○ はじめに~民主主義社会の中における全体主義政党とは?~
普通選挙制、複数政党制、基本的人権の(おもに公権力からの)尊重は日本に
おいてはだいぶ守られている。たまに検察が暴走したりはするが左翼活動家であ
るという理由で暗殺されたり拷問されたりすることは現実にはない。このような
社会を民主主義社会と仮に呼ぼう。
ところで共産主義は全体主義である。まず労働者階級を社会の主人公と考えつ
つ広く人民が国境を越えて協調しあうことを目指しているからというのが第一の
理由である。つまり特定の地域、特定の民族、人種、階層、職業、利益団体のみ
ではなく、普遍的な人類を階級的視点から統一しようしている。次に政治、経
済、文化、そして時には科学技術さえも運動の一環として考えている。つまり非
常に広範な領域にまたがる活動である。人間が行う活動の全てに対して注意を
払っているといっても良い。最近はこれに自然も加わり始めますます全体を包摂
せんとしている。そしてこのような全体状況や全体の構造の中で個人の振る舞い
を選択するべきであるとかんがえている。
良い悪いはべつにして共産党員はそれゆえ真面目でしかし融通が利かない。
これらはおおよそ共産主義思想の思想的特徴によるところが大きいと思われ
る。
本来共産主義政党は労働者階級の全てとは言わないが少なくともその先進的部
分(古い!)と中核部分は共産主義思想を有して欲しいと思っている。そしてそ
れを歴史的にみれば国家を媒介に実践してきた。
日本共産党の非常にユニークな点として、日本共産党が政権を奪取したとして
も国家を媒介に共産主義思想を労働者階級に対して注入する(これも古い!)こ
とを放棄している点にある。ならいっそ自身の党においても共産主義思想を放棄
すれば良いのではないかということになるがそうすると大抵の場合党が崩壊す
る。イタリアを見ても他の国を見てもおおよそ上手くいかない。そもそも共産主
義政党が立脚する思想的な問題なのであり、この問題を集中的に討議し承認しな
い限りそれは不可能である。そもそも思想的な政党なのであるから当然なのであ
るが。ところで政党のなかでも共産党は思想を基盤としているという意味では異
色である。というのも大抵の政党は宗教的な背景もしくは歴史的な背景を基盤と
していることが多いからである。それらは大抵の場合国民的共通体験や感情的傾
向を代表している。それゆえ離合集散が比較的激しい。共産党は歴史的にはおも
にソ連共産党の支部として形成されてきたがソ連共産党がいくら一国社会主義路
線を採用してもそれでも社会主義は社会主義であり社会主義的原則をすべて放棄
はしていなかった(戦後の民族解放運動におけるソ連の客観的役割は否定しよう
がない)。それゆえ共産主義思想に基づく共産党という形式は保たれている(つ
まりロシアの利益のみを擁護する利益団体ではなかったという意味である)。
日本共産党は民主主義社会の中におけるある程度の普遍的な思想を背景とした
全体主義政党であり、それゆえ大きなジレンマを抱えている。
○自由意志に基づく全体主義政党への参加は根本的に自己責任である。とはいえ
それは運命である。
共産主義者は全体主義者であるがそれは大抵の場合自発的な全体主義者であ
る。もし自発的でなければそれは反革命である。なぜならそれは自己利益の確保
が動機であるからである(これを厳密に適用したら中国共産党の新入党員はほと
んど除名であるが)。共産主義者は自らが真理の体現者であるとかんがえてい
る。それゆえ他動的な入党は認められないのである。なぜなら真理とは高貴なも
のであるとかんがえているからである。そして他動的な入党ではそのような高貴
さが汚されるからと考えるからである。
共産主義者は資本主義的生産様式は利潤率の一般的低下傾向によって早々破産
するとかんがえている(恐慌は一時的に人類を原始常態に戻すがそれは人間の命
よりも商品価値を優先させることで価値そのもの対する信用を防衛する資本主義
社会の自己防衛機能である。それゆえ恐慌後にはますます資本は集中する。つま
り大企業のみが生き残る)。労働者に対する搾取は限界があるからである。とは
いっても意識的な闘いがなければ人類が滅亡することになると考えている(以上
の事柄はおおよそマルクスの古典を数冊(資本論は必携)読めば理解出来る事柄
である)。
共産主義者は当然以上の内容を真理と考え、またその真理を愛する者であるか
ら労働者階級の自己責任とは資本主義的搾取に迎合することではなくこの搾取を
根本的に廃絶することであると考えている。もっとハッキリ言えば、共産主義者
にとっての自己責任とは社会主義ただ一つである。
それゆえ社会主義とは自己責任である。それは運命なのである。
共産主義者は自身がこの運命を知り、そしてこの自己責任を自ら進んで引き受
ける者であると自覚している。それも人類のために。キューバのカストロ議長の
発言はまさにこれらを体現している。
共産主義者が資本主義社会における自己責任を根本的に承認してないことの背
景には、つまり資本主義社会の自己責任などそもそも幻想であるという考えに基
づいている。真の責任とは社会主義であるとかんがえているからである(おそら
くギリシャ共産党はこのような思考方法を採用していると考える)。
ところで共産主義者が他の政党の議員と比べて独特なのはおおよそ以上のよう
な傾向を有しているからとかんがえて良いだろう。これを非人間的であると考え
るか否かはまさに個人の判断にのみ委ねられる問題であるとかんがえる。
共産主義は運命であるがそれは自覚的な運動なくしては成り立たないというジ
レンマは共産主義者の資本主義理解ならびにそこから導き出される共産主義の必
要性に規定されているのである。そしてこのジレンマが共産主義運動をするか否
かは個人の自由意志に基づくものであるというジレンマにたどりつく。そもそも
共産主義以外に選択肢はないという前提を置きながらそれでも自由意志を尊重す
ることは一体如何なる意味を持つのだろうか?ここにこそ共産主義のユニークさ
がある。それは暗に「自分はまともである」と主張しているように見えるし現に
共産党員を見るとそう見える。正直執筆者自身そういう思い込みから自由ではな
いが、個人の短い人生においてはそんなことは大した問題じゃないという正しい
反論の前ではなす術もないという実情もさることながら、そもそもまともでなく
とも良いという選択肢を共産主義は認めているからである。
共産主義を全体主義と規定することの積極的な意義はここにある。
共産主義を全体主義と規定しつつそれが自由意志によってもたらされることを
承認したとき、共産主義は人間の主意主義を超えている。人間は主意主義そのも
のを選択できる動物であると考えているのである。そして執筆者は動物で良いか
どうかは、それこそまさに「個人の勝手」と考える人間なのである。であるがそ
うであるがゆえに相田みつおの「人間だもの」という発言には虫唾が走ったとい
うことは一共産主義者としてハッキリ申す(このかんの社会経済的変動の良い結
果としてあの手のマヌーバ的人間主義が一掃されたことを挙げることができ
る)。
共産主義は全体思想観念を必須とする主義である。そしてまた自由意志を必要
とする運動である。
政治思想においては共産主義を全体主義と規定するととたんにファシズムと同
一視する傾向が存在する。これが多数派であるのが現状である。一方において共
産主義は自由主義に属すると主張する傾向もわずかながら存在する。これは「反
スタ」を掲げる一部新左翼や無政府主義者が主張している。しかしこれこそ悪い
冗談である。私たちに必要なのは共産主義は全体主義であるがファシズムとは一
線を画す独特な全体主義であるという自覚とその独自性の把握である。ハンナア
レントを乗り越えることが必要である。
ちなみに共産主義者にとっての自由とは「必然性の洞察」であるのでたんなる
選択の自由を意味しているのではない。共産主義者は共産主義者になることに
よって自由になっているとかんがえているのである。まったくどれだけ観念的な
のだろうか!でもそれは現実である(そしてまた厳格なユダヤ教やイスラム原理
主義に比べればその観念性も大したことはない。ただし政治思想のなかではピカ
イチである)。
○民主集中制の何が問題なのか?~党員個人個人がもっと意見表明するべきとい
うことでは?~
共産主義思想が全体主義思想の一部である以上、共産主義政党が全体主義政党
であることは必然である。それは変化しないしまた私は個人的にはそれを変化さ
せるには反対である。まさに教条主義的に「共産主義社会が達成したら良いと思
う」とかんがえる(これは皮肉である。共産主義社会などないか、あるとしたら
まさに今この私たちが住んでいる社会が共産主義社会である。共産党宣言の中の
綱領を読むと良い)。民主集中制は党の全体主義性を保持するためには非常に効
率の良いシステムである。これは本質的に大衆迎合を阻止する。思想的一貫性を
保持するには良い。問題はこのシステムが反対派を圧殺し粛清するために利用さ
れる点にある。だから問題はこのシステムを採用する以上、党内での討論の自由
をどのように実質的に担保するかなのである。またこのシステムが拠って立って
いる思想とシステムに対する自覚がなければそもそもたんなる抑圧機構でしかな
くなるのである。
繰り返しになるが共産主義が資本主義に対する根本的な批判勢力として存在し
得るのはその全体主義的性格であり、この全体主義的性格を資本主義と民主主義
という大衆迎合社会のなかで維持するためには民主集中制は必要な制度であると
いう承認がじつは民主集中制に対する批判において決定的に重要なのである。で
なければ批判は民主集中制に対する批判ではなく否定となり、そしてそうである
がゆえに全体主義と共産主義の否定となる。
我々は幸いなことに資本主義と民主主義社会のなかにいる。それゆえそもそも
において共産主義は選択可能な何かである。また共産主義とは自由意志に基づく
運動である。それゆえその全体主義的性格を把握することは日本共産党に結集し
ている共産主義者にとって暗黙の義務であるとかんがえる。あくまで私見である
が。
さて以上の前提のもとに民主集中制の批判を行うとしたらどう可能だろうか?
党はまずさざ波通信のような討論空間を作るべきであるとか?またそれ以前に党
はしっかり自らの全体主義的傾向を自覚するべきであるとか?そもそもさざ波通
信のような討論空間を作ったら混乱するのは必至だろう。そして全体主義的傾向
を自覚せよと迫ったところでそんな政党嫌だといって大量に脱党するのがオチで
ある。だから個人的には今の在り方は「上手くやっている」と思うのである。大
衆迎合になりすぎず、かといって原則的になり過ぎずの微妙なところで党員と国
民に理解してもらいたいと指導部はかんがえているように思う。
問題は党の在り方なのだろうか?
私は党の政策には批判的である。またそもそも共産主義をどう考えるのかにつ
いては不破さんはおためごかしでしかないとかんがえている。もっと大雑把で良
いから共産主義とは何であって何ではないのかを明らかにするべきであるとかん
がえる。しかしそれらは正直党内で言うには限界がある。党員の多くに理解され
るとも思っていないし、また党を取り巻く状況もそれを許さないだろう。とすれ
ば、今必要なのは党から半歩引いたところで党活動を行いつつ、重要な提案につ
いてはさざ波通信や様々な媒体を用いて積極的に提案するということではないだ
ろうか?
全体主義社会のなかにおける共産主義運動ではなく、民主主義社会のなかにお
ける共産主義運動の積極性と消極性はまさに個々人の党員の奮闘でしか改善され
ない(それでもダメかもしれない)。といっても個人的には後退するところまで
後退するしかないとは思っているが。でもそれこそ必然である。最後は歴史が決
めることである(と伊藤律も言ってましたね)。我々は個人としてなすことをし
よう。それが「日本共産党主義」者ではなく「共産主義」者が今現在なすべき任
務であるとかんがえる。
暑い日々が続きますのでお身体ご自愛くださいませ。