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党員用討論欄

社会主義運動はなぜ誤りの発見が遅れたのか

2010/6/1 植田 60代 技術者

 皆さまのご意見で勉強させていただいてきました。あらためて私が付け加えるべきコトがあるとは思えませんが自分なりの整理をかねてまとめてみました。本来ならこのような意見の交流は党組織を通じてできればいいのですが、支部内に限定された議論では内容が深まりません。私は研究者ではないので乱暴な集約や思い込みがあると思いますがこの場をお借りして皆様と意見の交流ができればと念じて投稿させていただきます。

 ソ連崩壊後の私の疑問は「なぜかくも長き期間にわたってこのような欠陥や誤りが見過ごされてきたのか」、ということで、ここに投稿されている多くの方と共通したテーマと思います。
 自分自身への反省をもとに以下の3点に関して述べます。
1.理論と実践の関係の理解に誤りがあった。
2.この誤りを生み育てる土壌が党組織そのものと個々の党員の胸の内にある。
3.大勢と理性に流されない自由な意見の交流。

1.理論と実践の関係の理解に大きな誤りがあった。

 私は技術者として40年間、機器やシステムの開発と設計に携わってきました。機器は設計者の意図とは別に、設計された通りに動作します。誤りも含めて。設計に誤りがあれば、正しい設計では生じる筈のない結果が得られたり、生じる筈の結果が得られなかったりします。これら異常は設計の誤り、不十分さを示していて設計者たる自分以外に誤りの原因はないのです。設計の誤りを確認し、修正を施して次の異常の検出に向かいます。この繰り返しによって機器の完成度は向上します。優れた技術者は【優れた設計をすることby帰納+連想】と【誤り検出に敏感なことby反証重視】の二つの能力と姿勢を持った人間です。社会主義も今まで実在していなかった社会の設計という創造過程ですから機器の単純な設計とはイコールではないですが、この二つの能力と姿勢の重要性は共通だと思います。

 ・優れた設計であったかかどうか。岩田昌征氏によれば「社会主義革命は資本主義の否定形という点では既知だが社会主義の肯定形としては未知だった」、つまり社会主義の建設は非資本主義(nonK)として否定形での設計でスタートしたと言える。設計という面から見れば、資本主義の進化としての設計ではなく、ともかく<資本主義の否定=社会主義>以上の具体的設計プラン、市場メカニズムに替わる具体案は存在せず、いわば空想的設計だった。これは社会主義建設時の設計上の重大な欠陥ではあったけれど革命後の過渡期での試行錯誤プロセスに委ねられてもよい課題であった。問題は試行錯誤プロセスが社会の設計&管理を担った社会主義党によって正しく機能しなかったことにあった。ちなみに現在に至るも平等と自由を財の共有によって実現させるという社会主義のアイディアが理念以上の設計図レベルで示されてはいない。依然として今後の課題であろう。

 ・誤り検出はどうであったか。革命後の試行錯誤プロセスではまさにこれが試されていた。社会主義党はここに大きな欠陥があったと思う。ポパーの言を待つまでもなく、誤りや限界の明確化が理論の進歩にとって決定的に重要で、実践は誤り検出の貴重な機会である。しかし、社会主義陣営は正しさの主張と証明に汲々として、誤りの摘出をサボッてきた。実践により得られるのは正しさの証明ではなく誤りの検出だが、実践をこのように理解してはこなかった。もちろん実践の主な目的は誤りの検出ではなく実践により得られる成果だけれど、【意見の相違は実践によって決着させる】といった場合の実践での決着とは正しさの証明ではなく誤りの検出であることを忘れてきた。だから、党の運営は「中央は方針を提起し下部の実践の過程で方針の誤りを検出する。検出される異常や期待からの外れは細大もらさず全党的に集約され、新たな仮説、方針の提起へ向かう」というスタイルであるべきだった。今までは実践は方針の正しさを証明する証拠と位置づけられていた。だから期待される結果が得られなかったときに「下部の理解不足、努力不足、敵の反共包囲網、方針がストレートに実現するわけではない、、、等々」との方針擁護が先行し、理論や方針の誤りを検出する貴重な機会を失ってきた。この欠陥は全世界の社会主義運動に共通していた。これは何故か。

2.組織の維持自体を自己目的化する転倒した組織原理がこの誤りの土壌で、党員の胸の中にもこれがある。

 ・組織は一般に目的実現のために多様性を制限して統一性を重視して成り立つもの。
 ・個々の党員の胸の内に組織性、統一性への崇拝があった。

 組織とは目的を達するために多様性を留保して一定水準に合わせて方向を揃えるといった統一と集中 を獲得しようとするもので、同時に統一性の維持には上部の決定に下部が服する何らかの権力機構も必要で、この点において企業と同じで討論クラブとは異なる性格をもっている。問題はここで必要な限度を超えての統一性が維持されることである。権力機構は組織の維持と拡大から利益を受ける。権力機構内部に党組織の目的から離れて組織自体の維持拡大を自己目的化する転倒した組織原理が生まれやすい。これは企業内部でも資本から経営を任された経営者集団に発生する傾向と同じであり利益なき大会社はこうして生まれる。企業は市場による淘汰メカニズムがあるので市場から受け入れられなければこの転倒は長持ちしないが、党組織では市場のような外部強制力がないので党員がこれに気づかなければ党の存続を最上位に置く転倒した原理が続く。組織の拡大がメンバーの利益に通じるのは講やマルチ商法と同じで、閉鎖的な自己中心的組織をつくる。組織維持が党の組織原理になれば誤り検出メカニズムは排除される。 また組織維持の自己目的化は自己と異なる思想や信条への敬意を持てず統一戦線への決定的な障害ともなる。現に近年の党の方針では統一戦線の追及は党勢拡大活動の後景に追いやられて久しい。党の根本的体力を失わせている惨状とも言うべき思想的衰退はここに由来していると思う。
 個々の党員の胸の内にはおしゃべりだけでなく実際の行動も伴うべきという誠実さを大切と思う心が強い。啄木の詩にも「機械職工なりき、、吾は議論すること能はず、されど吾には何時にても立つことを得る準備あり、、、」や「テロリストのかなしき心、、、、ことばと行いとを分かちがたきただひとつの心、、、しかしてそは真面目にして熱心なる人のつねに有つかなしみなり、、、」とある。
 何か役立つ存在でいたい気持ちは、実効あることを為すには行動における統一を重視し、自分の多少の異論、疑問はさておいて、党の統一性を守ろうとする。問題は統一性の過剰摂取であり、麻薬のような効果を生む。統一性を破るものは「反党」となり、異論や反証を反党的と見なしてこれを無視や敵視するようになる。しかし統一性最優先は現実的には上部機関の決定に従うことそのものであり、指導部への盲従と紙一重となる。
 石堂清倫氏はこのような心情を「われわれには組織性への崇拝があった、これが全世界の社会主義運動の早い時期に撒かれたスターリン主義の病根だ」と指摘していた。

 3.大勢と理性に流されない自由な意見の交流が党内民主主義の要。

 ここで述べてきた社会主義党の欠陥は今だから言えることで、野蛮な敵の包囲の中で多くの犠牲を払いながら敵の弱い環を突破して革命を成就させるには硬い一枚岩は欠陥ではなく必須だったとも思う。先人たちの努力に敬意を払いながら50%の肯定と50%の修正が必要だろうというのが私の気持ちです。
 中坊公平氏は組織における意見交流の重要性を簡潔に述べている。「類似意見がまとまって探求と検討が深まり、対立意見との類似と相違が整理され明確になる、、。複数意見間で相互浸透、競争、淘汰が生じる、、、。この過程で少数意見も成長し、多数意見の誤りも発見修正される、、」
 事実を正確に知ること、その上で自由な意見の交流を図ること、この二つは民主主義の前提だが党運営にはこれが見事に欠けていたと実感する。この歪んだ党運営の動機は組織維持の自己目的化であって党防衛ではなかった。各級機関での議論の公開と機関を超えての自由な意見の交流が党の重篤な病を絶つのに必須と思う。どちらも党員主権の原則に含まれる。しかし党員主権であっても多数意見の暴走=「脱線も逸脱も皆で渡れば怖くない」があり得る。そこで意見交流に当たっての個々の党員が心すべき少数意見や異論の尊重の精神について私の経験から重要と思えることを二つ。

 ・数的多少に引きずられない、質的差異を見極める評価
 ・理性の誤りと暴走への歯止めとしての「消極的反対、嫌悪感情」の尊重

 個人の意見が大勢に引きずられるのはどの世界でも同じだろう。市民社会では少数意見は尊重とは言っても、時間と費用の面からも尊重に当たる具体的扱いはなく結局は多数意見の採用に落ち着く。しかし党内民主主義ではこの引きずられ効果を前提して少数意見には尊重以上の具体的措置を与えることが考えられる。少数意見の中には反証が含まれている可能性があるから貴重である。複数意見を肯定/否定に分類、集約した上で意見の数的多少に流されない評価方法を検討すべきと思う。
 理屈ではこうなるようで、反対できないのだが、何かひっかかる、おかしい、などの生理的反応が誤りを発見する針の穴となることは我々の多く経験するところでもある。理性に頼らざるを得ないけれど、理性は誤るという前提を持つべきで、そのときの保険として生理によるチェックを重視すべきと思う。理性は多様で幅広いので多くの誤りも屁理屈として潜伏して発見が難しい、比べて生理は幅狭く迷いがない。このことを劇作家の木村快は「理性は生理に謙虚でなければならない」と言っている。
 どちらも市民社会での民主主義では許容できにくい。党内に限ってはじめて許されうる高度な(?)民主主義であるかもしれない。公的任務を自覚した私的集団としての党が厳しく自己を律するための独自の民主主義が探求されるべきと思う。

 社会主義党は社会では少数だが大勢に逆らって異議申し立てをする集団であった。異議申し立ては立党の精神風土であった筈なのに党内ではこの精神に逆行する風潮が蔓延してしまう。党が資本主義の進化形ではなくアンチ資本主義での異議しか持ち得なかったからではなかったか。反資本主義一本槍での団結が党内部では多様性も反大勢の精神の喪失を招いた遠因ではなかったか。反共と同様に反資本主義も豊かさを持ち得ないのでは、アンチでの団結は一時的であるべきで、アンチの先での団結でなければならないと今では思っている。そしてアンチの先がまだ見えてこない。思うところは以上ですが議論を明確にするために少し誇張が過ぎたかもしれません、ご容赦ねがいます。

 以上