人文学徒さんにおだてられ、励まされたのでもう一つ投稿させていただきます。前回投稿「社会主義はなぜ誤りの発見が遅れてきたのか」で党と党員の体質について、主に方針や決定がなされた後での検証過程に弱点があること、それが過渡の統一性に原因があることを述べさせていただきました。今回はこれの続編で、決定後でなく方針や決定がなされる過程、いわば設計段階での弱点について思うところを述べます。
自分自身も含めてJCPには何事にも否定形での発想が多く、これが弱点の一つではないかと思うのです。
1.否定形はその先の肯定形での無数の選択を確定できない。
2.否定第一の姿勢は漸進的改良を遠ざける。
3.否定面が顕在化する以前のコトは考える対象にならない、つまり認識が現実から遅れる。
4.主人公としての姿勢が育たてない。例えば労働運動では対資本での関係の枠内での関心に限定されていた。
5.否定形の共有での団結は多様性と寛容を生まない。
1.否定形はその先の肯定形での無数の選択を確定できない。
資本主義の否定で始まった我々には否定形での発想が習性になっている。6/18発表の志位氏の参院選公約でも未来社会の展望として利潤第一主義のない社会、旧ソ連のような他国侵略や自由抑圧をやらない社会、など否定形での表現が多い。前回投稿で引用した岩田昌征氏の「社会主義革命は資本主義の否定形という点では既知だが社会主義の肯定形としては未知だった」はロシアなどで社会主義がスタートしたころの回想だったけれど、この状態がまだ続いていると感じる。何か新しいコトを始めるには現状に否定すべき内容があるからで、これ自体は当たり前でもある。暴力、戦争、貧困、病気、人種差別、支配、不平等、不自由、、、、否定だけで充分に意味のあるコトもたくさんある。不幸や不正を許さない姿勢が現実変革=否定形の発想を生み育ててきた。資本主義が諸悪の根源なので資本主義が消えるまでこの世は否定すべきことに満ちている。しかし、否定形での発想だけではその先の肯定形での無数の選択を確定できない。水を張ったコップにインクをたらす、たらす場所をx、y、z、、と変えても結果はインクが拡散してすべて同じ状態になる。社会の設計はこれの逆過程と似ていてインクが拡散した水を元に戻すこと、これは未来の選択でどれがいいかの結果は分からないけれどx、y、z、、のどれかを選択できる。否定形だけでは行き先x、y、z、、を確定できない。志位氏の利潤第一の否定を例に考えてみる。利潤第一を否定するだけでは社会の設計はできない、利潤第一に代えてどういうメカニズムの社会を創るのか、xかyかzかが問題。利潤第一を否定してスタートした社会主義はあらゆる形での実験に総て失敗して消え去ったし、罷り間違えればスターリンやポルポトや北朝鮮のようになるかもしれない。利潤第一は何か別の災害とのトレードオフで選択されている原理かもしれず、利潤第一の否定はこの災害を出現させるかもしれない。利潤第一の否定の主張に対しては国民(勿論私も)の頭の中には無意識ではあるけれど行き先に関する直感的な大きな不安があると思う。だからこのような失敗や逸脱を前提としての新しい非利潤第一社会がスターリンやポルポトや北朝鮮に直結しないことを具体的に示されなければ訴える力はない。否定形での発想だけでは共感はあっても社会の選択、社会を動かす力にはならない。綱領にも幹部の論考にも社会主義の展望は生産手段の私有の廃絶として否定形では明確だがこれ以上の具体的で肯定的な内容はなく市場の導入が漠然と語られているだけである。社会主義の青写真はこれを求めない、というのがJCP幹部の考えでこれで長いことやってきた。青写真の押し付けは困るが、青写真を探求しない、持たない、これは堂々と主張できる筋合いのコトとは思えない。青写真は幹部に求めない。幹部は全党をあげての行き先の探求の先頭に立ってこれを指揮して欲しい。党は行き先x、y、z、、で国民的な審判を受けるべきだ。
2.否定第一の姿勢は漸進的改良を遠ざける。
ヨーロッパ社会民主主義が獲得した成果は今日では我々の目標の一つとなっている。彼らは現実資本主義と格闘しながら、福祉、厚生、医療、教育などへの富の社会的な分配とパイを産む労働における私的な動機との社会的整合と合意を得る政策を探求してきた。これらはソ連など現実社会主義では失敗したコトだったが、今日我々が目標の一つとするべき内容を得ている。否定形の発想は先ず破壊ありきでこのような漸進的進歩を遠ざける傾向がある。資本主義は否定すべき内容を含んではいるけれど戦争や暴力そのものとは違って消去の対象ではなく改良すべき社会の母体である。資本主義の進化形での設計が社会主義であるのだから、資本主義の分析と研究が先ず最重要だけれど、資本主義を全面的に否定すべき対象とみるとこれの研究は不十分になる。社会主義は人類の成果を継承するものと言うけれど否定の先に進まなければ継承は口だけとなる。マルクス資本論はピュアな資本主義の振る舞いを分析したもので、資本主義が社会全体を覆い尽くしたらこうなるよ、との分析がなされている。現代の修正改良され複雑化した資本主義の分析は当然ながらそこにはない。それは我々の仕事だが、否定形の発想はこの仕事を遠ざてきた。現代資本主義は利潤を根本動機としているが様々な規制や制御が組み込まれていて利潤第一で社会全体が作動しているわけではないことも志位氏は忘れている。これは資本主義原理の否定に急で、資本主義自体の研究を怠ってきたからではなかったか。
3.まだ萌芽にすぎないコトは考える対象にならない。
否定面が明確にならないと取り組めない。つまり認識が現実から遅れる。例えばシリコンバレーなどで見える企業家起業家精神、これは資本家精神とは異なる面を持っている。非物質的生産物(芸術から組み込みプログラムまで広義のソフトウエア)を商品とする新しい産業、人間労働は創造段階だけでそれ以外では0コスト、製造はコピー/流通はネット/廃棄はイレーズで殆どがワンクリックで済む。全過程で原料も土地も工場も設備も、つまり資本が不要の産業でこれが新しい産業の一つの中心になろうとしている。これは資本論の想定外だ。ものづくり伝統も資本蓄積もないガレージ企業が短時間で世界を支配する巨大企業に成長できた。資本論は第一次産業革命の結果もたらされた社会についての分析で、産業革命後に生まれた理論。現代は非物質生産物を主流とする新しい産業革命が進行中で対応する分析と理論が求められている。見田宗介氏も「情報産業は人間の無限の欲求を吸収できる可能性がある」と指摘しているようにこの産業革命はエネルギーと物質の消費から脱する新しい道を開くかもしれない。人類史的に大きな可能性と意味を持っている。そしてそこでは動力での産業革命が資本論を生んだようにエネルギーと物質の制約から離れた現代の産業革命から作られる社会に対応する新しい理論が求められている。否定形での発想に留まっていてはこれらに無力である。
4.否定形での発想は主人公として考える姿勢を育てない。
例えば私の経験では労働について主人公としての労働観について議論や探求がなされなかった。労働組合運動の中では対資本の日々の闘いに終止することはやむを得ない。けれど、もう少し長いレンジでの社会変革を課題とする社会主義運動、社会主義党の中では労働者個人の労働の動機と社会的に必要な労働との整合について、ソ連などでの失敗から学んで労働観についての探求がなされるべきだったと思う。労働は資本主義では疎外されていて、労働と待遇の様々な課題は資本主義では解決できない、社会主義を待たねば根本解決できない、として諦めと納得が仲間の胸のうちにあった。では社会主義になったら、疎外なき本来の労働の質と賃金などはどう決めるべきなのか、競争と評価はどうなされるべきかという肯定形での探求は進まなかった。労働はもっぱら資本との関係でのみ、資本主義分析の視点からの分析に限定され、賃金労働者としての労働観に留まっていた。例えば資本は質の高い労働を低コストで使いたい、これに対抗すれば質の低い労働を高く売る、となり現実路線としては少なく働いて多く獲得となる。これは生活する権利の手段として労働を見る労働観で、少なくあってほしいような労働は権利と呼ぶのに抵抗がある。仕事に愛着はあっても労働は価値あるものとして主張する対象ではなかった。労働者が主人公としての姿勢で労働観を探求することがなかった。結局これは資本と同じ土俵でのパイの争奪戦であったからではなかったか。本来の労働はどうあるべきか考える、労働観に関する探求や議論は殆どなかった。否定形中心での発想での運動が結局は中間社員をひきつけることはできなかった遠因だったと思う。
5.否定形の発想での団結は多様性を生まない。
ここは前回投稿の最後部分と重複します。否定の共有は対話の入り口にはなるけれどこれだけでは話が深まらず先に進まない。敵対する階級への階級的憎悪の共有で生まれた団結は仲間内での憎悪によって分裂して長続きしない、左翼の歴史での各派の分裂はこれが遠因ではなかったか。反共も反資本主義も反**での団結は寛容さや多様性を生まないことを経験的に感じます。
以上、論証抜きの随想的内容でお恥ずかしいのですが何かのヒントとなれれば幸いです。