投稿する トップページ ヘルプ

党員用討論欄

「福祉国家論」のまやかし、根本的誤り

2012/3/11 クマさん

 日本において「福祉」は、社会保障の一分野であるが、その「福祉」に、ご大層にも「国家」という用語をくっつけて“「福祉国家」づくり「論」”を唱えてそれを自己目的化し、そのためなら、その国家による国民大収奪税である大型間接税・消費税を基幹税制にして国づくりをせよという御仁まで現れる。政治や社会が混迷してくると、その混迷の原因を不問にしたままでそこからの脱出術を説く各種の「論」が出てきて人の目を惑わしもする、その見本の一つが「福祉国家」論である。悪政のお先棒を担ぐ御用学者がそのような「論」を述べるのはいたしかたがないにしても、まっすぐに社会進歩の事業を望む私たちは努々それに引っかからないように用心しなければいけない。

 福祉は、人間らしい生活を営むことが自力では困難な人々に対して、個別的・具体的な困難を生活レベルで援助する社会的な行為である。金持ちは別にして私たち賃金労働者や勤労者家庭では明日は我が身の問題、だから、安心して働き生活するためにも生活防衛のためにも防御的に「福祉の充実」を課題にして選挙にも臨んできたし、それは当然のことです。
 しかし同時に『福祉』の問題に向き合う場合もっとも重要なことは、その課題が発生してくる原因の問題である。それが個別的な特性によるものなのか、それとも社会のシステムそのものに起因する問題なのかという問題である。

 「福祉」の実際は、援助あるいは救済する対象となる人の範囲をあらかじめ設定してかかる事業であるが、すると、その対象になる人についての見方として、その本人たちの能力や態度が原因であるという見方、その人たちは“敗者・弱者”だとする見方がある。
 社会ダーウニズム(社会進化論)――生存競争で淘汰される弱者を排除しながら社会は進化を続けるという見解で、社会的不平等や戦争をも合理化し、社会の量的進化だけを述べて質の変化を否定する見解だ。――近年では、米日独占資本の意を受けた資本主義・新自由主義のチャンピオン小泉政権もそれである。その面々は、『構造改革』をすすめる上で、“日本の社会保障、教育の平等とか行き過ぎた平等の弊害が社会の競争力を奪い進歩を遅らせている”とか“競い合いに格差が生まれるのは当然である、敗者には手当をすればよいのである、競争を恐れて進歩は無い”とメディアを媒体に梅雨払いを行い、あらゆる分野で「規制緩和」をすすめ、戦後につくり上げた社会保障制度も連続大改悪してズタズタにした。それによって『負け組』という未曽有の“弱者”を生み出し続けるシステムをつくり出した。
 彼等の主張は、『社会的弱者』の存在を当然とする主張であるが、「福祉国家論」も『社会的弱者』の存在を前提として論ずる見解である。両者は一見違うようでも、『社会的弱者』をそもそもが生み出さない社会システムをつくろうとは決して言わない、その点では全く立場は一致しているのである。
 『社会的弱者』を生み出さない平和と生活向上の国づくり、、、つまり、いま私たちが言うところの「福祉」という課題がそもそもテーマにならない社会システムをもった国づくり、そのような社会を実現させればよい話ではないか。すでに日本全体では全国民が豊かに生活できるだけの食料生産力、物的財貨を生み出す力も満ち足りてある、消費税など廃止しても何も困らないだけの社会的財貨は本来満ち足りてある。原発がなくても電力は足りている如く以上に、、、それなのに野蛮な我々人間がわざわざ不都合な社会システムを許して甘んじているにすぎない。
 「福祉国家」論を説く人は、わざわざもって「福祉」の課題を生み出す社会的システムとその不合理な社会によって自らの利得を成す人間集団の存在、、、その彼らの所業によりつくりだされるところの『福祉』の課題を既定の前提にしてさもさもしく「論」を説く、しかも、「福祉」のためと称して最悪の大衆大収奪課税である大型間接税・消費税を基幹税制にしようと言い――民主党、自民党、公明党、橋本らの党などと、「福祉国家」づくりの人々は共同歩調を始めている。

 何人も議論するのは自由であるが、その議論は、この腐りきった資本主義社会の前途にとって何か役立つ議論なのか、それとも如何様物なのか。如何様物であれば浪費な議論は即刻止めた方が良い。人の生き血を吸い上げる金の亡者どもによって幸福を奪われる人々は増大し続け、今では地球自然環境までもがおかしくされている時代である。

◆スウェーデンの百科事典には「福祉」という言葉が無いという

 日本で、「福祉」について論じられる時、スウェーデンの例がよく引き合いに出される。しかし、そのスウェーデンの国では百科事典にも、政策用語にも「福祉」の項目は無く、国民全体を含んだ政策に関わる問題としての「福祉学」という研究分野は存在していないという。だから「地域福祉」という概念も無い。市民の中では単なる知識として福祉という言葉があるのだそうです。該当する項目は、「社会政策」――「国民が日常生活に支障を来さぬように備える政治」だと。
 日本のある福祉団体の人の話――「地域での福祉」をどうやっていくかということで、スウェーデンから、講師を呼んだ。ところが、スウェーデン人の講師は、その「地域福祉」という言葉が解らなかった。日本でいうところの『福祉』について、日本の社会福祉事務所とスウェーデンの地区事務所では、役割も違うし、働き方も違う。「地域福祉」という言葉の概念は、スウェーデンにはないということで、、、そこで、僕も始めて日本の福祉の構造がどうなっているかが、解ったのですね。それが1991年のことでしたね。――と。
 だとすれば、スウェーデンを「福祉国家」と紹介するのは大変失礼な話であり、誤りであろう。だが日本ではごく一部の論客を除いてそうはしていない。「福祉国家」づくりを説く連中は、消費税を大増税するそのためにスウェーデンを「福祉国家」の例として引き合いに出しているが悪質である。

 スウェーデン王国の国づくり、社会保障制度に関わる国民の関わりの歴史は古く、日本はまだチョンマゲ時代に、すでに積み重ねが始まっていて、1809年世界初オンブズマン制創設、1889年労働災害防止法、1913年国民年金保険法(世界初)、1918年生活保護の権利化、1919年周48間労働、1934年失業保険、1937年出産手当金、1938年年間2週間年次有給休暇、、、、
 その歴史に積み重ねられた国づくりが日本とはまるで違うのだ。非軍事同盟・中立の独立国で、民主主義のイロハである選挙制度は一貫して比例代表制であり日本のようにファッショ法の小選挙区制ではまるでない、労組組織率75%以上、消費生協加入率50%、公的オンブズマン制度等々、、、学ぶべきは、その人々のたたかいの足跡や思考であろう。

 私は、昨年11/20一般討論投稿でその辺のことを書いたが、そのようなスウェーデンについての書物を読むと、そのスウェーデンでも失業者、自殺者は日本と同じような比率で発生しているとある。何故か。

◆幻想であり、有害な「福祉国家論」

 現代の「福祉国家論」は、独占資本主義のその矛盾が万人の前に露わとなった時代に登場して、国家が大きな力を発揮できるようになった資本主義制度のもとでその国家の政策によって平等で豊かな社会を実現できると彼等は唱えた。それは古今東西、手を変え品を変えて登場する、「修正資本主義」の一種である。
 その議論は、社会主義運動と共産党の存在は誤りであり不要であるとする。――そのように、その「論」は誰がどのような動機で述べようとも、それは人の労働の生き血を吸って生きる独占ブルジョアジーの手先の役割を担っている「論」であり、人々から階級的視点を奪おうとする悪質な議論、幻想をまき散らすものである。

 私が入党して少し後の頃、党中央が出版した「共産主義読本」がある。そこで「福祉国家論」という用語を初めて学んだ。この本は 「マルクス・レーニン主義を学習したことのない人びとでも理解できるように」とした本で、分かりやすく解説されていた。
 現在の若い党員の方々にはもうこの本を手に入れることはむずかしいと思いますので、ぜひ参考までにと以下に該当部分を書き出してみました。表現など今では古めかしい部分はあると思いますが、科学的社会主義の問題提起は十分生き生きと示されていると思います。

「資本主義的蓄積の一般的法則 富の蓄積と貧困の蓄積―――
 このようにして資本の蓄積がすすむにつれて、資本家階級の側には、巨大な富が蓄積され、それにつれて彼らの驚くべき贅沢、浪費、怠惰がふえてゆきます。これに反して、その富を作り出す労働者階級の側には、貧困、失業、労働苦が蓄積され、さらには彼らの内の極貧層のあいだには、無知と道徳的退廃さえも蓄積されます。社会の一方における「富の蓄積」と他方における「貧困の蓄積」、この二つはたがいに対応しあった楯の両面であり、資本蓄積の必然的産物です。ここに資本蓄積の敵対的性格がはっきりとあらわれています。
 こんにちブルジョア経済学の理論家たちは、資本家と労働者の利害関係が基本的に一致しているという「理論」をつくるために、資本蓄積にともなう労働者階級の貧困化(窮乏化)を否定する議論を大々的にふりまいています。
 その一つは、現代資本主義のもとでは、国家の力が強まり、国家が経済に干渉することができるので、ブルジョア国家の手で社会保障などをつうじて人民のための福祉を実現できるようになった、という「福祉国家論」です。この理論は、重税や公共料金引上げやインフレーション政策によって人民の広範な層から搾取し、まきあげた金を独占資本に再配分するところにこそ現代資本主義国家の基本的な機能があるという事実に照らしてみて、まったく誤ったものです。
 この理論は、貧困の原因が資本蓄積の敵対的性格そのもの、資本主義的経済制度そのものにあるのに、この制度を維持しているブルジョア国家の「社会保障」だけで貧困そのものが解決されるかのように説くもので、結局は、独占資本の弁護論といわなければなりません。
 ブルジョア理論家たちはまた、こんにち労働者の家庭にもテレビや電気製品がそなえつけられるなど、社会的な消費生活の水準が向上し、生活様式の変化が現れたことを理由にして、もはや貧困はなくなったとか、「マルクスの貧困論は古臭くなった」などと主張しています。現代修正主義の「理論」家の中からも、この主張に屈服したものが出てきました。この場合、彼らは、労働者階級の貧困化ということの内容を、以前には米を食べていたのに今では麦しか食えなくなったとか、二年に一度服をつくっていたのが四年に一回しか作れなくなったとかというふうにだけ解釈しておいて、現実にはそうなっていないから、貧困化論は間違っている、と主張しています。
 しかし、貧困の指標を、たんに消費水準や生活様式の変化だけでみるのは誤っています。私たちはまずなによりも、失業・半失業、労働時間、賃金、労働強度、労働災害、職業病、職場における資本家による抑圧など、生産=労働過程における労働者の状態がどうなっているかを重視しなければなりません。この点で今日、経営の大規模化、機械化、自動化の採用と結びついて、資本主義的な「合理化」が極度におしすすめられ、この結果、はげしい労働強化が押し付けられ、労働者が不具化し、労働災害と職業病が広げられるとともに、賃金その他の職階差別や職制による監視、民主的権利の剥奪が強められるなど、資本による搾取と専制支配が、とくに生産=労働過程で拡大し強められている点をみなければなりません。日雇い労働者、臨時雇い労働者(とくにパートタイマー)、家内労働者(とくに内職)など、就業が不規則な、そしてごく低賃金で無権利な労働者も増やされていく一方です。
 また消費生活についても、食物、栄養、健康、衛生、住宅、子供の保育と教育、さらに日光、空気、交通など様々な生活環境の問題を含めて、消費生活のすべての側面をみることが必要です。そしてこの点では、人間として最低の生活すら困難な状態におかれた極貧層が、依然として形成され続けていることも、今日の日本では、資本の急速な蓄積にともなって、いわゆる都市問題や過疎問題が深刻に進行している事実を現代における貧困化の特徴的現れとして、重視しなければなりません。
 さらに、ブルジョア理論家たちが強調する社会的な消費水準の向上、生活様式の変化についてみても、これらは資本主義の生産力の発展、生産過程の変化を反映したものであり、またそうした生産力の発展のもとで、労働者の消費生活にたいする欲望の範囲が増大せざるを得ないことを、示しただけのもので、決して労働者の生活の不安、資本家への隷属が緩和されたことを示してはいません。現実には実質賃金の向上が依然抑えられているため、社会的な消費水準の向上と労働者の欲望充足能力との不照応がもたらされ、このため多くの労働者の家庭が一家総働きなどをよぎなくされています。また生活様式の変化は、けっきょく労働者の消費生活をますます資本に隷属させることになっています。たとえば月賦でカメラを買った労働者は、カメラを売る資本家の利潤を、食べものも節約して保障しているのです。しかもこの過程で有害食品の問題にみるように、労働者の生命と健康まで資本家に脅かされるにいたっています。
 労働者階級の貧困化とは、資本主義のもとでは、労働者の貧困、圧迫、隷属、堕落、搾取の増大が避けられない基本的な傾向であるということです。たしかに労働者階級は、団結と闘争によって貧困化をある程度緩和することはできます。今日の日本の労働者の生活状態にも、労働者階級の不断の闘争の成果が、大なり小なり反映しています。しかし貧困化の基本的傾向そのものは、資本主義のもとでは避けることができません。
 貧困化を無くすためには、資本主義制度を打ち倒さなければなりません。」
(1966年12月15日・党中央出版局「共産主義読本」、第二課・経済学、第一章・資本主義の基礎理論・第四節・資本蓄積と恐慌――その労働者階級への影響、、、より)

 そして党は、社会保障の充実のために社会主義革命の以前の段階でも、国内での大企業の民主的規制、国際的には多国籍企業と国際金融資本を民主的に規制する新国際経済秩序の確立を求め、地球環境の破壊、資源や食糧、国際的収奪の横暴を抑える課題をかかげている。
 そのためにも、科学的社会主義から逸脱して力を失った現行綱領の一日も早い破棄を望む次第である。