしまえ、三月の国会で、治安維持法がとおりました。この治安維持法というものが、三・一五事件をひきおこすキッカケでありました。市川正一その他多くの同志を殺す法律となり、日本全体をあの戦争時代の軍事監獄そのままの状態におしめるもととなった法律でありますが、ソビエト連邦を承認するのとひきかえに、この法律をとおしました。国民がおこるのをおそれて、男子の選挙権を若干ひろげることを条件として、この治安維持法をつくりました。まずひきおこされたのが一九二五年一二月の京都学連事件で、この事件は学生で小手調べをやって、いよいよこの治安維持法によって、一九二八年三月一五日から共産党を弾圧し、労農党解散、労働組合評議会解散にまでもっていったのであります。今日でも、日本の政府はソビエト連邦と国交回復をやるについては、どうしてもモスクワから国内に共産主義の宣伝をやらないような保証をとりつけなければならないなどということを、チラリチラリと新聞でいっております。これが、クセモノであります。例のソビエト連邦とルーズベルトのアメリカ政府が国交を回復したときに、どうしても一札ほしい、といって書いたものがあります。リトビノフ大使と文書をとりかわしたのですが、それは他の国の内政に干渉する意志は毛頭ないというのです。ソ連邦政府は他国の内政に干渉することはやらないたてまえです。ところが、ヒトラー・ドイツとの戦争の時にできた非アメリカ活動委員会が、ドイツ敗戦のころからマッカーシー流のファシスト的機関に転化していっておるのであります。今日、鳩山内閣がこういうことをいいだしておるのは、あきらかにアメリカのさしがねであります。ソビエト連邦の政府は日本の内政になんらの干渉もやっておりません。それだのに以前の軍事ファシズムと形をかえて、今度はアメリカ流の形を多分にとり入れたファシズムを日本にみちびきいれるための、一つの橋頭堡というようなものをつくることを考えているのが、鳩山内閣であります。
私は、いまの鳩山内閣がやることと、うしろのスポンサーのアメリカ(笑声)政府にたいして、十分警戒しなければなるまいと思うのです。やっぱり、あのときこういうことをいいだしておったのが日本をふたたび戦争とファシズムの道へひき入れるためのこんたんだったと後日になって監獄のなかで、じだんだをふんでいってみたところで、そして戦争に追いこまれたときに「しまった! あのときに……」といっても、おそいのであります。一九二五年に治安維持法が、ソビエト連邦の承認、若干の男子選挙権の拡大とひきかえにやられたということ、私ども忘れてはならないと思うのであります。市川正一の活動は、こういう点で、今日の活動について大きい教訓をたれてくれるのであります。
そのつぎに、市川正一の活動として、平和を守り戦争に反対するという点で注目すべきことは、一九二七年、中国革命がひじょうに高まりまして、ついに四月、上海で蒋介石のクーデターがおこなわれたときのことです。蒋介石の南京政府と武漢政府との間に一時断交がおこなわれました。しかしその武漢政府も、江西省の農民運動を弾圧したことをキッカケに崩かいしていった当時のことでありますが、宇垣一成陸軍大臣現在の参議院議員が出兵しました。このときに、日本共産党中央委員会として、はじめて非合法ビラをつくりました。出兵反対を兵士に訴え、国民に訴えるビラをつくりました。当時は、まだ合法、非合法の両方の体制がきわめて不十分にしか整備しておりませんでしたので、このビラは、ごく限られた範囲にしかくばることができなかったのであります。ただこのときの経験がありましたからこそ、日本共産党の二七年テーゼをすぐ受け入れることができたのです。
敵が暴力で党組織をこわそうとしているときは、どうしても両方の体制を整備しておかなければ、いざとなって、日本の国民の独立のために、平和のためにたたかうということは困難です。そのことは当時の活動からも十分に経験づけられるのであります。このビラを、私も手つだいまして、市川正一と書きました。さらに、このときの経験がありましたから、三・一五事件のおこった年の六月、山東省の済南に日本帝国主義が久留米の第一二師団(福田孝助が師団長)を派遣して干渉をやったとき、日本の港を出航する兵士にたいして、共産党が、どんどんビラをまくようになりました。当時、こういう活動ができるようになったのは、渡辺政之輔、市川正一、敵のために生命をうばわれた両同志の指導にもとづくものであります。
この年の夏、コミンテルンの第六回大会がひらかれました。これに、市川正一は、日本共産党を代表して出席しました。この年は、帝国主義戦争に反対する有名なテーゼがつくられました。この委員会の委員に、市川正一はなっております。これは、かれのそれまでの活動からいっても、まことに適任でありました。委員長は、イギリスの有名な老革命家トム・マンです。当時の文献には、このときにできたテーゼがありますが、これを作成するために、市川正一は積極的に参加しております。この大会から帰ってまいりまして、翌年四・一六事件で、四月末にかれがつかまるまでのあいだ、日本共産党の、平和を守り戦争に反対する闘争――機会があれば中国に出兵し、あるいはソビエト連邦の国境をおかそうとしておった日本帝国主義者、軍国主義者の手を、たえずうしろからつかんでひきもどすという闘争をやって、日本の国民の先頭にたって活動するにさいし、この世界大会に参加した経験が、大きく作用しております。その先頭にたっておったのが、やはり、この市川正一でありました。四・一六事件でつかまりましてからも、戦争反対の活動は獄中でつづけられました。かれは、ひまさえあれば、たえず連絡を心がけ、あんまり連絡を心がけすぎるので、ときどきやられる。また、敵につかまる度数もわれわれのなかでは市川正一がいちばん多かった。それで、からだが弱いのに、あんまり活動しすぎるから失敗するといって、私ども苦言をていしたことがありました。とにかく、弱い身体で、目がさめておるときに、ちょっとの時間もじっとしておられない。いつも、こまめに仕事をしている性分でありました。そして、たえず若い人びとに「若い同志はわれわれよりも早くでられるから、そういうばあいにはりっぱな活動をやれ」というようなことを教えておりました。これは、のちに虐殺された岩田義道という同志にも、かれが獄中で直接手をとって教えたのであります。岩田がのちに、日本帝国主義がいよいよ中国大侵略戦争をはじめたときに、さっそくその陰謀を『赤旗』でとりあげてばくろしてたたかう運動の先頭に立っておったのは、この同志市川の指導があったこが、大きな影響をあたえておるものと思うのであります。そして、いよいよ、三・一五、四・一六両事件の公判がひらかれた(七月にひらかれましたが)。九月一八日になると例の柳条溝で鉄道を爆破したというデッチあげをおこなって、長年計画しておった中国大侵略戦争、そして第二次世界大戦の口火を日本帝国主義が切ったのであります。それが、ちょうど公判がひらかれているときでありました。
そのとき、公判でもっともねばりづよく、もうただ執ようというくらいにねばりづよくたたかい、戦争反対のために大衆にむかってよびかけながらたたかったのは、市川正一であります。そのために、市川正一が法廷でたちあがりますと、宮城実裁判長、先年脳軟化症で死んだ人でありますが、この人の顔がとたんにしかめっ面にかわるのであります。市川がねばりだすと裁判長の口びるがケイレンするのであります。それで、いつでも法廷さわぎは市川正一と裁判長の戦争反対についてのやり合いがキッカケでありました。そのために、たびたび、刑吏が暴力をふるうさわぎも法廷でおこりましたが、この点からは市川正一は、司法省の役人どもから最大のきらわれ者でありました。
阿部真之助という評論家があります。この人は、革命家を評論するにあたって、司法省、裁判所、検事局の役人、監獄の上役人、こういう人たちに聞いて共産党の人間の評価をするのであります。市川正一は裁判所、検事局および監獄の役人の連中からもっとも評判のわるかった人でありますから、阿部真之助流に評論すると、市川正一はもっともケチな人間ということになるのであります。しかし、これは、司法省の上級官僚からみればそうなのであって、同時にこれは、反対に日本国民のがわからみるならば、市川正一がもっとも勇敢に平和を守り、戦争に反対した闘士であるということをものがたるものであります(拍手)。この阿部真之助君は、戦争前、当時の政治家をたれかれとなくニヒリスト的に批評し、批評しないのは軍部ばかりであります。軍事ファシズムを日本にみちびきだすうえにおいては、功一級を呈してよろしい人物であります(笑声)。こんな人物が、第一流の評論家として活動しているのが今日の日本です。この点で、私どもは、かれの評論家としての活動は日本における軍国主義がまたぞろカマ首をもちあげてくるところのバロメーターである、ということができます。みなさんが、こんご阿部君の書くものをみるときには、この点からごらんになれば、真実のことがよくわかるであろうと思います(笑声)。
市川正一が戦争に反対し、平和を守るという日本共産党の革命的伝統をもっとも忠実に代表してきたことは、いままで申し上げたところでみなさんよくおわかりでございましょう。そして、平和を守るという活動では、ご承知のとおり、話しあいをするということが、もっとも重要であります。日本人は、どうもセカセカしておって、話しあいするまえに手が先にでたがる(笑声)といわれますが、これは、まあ、軍国主義者なんかがそういう気風をとくにつくり上げたのでありますが……。私どもは、市川正一という人格をみる場合に、かれは交友関係がひじょうに広く、しかもそれが長くたもたれておるという点では、今日、大いに学ばなければならない点であります。共産党の運動に参加すると、当時は警察や憲兵の圧迫がひどく、人にあぶながられたり、あるいはこちらから過去の古くさい関係と手をきるという一種のヒロイズムの気風も手伝いまして、私どももいろいろ見たきいたりしたことがあるのでありますが(笑声)、こういう点は、今日でも、ありがちな話であります。この交友関係を長くつづけ、話しあいをつづける条件をたもつということは、市川正一に匹敵する人はなかったのであります。例の『ぶらりひょうたん』を書いた高田保、かれは市川正一の親友でありました。三・一五いらいの困難なときに、市川正一をはじめ渡辺政之輔らをかばってくれたのも、この高田保であります。そればかりではございません。また、今日、相当大きい会社の専務取締役になっているような人が、市川正一があの反戦テーゼをつくるのに参加して日本に帰ってまいりましたときにも、かれをかばってくれております。
また、野球で有名な飛田穂州さんが市川正一の親友だと聞いたら、みなさんびっくりなさるでしょう。かれは、うちで奥さんが酒をのませないときには、かならず、市川正一のところへいって酒をのんでおった(笑声)。市川正一は「あの人は酒がなくてはいられない人だから……」といって、金がないときには、妹のしずさんを質屋へやって、金をつくり酒をのませておった。飛田穂州さんは、市川のおもいでを書けというならいつでも書くといっておられるそうです。それから、堀久作氏が戦前にも日活の社長であった時代に、その下で立花寛一という副社長がおりました。これは、ご年輩の方はご記憶がありましょうが、浅草に金竜館というオペラ館がありまして、ペラゴロという言葉もあります。あの時代に、例の「ベアトリねえちゃん、なにしてんの」とか「恋はやさし」とか(笑声)ああいう歌をだしたころの金竜館の根岸興行の仕事をやっておった人です。立花さんはこの根岸の養子になりまして、オペラをやったのです。そのご、内田吐夢さんなんかもいっておられました満州映画会社に参加しておりましたが帰ってこられて、いま中気で不遇のうちにねております。この立花さん、この人なんかも、市川正一の親友でありました。満州映画にうつるときには、市川正一は獄中におりましたが、かれに満映行きをすすめる人と、反対する人と――反対したのは市川義雄君でありました――で酒をのんでいるときに、市川正一の話がでた。そのときに、「酒をのんでおる席で市川の話をだすべきでない。それほど純な、きれいな人間である。かれの話をこういう酒の席でだすのは、かれを汚すようなものである。かれの清い気持を汚してはならない」といって、立花寛一さんが満映行きをすすめる人たちをたしなめたそうであります。
ただこのように、交友関係が広いばかりでなく、友人のあいだで、これほどりっぱな人格者として尊敬され、しかも人格者というのは、道学先生が多く、町角をまがるにも直角にまがる人が多いのでありますが(笑声)そういう点が少しもなく、きわめて洒脱な一面のある人でありました。私どもも、あのまじめな市川がどうしてこうユーモラスであるかとびっくりすることがしばしばありました。またきわめて友情の厚い人でありました。それに、謙虚な人で、年下の私どもをみちびくということでも、つねに心をくばってくれた同志でありました。
あの当時、共産主義者といえば、まだ親も勘当しかねまじい時代にありながら(笑声)、多くの交友関係をもち、またなくなられたお父さんやお母さんも、つねに「親思いの正一」ということを、私どもに手紙をよこされるときにも、書いておりました。つまり、こういうふうに、つねに、人間同志の関係において真心をもってかならず人を感化してゆくという点は、かれのまれにみる人格的特徴でありまして、まごころをもってまことをかたるというのでなければ話しあいをやっても相手に信用されない(拍手)。この点で、市川正一という人は、われわれにとっても、今日模範とすべき同志であります。
市川正一は、今日からちょうど一〇年前に、軍事ファシスト、官僚ファシストのために殺されたけれども、かれの平和を守り戦争に反対する事業、平和的共存をもとめる日本国民の事業のうちには、大きく生きておるのであります(拍手)。この精神を生かすことこそ、今日、私どもが、かれの記念日にあたって、また党が弾圧をうけた三・一五記念日にあたって、かれを追憶し、かれを記念する最大の意義であるということをみなさんに申し上げまして、私の話をおわります(拍手)。
編集者注:『日本の革命運動の群像』(第4増訂版、1963年)所収のものを底本とした。