私は現在もこの国で横行している差別の実態に、寒々しいものを感じて憤っている一人です。
しかしその差別を逆利用する不届き者がいるのも事実です。
私がかつて所属していた部落解放運動団体では、公然たる談合組織を作って幹部が土木事業の割り振りを独占し、利益を得ていました。私はそれを直接間近に見ていました。税務署長を接待し、税金のごまかしはやりたい放題、ある幹部は部落民でもない人間の税申告書を集団申告の中に紛れ込ませ、金品を受け取っていました。私はその申告書を扱った一人です。私の中の恥ずかしい歴史です。
とにかく、こういう不届き者のおかげで貴重な市民の税金が浪費されたのは事実です。また一部の「行動隊」という下品な荒くれ集団によって、解放運動が汚され、(私は真面目な同盟員がその集団に襲われ、バットで殴りつけられる所を目撃しました。)彼らのせいでもともと存在する差別意識を却って煽ってしまったのも事実です。
同和予算の無駄遣いは、誰かがそれを批判せねばなりません。同和問題をタブーにしてはなりません。内部批判は望み薄ですし、外部から批判すれば暴力的反撃が予想されるので誰も手をつけません。ほとんど唯一、共産党がそれをしています。それは共産党が部落解放運動を共に闘った歴史があるから、できるのです。自分たちは差別者ではないという自負があるからです。ある程度それは正しいと思います。
なぜ「ある程度」なのか。
共産党の部落解放運動批判の根底には、正しい部落解放運動に帰ろうというメッセージが流れていると思います。しかし共産党の部落解放運動批判に喝采を叫ぶ人たちの多くは、単に「同和が偉そうにしているのが気に食わない」と考えているだけだからです。
思い起こすのは、部落解放運動で使われている「日共差別者集団糾弾」と言うスローガンです。
運動内左派幹部にとって「日共」とは「共産主義の理想を捨て、部落解放運動を裏切った集団」を意味していました。それは「自分たちこそが真の共産主義者である」という自負に裏打ちされています。しかしこのスローガンを集会やデモで叫ぶ多くの人たちには、「日共」とは単に「アカの共産党」でしかありませんでした。左派幹部はこの誤解を積極的に解こうとしたでしょうか。
「いやいや、自分たちは共産党がアカだから糾弾しているのではない。アカではなくなったから糾弾しているのだ。アカというなら自分たちこそ本物のアカなのだ」と公然と語った人はいなかったと思います。強い組織力を維持するため、反共意識を上手に利用していたと思います。
さて、共産党は、自分たちの運動批判と有権者の同和批判とでは質が180度違うのだということをアピールしているのでしょうか。得票のために人々の差別意識に目をつむっている面はないでしょうか。
これを考えるたびに、いつも気分が重く、悲しくなってしまうのです。