日本共産党資料館

日本共産党創立三〇周年に際して

『恒久平和と人民民主主義のために』1952年7月4日

 現在、アメリカ帝国主義者の世界制覇の政策は大きな障害にぶつかっている。その一つは日本における革命運動の飛躍的発展である。
 一九五二年のメーデーは、日本革命運動の発展における一つの頂点を示している。このメーデーは全国一〇〇カ所にわたって四〇〇万人を動員した。敵はアメリカ将校の指揮する武装警察軍をもって全国にわたってこのデモンストレーションを襲撃したが、それは明らかに失敗した。東京ではアメリカ将校の指揮する一万の武装警察軍が、人民広場においてデモンストレーションを襲撃したのにたいして、一〇万の大衆がこれと激闘し、ついに双方とも数百人の死傷者を出した。この日本人民の重大なる抵抗は、朝鮮におけるアメリカ軍の敗戦的傾向を一そうつよめ、日本におけるアメリカの政治、経済組織の破たんを促進している。そしてアメリカ帝国主義者とそのついたてである日本反動勢力を動揺させている。
 このことは日本における革命運動が、極東におけるアメリカ帝国主義者の侵略政策に重大な障害物となり、これにたいして決定的役割を演ずることを示している。それ故にこそ、このことは国際的に大きな反響をよんでいる。
 日本の革命運動がこうした成長をしたのには、日本共産党の三〇年にわたる奮闘があずかって力があったのである。
 わが党の三〇周年にあたって、過去の活動をかえりみて、将来の発展のたすけとしたい。

  一

 ロシアにおける大十月社会主義革命は、世界の革命運動に重大な影響をあたえ、その影響のもとに各国において、共産党が生まれた。ここ数年来、各国において共産党の三〇周年があったが、わが党もこれにつづいて、今年これを迎えるにいたった。一九二二年七月一五日が、わが党の創立の日である。
 一九〇〇年の初頭から、偉大な同志片山の指導のもとに、日本の労働組合運動は発展した。天皇制の軍国主義的専制政治は、これを一時窒息せしめていた。
 しかるに大十月社会主義革命は労働組合運動、農民運動、学生運動を窒息からよみがえらせた。
 そして一九一八年夏には、米騒動??食糧暴動??を巻き起こすにいたった。
 一九二二年の初頭、モスクワでおこなわれた極東民族大会は、これまで数個に分かれていた共産主義者グループを、同志片山潜の指導のもとに日本共産党に結集させた。党はこの綱領で、天皇制の廃止と、民主共和国の樹立をかかげた。
 一九二七年、これまで単純であった党の綱領をいちだんと精密にして、党を大衆的に発展させた。それは経済主義的解党派である山川主義と、小ブルジョア的抽象理論で党を大衆から孤立させた福本主義をうちやぶって、党を労働者階級の前衛たらしめたものである。そしてこの綱領は、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止と土地を農民に無償で与えること、七時間労働制の実施、労働者・農民政府の樹立であった。この綱領を勇敢に実践して、党を大衆的基礎のうえにおいた指導者が、同志渡辺政之輔である。
 世界帝国主義のもっともよわい一環であり、天皇制によって保持されていた日本の強盗的帝国主義の内部矛盾は、大十月革命の影響による極東、とくに、中国における大民族解放運動によって一そう深まった。そして第一次世界戦争中から中国にたいする干渉を一そう深刻にしてきた日本帝国主義は、ついに一九三一年に満州を占領し、第二次世界戦争の火ぶたをきった。
 こうして日本帝国主義は戦争のために、従来よりも一そう弾圧を強めた。この残酷な弾圧は、フアシスト的であり、かつ封建的遺習をともなっていた。
 この弾圧はわが党に集中され、さらに労働組合、農民組合、学生団体に発展し、ついには自由主義的文化関係にまでのびて、国民の一さいの行動および思索にまで干渉した。そして国民の生活をまったくの軍国的奴隷として拘束した。
 この強烈な弾圧はすでに一九二八年からはじめられ、戦争が進むにしたがって、急速度に深刻の度をました。
 わが党はこの侵略戦争のための諸政策にたいして、全力をあげて闘争した。わが党は半封建的な天皇制の残忍なテロにも屈せず、工場、鉱山、農村等の職場はもちろんのこと、軍隊の中にも、軍艦の中にも勇敢に反戦グループを組織してたたかった。
 このはげしい闘いのうちに、これを指導した同志市川正一はついに殺されたのである。
 党創立から日本帝国主義が敗北するまで、二三年のあいだ、わが党は非合法に活動し、しかもひどい継続的な弾圧のもとにあった。そのために苦闘をつづけたにもかかわらず、党員は一〇〇〇名をこすことができなかった。しかしながら労働者、農民、学生の進歩的活動を、労働者階級の指導のもとに革命運動に発展せしめる相当の基礎をつくりあげた。このことは、日本帝国主義の敗北後、人民の運動が非常な速さで成長し、わが党が現在、数十万の党員を擁し、莫大な国民の支持をかくとくしていることによって立証せられる。

  二

 一九四五年八月一五日は、ポツダム宣言による無条件降伏を、天皇が宣言した日であった。
これによって日本の強盗的帝国主義は没落し、神を僭称していた天皇は、人間にひきさげられた。
 ファシズムのための治安維持法とその従属的法令が廃止されて、一八年間投獄されていた党の指導部を先頭に、わが党員が出獄したのは、一九四五年一〇月一〇日であった。
 はじめて合法的存在の可能性をえたわが党は、ただちに活動を開始した。その綱領で党は天皇制の廃止、寄生的土地所有の没収と土地を農民に与えること、独占資本の人民管理、人民民主共和国の要求をかかげた。それゆえに反動的諸勢力からの反撃はつよく、とくにファシストの残党どもは共産主義者を脅やかすため、暗殺をも辞さなかった。社会民主主義の諸勢力からは、資本家とむすんで、労働者をうらぎる活動をもって攻撃された。にもかかわらず、わが党は労働者に非常に歓迎され、労働者の闘争はほとんどすべてわが党の指導のもとにあった。そして一九四六年をつうじて、嵐のようなストライキの発展がみられた。夏から秋にかけて、海員組合、国鉄労働組合、電気労働組合を先頭に、あらゆる労働組合が賃金引上げ、八時間労働制、団体交渉権の確立を要求して、成功的に前進した。そして一九四七年の初頭には、戦争中の無組織から四〇〇万人が組合に組織された。
 この闘争の中でわが党は、単なるストライキのみでなく、労働者の生産管理を大規模に実践した。それは資本家がかれらにとって見透しのつかない政治経済情勢のために、生産を放棄したからである。労働者はこの情勢にたいして、生産を放棄するというだけでは対抗することができず、さらに前進して生産を管理しなければ、生きてゆくことができなかった。また人民大衆も、物質の欠乏になやまされていたため、生産管理を歓迎した。
 この生産管理戦術は、資本家と社会民主主義者との共同戦線によって反撃をうけたが、これを圧倒して成功した。われわれのこの経験は、革命的情勢の発展にさいして貴重なものになるであろう。この戦術を実践したからこそ、労働者は非常な確信をもってストライキを組織し、これによって自らの政権をうちたてることを望んだのである。
 一九四七年二月一日を期して、あらゆる産業をふくむ二六〇万の労働者が、大ゼネストを遂行しようとするまでになったのは、ここに起因するのである。
 この大攻勢にたいして政府も資本家も、まったくほどこすすべもなかった。だから一たんマッカーサー司令部の武力によって、ゼネストが中止させられたとはいえ、その後の交渉によって、賃金は三倍に引き上げる要求を二倍まで獲得し、八時間労働制と団体交渉権を獲得することができたのである。
 アメリカ帝国主義者は、すでに一九四六年五月にアチソン声明によって、反共的態度を明らかにした。そして吉田反動政府を育成することに力をつくした。しかしながら二・一ストライキ前までは、公然とストライキの禁止にまではでなかったが、いよいよ共産主義者の指導力がつよく、労働者も生産管理をもって前進することが明らかになったので、ついに一九四七年一月三一日、ゼネスト禁止命令をだした。その後、この反ポツダム宣言の趣旨をあらゆる場面に拡大し、現在の植民地支配にまで発展させる第一歩をふみだしたのである。
 わが党は二・一ストライキの禁止令にあって、労働者を先頭とする人民の団結を強固にするために一歩退却した。わが党は労働者にたいする指導力はつよかったが、農民にたいしてはまだ指導力がよわく、学生、インテリゲンチャ等にたいする指導力は一そうよわかった。そして党員もまだ三万をこしたばかりであった。
 わが党はその後、党の組織を大衆のあらゆる活動の部面に拡大し、敵の醜悪な挑戦と挑発に抗して、ひろくかつ深く大衆の間に党組織をうえつけ、辛抱づよく革命勢力を培養することにつとめた。
 これまで軽視しがちであった協同組合をはじめとする人民の経済の諸団体、演劇その他の文化的諸団体、中小企業者の諸団体、さらに国および市町村の政治機関、警察その他の弾圧機関にまで党勢力を拡大する方針を堅持した。この方針は党の勢力を労働者のみに集中せずに、農民、学生その他の知識分子、中小企業者など、すべての圧迫されている部分に広くはいり、民主民族戦線を広範に形成するにあった。さらに青年、婦人の活動にいたるまで、党活動を拡大することにつとめた。
 これまで出版活動は主として中央部に集中していたが、これをすべての党機関に拡大し、一九四九年の末には、五〇〇〇種以上に及ぶ新聞、雑誌を発行していた。かつ中央幹部学校を先頭に、地方機関でも活動家を教育し、あらゆる党機関における党員教育活動をさかんにした。このことによって、党員の質をたかめることにつとめた。そして大衆の日常要求をとりあげて、つねに大衆の利益をまもることによって大衆との結合をふかめ、いかなる弾圧にも屈せないように努力した。
 この結果、党勢力はいちじるしく拡大した。新しい党員の獲得は、社会党の左派および労農党から分離して加わってきた多数の人々を加えて、いちじるしく増大した。その結果、一九四九年の末には、党員数は二〇万をこえた。
 二・一ゼネストが禁止されたのち、敵は労働組合、農民団体において、党員をふくむ進歩的分子を首切り、また犯罪のデッチあげ、その他の強行手段をもってその団体から排除する方法と、買収政策によって分裂策動を強行し、党勢力をよわめることにつとめた。これにたいしてわが党は、一方においては大衆団体の分裂を防ぐ努力をしたが、他方においては、反動的または中立的傾向のもとに指導されている団体であっても、あらゆる方法をつくして党勢力をうえつけることにつとめた。これによって大衆は、日和見主義的堕落幹部をのりこえて、党の指導のもとに大衆団体の統一運動を促進し、さらに労働者と農民の同盟をかため、あらゆる場面において共同戦線戦術を拡充した。だから産業別労働組合会議など、左翼的勢力の指標と認められた団体がいちじるしく減員したにも拘らず、統一戦線戦術は、大衆団体の間にひろく成功的に活用されて、党勢力はかえって拡大した。
 一九四九年の一月に行われた衆議院の総選挙では、わが党は吉田内閣のもとに、アメリカ占領軍のきびしい弾圧をうち破って、三〇〇万の投票と、三五人の当選者を獲得した。この選挙における優勢は地方にも拡大し、わが党がこれまで殆んど何ものももたなかったのに、町村長ならびに地方議会の議員を相当数獲得することができた。
 これまで非常に微弱であった文化および科学の分野における活動が大きく発展し、あらゆる種類の文化団体――国の学術会議から各職場におけるあらゆる文化サークルにいたるまで、党勢力は拡張した。
 しかしながら他方では、二つの日和見主義が発生してきた。一つは一九四九年の春、第一五回中央委員会総会で明確になったもので、アメリカの占領制度を軽視して、議会行動を中心とする平和的手段による革命を主張するものであった。
 他は一九四九年九月からあらわれてきたもので、日本の支配は完全にアメリカ帝国主義者の手中にあり、吉田政府以下の国および地方の政治機関はすべてアメリカ帝国主義者の機械的道具にすぎないと断定するものであった。それ故かれらはアメリカ占領軍とのみたたかうことが、現在の党の主要な任務であると主張して、吉田政府との闘いを無視した。これらの日和見主義者たちは、すべてをこの宣伝に集中し、直ちに大衆をアメリカ軍を撤退せしめるために決起させなければならないと、要求した。
 党内の右翼的傾向は、党内の論争によって克服された。その克服には、『恒久平和のために、人民民主主義のために!』および『北京人民日報』の日本の情勢とわが党の活動に関する論評が、大きなたすけになった。そして一九五〇年一月に行われた第一八回中央委員会総会は、アメリカの占領制度を排除し、吉田政府によって代表される国内反動勢力を打ち倒す闘争を主とする党の当面の任務を満場一致、決定した。それにも拘らず、この決定は現在の日本の情勢と、これにたいする革命的行動の基本的関係を明確にすることができなかった。党内にはいぜんとして左翼的日和見主義の動揺がやまず、ついにトロツキストを先頭とする各種の動揺分子によって反対派が結成された。
 この反対派の結成は、アメリカ帝国主義者と日本反動勢力との、党への攻勢によって助けられたものであることは、争いがたいところである。かれらは党内の欠陥を利用して分裂を策した。そのために一時党員は減退し、党の発展を阻害された。
 われわれは党の発展の上に新しい段階をひらくために、党内の矛盾と意見の相違をなくする新しい綱領を必要とした。

  三

 党の方針の不明確であった基本的な点は、党指導部が敗戦後の日本が帝国主義国であるか、それとも植民地または従属国であるかを明確にしなかったことである。党の指導部は、日本の敗戦後の情勢をいぜんとして軍国主義的帝国主義であった戦前の状態の変態的発展と考えたところにあった。もちろんアメリカの占領制度をとりあげ、日本が従属的になったことを指摘し、これからの解放を重大な問題であると規定したことは事実であるが、いぜんとして明確に植民地、従属国の革命と規定して、同志スターリンが明らかにしたその原則によらなかったために、基本的問題を解決することができなかった。民族の解放を主張し、この状態においては、民族ブルジョジーが解放闘争の積極的要素となりうることを感知し、これにたいする活動も相当すすんでいたことは事実であるが、なお、その性格について不明確な点があったことは、争うことのできないところである。
 新しい綱領の特徴は、日本の革命の性格を従属国の革命とし、民族解放民主革命と規定して、従来の方針の不明確さを一掃したことにある。
 新しい綱領はしだいに国民の綱領となりつつある。この旗のもとに、アメリカ帝国主義者と日本反動勢力にたいしてぬきがたい抵抗組織が拡大しつつある。このことは真にわが党の新しい綱領が、国民の利益を代表し、かれらにとって生き甲斐のある闘争の道を示していることを証明している。
 一九四九年の秋から、わが党は従来の合法的活動と並んで、新しい情勢に適応するため、他の活動の諸形態をも適用し始めた。敗戦後、党は合法的活動をいちじるしく拡大し、これを運用することによって党を大衆的にし、大きな発展をとげたことは争いがたいことである。しかしながら、敵の悪らつな挑戦と挑発に抗して、党を成長せしめるためには、どうしてもこれに適するような新しい組織をもって活動することが必要であった。
 わが党はこの戦術の転換にさいして、とくに「闘いは人民の信頼のもとに」のスローガンを強調して、人民との結合を、あらゆる場合に忘れないようにこころがけた。そして莫大な人民の勢力によって党組織が擁護されることに成功した。こうして党の指導のもとに大衆は、敵の攻撃に対立する抵抗組織を急速に拡大することができたのである。
 この戦術の転換が早くはじめられたからこそ、一九五〇年の初頭からアメリカ帝国主義者と日本の反動勢力がさらに反対派をも利用して、党破壊を企てたのにたいして、これにうち勝って一そうの発展ができたのである。
 アメリカ占領軍司令部と日本の吉田反動政府は、占領制度を濫用して党中央委員、『アカハタ』編集員、労働組合および国会における活動的分子などを追放し、同時に党中央機関紙『アカハタ』をはじめとして、二千種におよぶ進歩的新聞、雑誌の発行を停止し、その印刷所を封鎖した。さらにかれらは犯罪的嫌疑を名として数万の活動分子を殺傷し、または投獄した。それをのりこえて、ますます革命勢力が成長しつつあることは、わが党が敵の弾圧政策にうち勝ったことを立証している。
 新しい綱領はこうした行動の上にさらに党の目的を明確にしたので、党活動は飛躍的に発展した。
 サンフランシスコにおけるいわゆる「対日講和」および米日「安全保障」条約にひきつづいて、これを実践する「行政協定」が実施されたことによって、この二つの条約は、アメリカが日本を永久に占領し、これをソビエト同盟、中国、朝鮮、ベトナムおよび極東の諸国を侵略するための基地として、民族を奴隷化するものであることを明確にした。
 ソビエト代表部に提出された国際協定に反する追いだしのための覚え書、および吉田反動政府と蒋介石政権との、侵略戦争のための協力が、その侵略の実践をばくろしている。
 これにたいして労働者を先頭とする農民、学生その他の知識分子および中小企業者が、新しい綱領のもとにあげて反抗した。この国民の大抵抗は、大衆の先頭にたった労働組合の行動に最もよく現われている。一九五一年末から五二年のメーデーにかけて、労働組合は数回にわたり、一五〇万から四〇〇万に至る大ストライキとデモンストレーションを行い、敵のフアシスト政策に大打撃を与えて、かれらを動揺させている。
 日本の革命運動はこれまで、国際的連帯性について比較的希薄であった。しかるに新しい綱領が成立してから、その実践の上で国際的連帯をつとめた。朝鮮戦争との関係において、ソビエト同盟ならびに新中国との関係において、アメリカの侵略政策に対立してたたかうことと、党の成長と民族生活の諸関係について、各国の友党ならびに進歩的団体から大きく援助されたことによって、国際的連帯をますますつよめた。
 更に一そうこのことについて大きな効果を与えたのは、偉大な指導者、同志イ・ヴェ・スターンが一九五二年初頭、日本人に与えたメッセージである。このメッセージはただに国際的連帯性をつよめただけではなく、日本人にとってアメリカ帝国主義者と日本反動勢力の反ソ反共政策を打ち破り、新しい綱領を遂行するために、はかり知れない大きな力となったのである。

  四

 アメリカ占領軍の指揮のもとにおこなわれた「農地改革」は、きわめて欺瞞的なものである。
 右翼社会民主主義者と「左翼」冒険主義者は、これによって耕地の分配はすでに終了し、ただ農業経営が現在の社会的条件では不利であることと、農業への投下資本が少なすぎるということだけが問題であると主張している。こうした論拠にたって、かれらはわが党の農業政策をあざ笑い、革命的土地改革の要求は、意味のないものであるといっている。
 れわれはその時に、かれらにたいして決定的打撃を与えることができなかった。それはわれわれが革命的土地改革と各地方の条件に応じておこる各種の要求とを並列的に主張して、この二つを正しく結合することができなかったからである。それ故にわれわれは十分に農民、とくに農民運動にとって根本的要素である貧農を獲得することができなかった。
 新しい綱領は革命的土地改革を実現して、国民の生活から封建的要素を一掃し、その基礎の上に農業生産を発展させ、農民の生活を向上させなければならないことを明らかにして、従来の欠陥を余すところなく指摘した。
 アメリカ軍の指揮のもとに行われた「農地改革」は、実際、中農と貧農にとっては何らの利益も与えなかった。というのはこの「農地改革」は、無償で土地を与えるのではなく、農民は代価を払い、さらにとてもたえきれない莫大な財政的負担を背負わされたために、いったん得た耕地もふたたび地主と富農の収奪するところとなり、かえって一そう窮乏におちいっているからである。
 「農地改革」は山林と原野をいぜんとして地主の手に残した。このことに関し右翼社会民主主義者と「左翼」冒険主義者は、政府を非難する必要がない。なぜなら山林と原野は、将来かならず政府が統一的に経営すべきものだからだと主張している。しかしながら日本は、わずかに全面積の一六パーセントしか耕地になっていず、山林と原野の解放なしには、何ら農民を利益することができない。現に畜産と燃料と肥料のために、地主に高額の山林、原野の使用料を支払わされている。これが地主と富農の支配を維持する大きな支柱となっている。
 現在農民は山林と原野の解放にたいして団体をもって要求し、強固な抵抗組織の擁護のもとに、その解放闘争を維持している。
 水利、農業施設などの問題に関しても「農地改革」は何らふれていない。しかしながらこの問題を解決しなければ、農民は前進することができない。
 こういうふうにしてこの「農地改革」は、農村における封建性を一掃しないばかりでなく、いぜんとして反動勢力の支配を維持する基礎となっている。反民族的「自由」党が議会で多数党であるゆえんは、農村のぬきがたい封建性に基礎をおくからである。それ故に革命的土地改革なしには、農民の状態を根本的に改善することはできないのみならず、農業生産のたえまない発展は不可能である。したがって労働者階級の生活をよくし、全国民の生活を根本的にかえることはできない。そしていぜんとして、天皇制のもとにアメリカの奴隷として失業になやみ、肉弾の供給者にとどまらざるを得ないのである。アメリカ帝国主義者は実にこのためにこそ「農地改革」によって欺瞞を行ったのである。
 農村においては新しい綱領がだされた後に、革命的土地改革の要求がはなはだしく増加し、とくに山林、原野、水利などの問題に関して、いちじるしく増加した。
 新しい綱領はこの農業問題の革命的解決とともに、労働者の要求についても、労働の半封建的搾取の廃止、労働組合組織の自由、物質状態の大幅の改善の要求をとりあげて、農民の闘争との緊密な結合をはかっている。新しい綱領の実践は、これによって、労働者と農民との同盟を強固にした。そしてそれは、学生、知識分子との結合を促し、さらにアメリカの占領制度と吉田政府によって苦しめられている手工業者、小商人、中小企業者、ならびに大商人をも労働者階級のがわへひきつけた。これらすべての勢力は、労働者と農民の同盟を中心とする民族解放民主統一戦線に結合しつつある。この革命的勢力は、アメリカ占領軍と日本反動勢力にたいする各種の抵抗組織によってつよめられている。
 新しい綱領のもとにこの革命力の結集が大いに発展したからこそ、一九五一年末から現在にかけての大きな攻勢が成功したのである。

  五

 朝鮮への侵略を開始して以来、アメリカ帝国主義者は、日本にたいしてますます圧制をたくましくした。この戦争のための資材をアメリカ人は大部分日本に求めた。その結果日本は日常生活にも事をかき、戦争がつづくに従って恐慌状態をふかめている。最近においては、資本家たちがもっとも誇りにしていた綿紡績産業が、四〇パーセントの操短をしなければならなくなった。その影響はそれに関連している中小企業に破滅的影響を及ぼした。一千万円以上の大会社が百数十社も破産せざるを得なくなった。この恐慌は化学産業から機械産業にも及び、現在では軍需産業の中心である製鉄業にまで及んでいる。したがって失業者の数は半失業者をふくめて、一八〇〇万を突破した。そのために国民を恐ろしい地獄におとしいれている。
 モスクワ国際経済会議にあらわれているところをみれば、資本主義諸国はアメリカを先頭に、いずれも戦争経済のために辛抱ができないほど破綻して、資本家陣営は分裂し、多くの資本家はソビエト同盟、新中国、東ドイツ、ならびに人民民主主義諸国と平和を維持して通商することを望んでいる。日本においても多くの資本家が同様なことをのぞんでいる。来る九月に北京において、アジアおよび大平洋地域の平和会議を開催することになったが、これにたいする参加者はおびただしいものになっている。日本からはモスクワ経済会議に参加するために、資本家を代表して三人が行き、かれらは北京の平和会議準備委員会にも参加している。
 日本においてはとくに朝鮮における敗北傾向と、これをおしかくすための細菌戦および捕虜虐殺の真相がばくろされたことによって、アメリカ帝国主義者はいちじるしく軽蔑されて、帝国主義戦争反対、アメリカ占領軍の即時撤退、民族独立の闘争がいちじるしくさかんになっている。そして国内における無法きわまる植民地支配は、大衆の抵抗戦によって障害にぶつかり、その弱体をばくろしてアメリカ占領者をますます窮地におとしいれつつある。この上にアメリカ帝国主義者の世界制覇政策は各国において破綻している。かれらはファシズムの強行によってその破綻をふせごうとしてもがいている。アメリカ国内でもファシスト法を破って、大ストライキが継続的に行われている。アメリカを先頭とする資本主義諸国では、恐慌がますます深まっている。これらの事情によってアメリカ帝国主義者が、わが民族を威力をもって圧倒することは、もはやきわめて困難となってきた。
 こういう窮地におとしいれられたために、アメリカ独占資本家とその手先の政治屋どもは、ゴロツキ集団の常として、日本におけるそのファシスト支配をますます狂暴にしつつある。しかしながらそのことは、日本の恐慌をふかめ、国民の信望を失わしめている。したがってアメリカ帝国主義は、その精神的、政治的支柱である吉田政府の維持さえも困難となりつつある。 それゆえに民族の独立と自由と平和のための闘争は、国民のあらゆる部面に浸透し、アメリカ帝国主義者と日本反動勢力を驚かせる大攻勢となったのである。ここまでくるともはやいかなるファシスト的弾圧も、容易にこの民族の攻勢を圧倒しつくすことはできないであろう。現在では日本の革命運動は、世界平和陣営と結合している。その結合は日常生活と緊密な関係にある経済問題にまで深まりつつあるので、いよいよますます、この民族の攻勢を圧倒することが不可能になるであろう。
 新しい綱領の実践後、党内の反対派グループは、もはや存在の余地を失った。きわめて小さい冒険主義のグループに堕落した「国際共産主義者団」――トロツキスト――を除いては、反対派の大部分はすべて誤りを認めて、党に復帰しまたは復帰を願っている。だから現在では党は、統一された意志と、統一された指導のもとに、十分な統制を保って成長しつつある。しかしながらまだ部分的には欠陥をもっている。たとえばとくにときどきストライキ、デモンストレーションを、労働者、農民の実際的要求から離れて、指導者のこのみによっておしつける傾向がある。さらにまた党の幹部たちが、ストライキ、デモンストレーション等の実力行動のみに精力を集中して、国会や地方議会の選挙などのごとき問題を軽視する傾向である。われわれは厳密に、辛抱づよく階級的政治教育を実施し、公然活動と非公然活動との統一に習熟して「闘いは国民の信頼のもとに」のスローガンを実践することによって、この欠陥をのぞき、おそろしい勢いで進撃してゆく革命に立ちおくれないようにする義務をもっている。
 過去日本共産党の三〇年をかえりみて、最も痛感することは、マルクス・レーニン主義によっ武装し、平和の旗手であり、勤労者の偉大な指導者であり、教師であるヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの指導原則を厳格にまもることが、必要欠くべからざることであるということである。
 さらにマルクス・レーニン主義を中国革命に運用して、新しい道をきりひらいた同志毛沢東の思想が、われわれにとっても欠くべからざる導きの道であることを痛感する。
 日本共産党創立三〇周年万歳!
 帝国主義戦争反対!
 日本民族の独立と自由と平和万歳!
 民族解放民主革命万歳!
 ソビエト同盟と中国をはじめとする平和愛好諸国との平和協力万歳!

(一九五二・六・一〇)