私の稚拙で乱筆・乱文な文章にご返事を頂き誠にありがとうご
ざいます。正直な話「どうせ誰も聞いてくれてないんだろう」
と思っていたので返信を見た時は本当に感動しました。思えば
大学でビラを撒いていたときも、まるで宇宙に向けてまだ見ぬ
異星人に電波を飛ばしているような気分であったものです。ま
あ人によっては本当に「電波」として受け取っておられた方も
おられたと思います(共産主義運動の過去の歴史と経験を振り
返れば「邪悪な電波」と解釈されてもゆえなきこととは言えな
いのが現実ですが)が...。なのでこのような返信があるこ
とは格別に嬉しく思います。
小生の文章を掲示していただいた管理人さまに改めて御礼申し
あげます。またご返事を書いて頂いた大先輩であるMOMO800さ
まにかさねて御礼申し上げます。
MOMO800さま。じつは私恥ずかしながら「空想から科学へ」は
読んでおりません。振り返りますと何となくそのタイトルから
読むのを敬遠していたのかもしれません。なので私は当初より
「科学的社会主義」に対して違和感を感じていたのかもしれま
せん。
また私はいわゆる「社会科学」といわれるものそのものに対し
ても違和感を感じておりました。それは科学としての要件であ
る「再現可能性」や「反証可能性」に乏しいと感じていたから
です。しかしそのうえで私は人間の社会的活動になんらかの法
則性があるという漠然とした予想がありました。
例を挙げれば拙文のはじめの方で私はMOMO800さまならびに掲
示板管理人さまに対する御礼を申し上げていますが、これなど
はいわゆる「社会性」の一つの代表的な範疇である「礼儀」や
「常識」に区分される活動であります。そしてこの活動は歴史
的な蓄積とある種の意味を付与された活動であります。それゆ
えこの活動からある種の法則性を導き出すことは不可能ではな
いとも思っています。
しかしこのような法則性は突き詰めれば人間の主観性ならびに
その基礎となる生命行動や、動物としての人間の機能的特徴(
本能)と関係しているゆえ非常に丁寧な分析が必要であるとか
んがえます。また当然ですが社会的経済的な規定というのも受
けます。つまり非常に複雑で動態的であるということです。さ
らに、そのような法則性とは無関係に人間は現実に生きており
ます。そしてこのような外在的な分析と現実の実践は意外と無
関係だったりします。
例えば私たちが実践に参加する動機というのは思想の科学性と
いうよりは現実に対する憤りだったりすると思います。不当な
解雇、差別、むごたらしい戦争、嘘が平然と通る国際社会、貧
困etc...。それらに対して何らかの「痛み」を感じること
が動機になったりしているのではないでしょうか?
少なくとも私はそうでした(それゆえ私たちは実践においては
思想性から一歩引いたところで判断することが肝要と思われま
す)。
とはいえ私は共産主義や社会主義を語るなら、少なくともそれ
が対象とする人間(とりわけ労働と観念ならびにそれらの関係
性について)と市場、国家、そして社会についてある程度正確
な分析が必要だと思います。そのような分析を有効に活用する
ことによって社会的活動に対する予測と対応方法を検討するこ
とが一定の範囲で可能となると考えるからです。経済学や心理
学などではそのような分析、予測が一定の範囲で可能となって
います。そして何よりも歴史認識に対する一定の客観性を獲得
することが可能となると考えています。
これらの要件を兼ね備えたものとして「思想的共産主義」があ
るのだと思います。
わたしは強靭な思想としての厳密さをもとめる立場です。マル
クスだろうとレーニンだろうと間違っているものは間違ってい
ると批判し、正しい部分は継承するべきという立場です。そし
てより現実的で強靭な思想を作り出すべきです。それが思想と
しての厳密性を生み出すからです。しかし思想を「科学」とし
てしまうと、そこでは思考の停止が発生します。それは間違い
であり問題です。
ところで「科学的社会主義」の「科学的」の「的」はイコール
を指す言葉ではありません。それをもって「あくまで科学のよ
うなという意味です」と強弁することも不可能ではありません
が、ここは潔く「社会主義思想」もしくは「共産主義思想」(
私は個人的には共産主義思想のほうが良いと思っていますが)
とするべきであると考えます。
共産主義を科学としてではなく思想として継承発展させること
は非常に困難なことです(思想であるがゆえの「自由」に晒さ
れるからです。また思想はそれとどう距離を保つのかがとても
難しいものでもあると思います。私自身非常に不器用な人間と
いうこともありとても苦労しています。ただ少なくとも人間を
思想と一致させるように仕向けるというのは間違っていると思
います。好きなら全く問題ないのですが、やはり人間たるもの
現実的な社会生活を送ることがその人の信ずる思想を強固にす
ることにおいても大切かと思います。たんに人間を思想と一体
化させようとすることは思想というよりも「宗教」に近いよう
な気がします。思想を探求する過程ではこの種の誤謬は避けが
たいのかもしれませんが、某革マル派の皆様のように「探求」
自体が目的化してしまっては元の木阿弥でミイラ取りがミイラ
になってしまったようなものです。そのような誤りは正される
べきです)が、この方向性を向かない限り共産主義運動の根本
的な再生はあり得ないと考えます。
次に産業政策についてですが、正直市場経済を前提とするかぎ
り利潤の追求と達成からは免れることが出来ないと考えます。
我が日本共産党は市場を通した社会主義の形成を主張していま
すのでこのことをどう考えるかはとても大切なことだと思いま
す。
そして利潤は剰余労働によって形成されているわけですが、そ
れは技術(水準)に規定されていると考えます。
労働力が商品化されるか否かが市場経済を資本制かそれ以前の
なんと言うか分かりませんが市場経済とを決定的に分ける分水
嶺だと私は考えているのですが、その商品化された労働力の搾
取率を規定するのが技術であるという考えです。技術に劣る商
品生産では「商品の命懸けの飛躍」に失敗する確率が格段に高
くなり利潤を達成することが困難になるからです。
また剰余価値の実現における技術の役割を認めることが出来る
なら、私たちは「技術の蓄積様式」という概念について考察す
ることが出来ると考えます。これは「資本の蓄積様式」の技術
において対応する概念です。経営者や技術者の方々には常識的
な話なのかもしれませんが、企業の競争力は技術に規定され、
その技術は職人技によって継承されています。そしてその職人
技で世界に対して勝負しています。つまり企業とはたんに利潤
追求ならびに資本の生産手段ではなく、技術の蓄積手段、様式
でもあるということです。日本においてはこの技術の継承と発
展は古くは江戸以前から綿々と受け継がれてきたと思います。
そしてそれが現在では企業の内部に存在しているということな
のだと思います。
産業政策が非常に困難なのは、このような技術というのを国策
によって形成するのが果たして適当であるか否かということに
よります。明治以降の殖産工業時代には国策によって作り上げ
ましたが、それにしてもある程度軌道に載ったらそれ以降は民
間で運営してきました。インターネットなどはアメリカの軍事
研究がその元になっているそうですが、あのような巨大な産業
を抱える余裕は日本にはないと思います(巨大な軍事産業はさ
まざまな分野での開発ならびに分野横断的な開発を可能として
いるようです。巨大な自由市場を背景とした巨大な公共事業と
しての軍事分野の存在はアメリカの技術開発力に大きな貢献を
もたらしていると考えます。しかしそれにも関わらず相対的な
優位さは縮まってきているのではないでしょうか?)。
日本の技術力は、国家からの支援を受けつつも激しい競争環境
の中で先輩から後輩へと受け継がれるからこそ発展してきたと
いう事実はかなり根深いと思います。だからこそ技術者を獲得
することに成功した労働組合は強力です。日本の労働戦線が右
傾化しっぱなしだった理由の大きなものはこのへんにあったの
ではないでしょうか(とはいえ近年ではLEDの特許料を巡る訴
訟や技術職の労働環境についてのさまざまな動きがあるようで
す)?
とはいえ、既存の技術の体系だけがすべてではないようです。
新しい技術の開発とその実現、俗にいうベンチャーというのも
あります。
MOMO800さんが紹介されていたフィンランドでは産学連携が非
常に発達しており、学生は学生時代にアメリカの企業に1~2
年就職して技術開発などに関わるとのことです。そしてそこで
得た技術をもとに本国であるフィンランドで起業したりするこ
とも多いと聞きます。学費が安いというのがとても魅力的です
が、産学連携と実利主義というのも大切なようです。
私は国策で産業政策を行うならば、ベンチャーに対する支援育
成政策が大切であると考えています。具体的には国家による支
援育成のための金融機関の設立と融資です。ポイントは融資要
件の緩和だと思います。ベンチャーは資金繰りが難しいと聞き
ます。それゆえその資金繰りの部分をサポートするのです。ち
なみにこれはイスラエル政府の政策を参考にしています。イス
ラエルは国家が積極的にベンチャーを支援することで高い経済
成長を達成しています。よければ「イスラエル」「ベンチャー
」「政府」「支援」というキーワードで検索してみてください
。社会環境が異なるので一概に適用することは難しいかもしれ
ませんが、日本においても医薬品部門においては新薬の商品開
発に関連してベンチャーが形成されています。
金子先生の本は読んでおりませんが、生産性と新規商品開発い
う観点から考察した場合一次産業における生産性の上昇と新規
商品開発というのは非常に困難であると考えます。
旧ソ連や中国における「社会主義計画経済」の自壊とは、つま
るところ「生産性の停滞」を原因としており、短命に終わった
アンドロポフ書記長がなんとかしたかったのも生産性の上昇だ
ったように思います(ゴルバチョフが本当の統計を見て大変驚
いたという話は有名です)。
資本主義が強靭なのは、現実的にはまさに技術競争と生産性の
上昇ならびに新規商品開発にあります。皮肉なことに剰余労働
すらその後に付いて来るもののようです。
環境への配慮はMOMO800さまが仰られるとおりだと思います。EU
では非常に厳格な対応が取られていると聞きます。市場全体で
の取り組みが必要な部分だと思います(「スウェーデンの今」
というブログが参考になります。)。
教育政策については、とにもかくにも無償の奨学金を大幅に増
やして優秀な学生は誰であろうと無償で教育を受けさせるべき
と考えます。その結果対象者の多数を金持ちの子弟が占めるか
もしれませんが、極端な話99人の金持ちの子弟への税金の投入
という「矛盾」よりも1人の貧乏人の子弟への税金の投入とい
う「道理」を尊重するべきです。東京大学では学部では親の年
収が400万円(?)以下の場合学費が無償化されるそうですが
、これは本来政府が行うことだと思います(余談ですが、日本
の「ハーバード」を目指している慶応大学の奨学金は本当に貧
弱です。まずは奨学金の豊富さを真似してから「ハーバード」
を目指して欲しいところです)。そしてどこの大学(国外も当
然OK)に行こうが本人の自由にするべきです(条件は卒業後5
~10年は日本国内で働くことでいいと思います)。センター試
験によって決定してもいいかもしれません。
むろん高校の学費無償化や少人数学級というのは目指されるべ
きであると考えます。
医療についてはMOMO800さまの仰るとおりと思います。
そのうえで日本政府と日本国民は歴史的経緯(侵略の歴史、
戦後の在日米軍による暗黙の恫喝)や将来の東北アジアの平和
のためにも、そして憲法前文の精神を発揮するためにも朝鮮民
主主義人民共和国に対する社会福祉と医療の支援を行うべきで
あると考えます。
以前小泉義之さんという立命館大学の教員の方がイラク戦争の
際、日本は戦争に参加するのではなくイラク国民を日本の社会
保険制度に組み入れるべきであると提言していましたが、それ
を私たちは隣国に対して行うべきであると考えます。もし民族
感情(共和国の方々の)などの問題があるのでしたら韓国政府
と協議するべきです。
我が日本共産党は政府と国民に共和国に対して積極的に人道的
な支援を行うべきであると主張するべきです。経済制裁ではな
く医療援助、福祉援助を行うべきです。それが日本国が日本国
ならびに国際社会に対して行うことが出来る「道理ある国際貢
献」だと思います。
いずれにせよ上記の内容を行うためには所得税、法人税、消費
税のすべての増税は不可避なわけでそれを我が日本共産党が主
張することが可能かどうかははなはだ疑問なのですが。いずれ
そのような主張が可能となるような党になればいいと思います
し、またそのようにしたいとも考えております(が私は非力で
す...)。
長文&駄文失礼致しました。