2012年3月10日朝、夫・鵜崎義永が82年の生涯を閉じました。三十代から四十代にかけての10年ほどを日本共産党愛知県委員会の勤務員として過ごしたのですが、機関を罷免され職を失いました。1973年、彼は党中央に党活動について長文の意見書を提出しました。もう40年前のことになります。生前、その意見書を公表する意思を固めていましたので、さざ波通信に投稿させていただきます。
ごく親しい少数の方にその意見書を読んでいただきました。そのうちのお二人が感想を寄せて下さいましたので、意見書の投稿に先立ちそれを紹介させていただきます。
鵜崎氏は亡くなる直前、1973年に党に出した本意見書の公表を希望したという。鵜崎氏が40年経った今になっても伝えたかったことは何か、それは、私には以下のことと理解される。
本意見書は党の活動が、労働組合運動や大衆運動抜きに、党勢拡大や選挙活動に埋没してしまっていることを批判する。氏はそのことが、党の何より重大な本質的問題点と捉えたが故に、生活の糧を賭してまで批判した。しかしその批判は一顧だにされることなく踏み潰され、党の活動の在り様は何ら変わることなく、今日に引き続き日常的に繰り返されている。氏は死に当たり、この今に通ずる党の根源的な問題点を本意見書で再提起したかったと言える。
改めて氏の指摘する、“労働運動や大衆運動を軽視すること”が持つ意味を考えてみる。
現在、様々な問題、困難、矛盾が横たわっている。原発事故で生活基盤を失い、沖縄に基地が押し付けられ、庶民には増税、社会保障切り下げ、など、見渡したらきりがない。そうした問題を待つまでもなく、各人誰もが何らかの問題、困難、矛盾を抱かえている。これら直面する問題に、各人真っ向から立ち向かい、抗うことが大切だ。そうしなければ周りの状況にただ流されるだけで、矛盾はそのまま残り、自らが歩む道さえ他のものによって支配され決められる、主体性を欠く事態に陥ってしまうからだ。
矛盾を真正面から捉えた抗い、それは抗う者同士の強い連帯を生む。たとえ抗う相手が異なっていたとしても、抗う中での困難、苦しみなどが共感を持って理解出来るからである。そしてその抗いが他の者をも勇気付け、新たな抗いをも生み出し、また自らが一層奮い立つ勇気を得、連帯が広がると共に深まって行く。労働運動や大衆運動はこうした抗いが基礎となって発展していくのである。
従って、事態を切り開き、社会の変革を目指す党員にとっては、自らが矛盾と抗うことがとりわけ必要である。自らは抗わず支援するだけ、党支持を訴え選挙での投票をお願いするだけでは、一時的な支持を得ることは出来たとしても、信頼を得た強い支持が得られる筈もない。抗わぬ者には直面している問題に気付かせ、その解決に向けて踏み出す勇気を与えることが必要で、そのためにも自らが抗う、自立した個であることが求められる。にもかかわらず、党はその視点を完全に捨て去り、2004年の綱領改定では階級闘争を投げ捨て、議会活動によって社会変革を目指す議会政党・選挙政党へと変質を遂げてきた。それが党の何よりもの問題である。
党による労働運動や大衆運動の軽視が、象徴的に表れたものとして、国鉄闘争がある。党は提訴団の意に反し提訴取り下げとなる4党合意に対し、見て見ぬふりの態度を取った。階級闘争の先頭に立って闘う者の立場に立たず、支持があまり見込まれないと見るや、関わろうとしなかった。この姿勢が、現場の矛盾と正面から向き合って抗い闘おうとする者たちの信頼を喪失させることは明らかだ。自立的に事態の打開を目指し、社会変革の力となる、党の最も支えとなる人たちからの信頼を失うのである。党が移ろい易い大衆の支持・票に依存し、議会政党・選挙政党に堕したこと、それが労働運動や大衆運動の力を弱め、党勢拡大を目指しながら、長期にわたる党勢の衰退をもたらしてきた根本原因であり、ひいては支配層による弱者を鞭打つ醜い現在の社会状況作りへの歯止めとならず、その実現を許してきたのである。
氏の本意見書の投稿をきっかけに、各人が矛盾を真っ向から見据えて抗うことの意義について考え、自らの日常的な中での活動の在り様を、改めて見直すきっかけになれば、氏の問題提起がその役割を果たすことになる。私自身それを行うと共に、一人でも多くの人がそうあることを願う。
少しでも動くと胸背部に激痛が走る病との闘いは半年を越えた。亡くなる前の半年ほどはほとんど寝たきりであった。厳しい痛みとの別れはこの世との別れでもあった。享年82歳。後半生をかけた史的唯物論の研究も道半ばとなった。
氏が史的唯物論の研究を本格的に始めるようになったのは、おそらく15年から20年ほど前からである。ソ連・東欧社会主義が崩壊し、旧来のマルクス・レーニン主義は現実的有効性をほとんど持たなくなってしまったかのようにみえる。氏の興味は、歴史科学の発展により至る所にほころびが出ていた史的唯物論の再構築へと向かった。資本主義が永遠でないとすれば、理論の再構築が、その次に来る新しい社会構成体をつくるために根源的に必要な作業だと考えたからである。
氏は、(おそらく)60年安保闘争後まもなくから1971年まで日本共産党愛知県委員会の専従党員として過ごした。専従活動をやめたのは自らの意思ではない。県委員会による罷免であった。罷免の本質的な理由は、氏が党の方針・活動を批判し、それに賛成しなかったからである。分派活動など規律違反などではない。「党の方針に意見を持つ者は機関に置いておくわけにはいかない」というのがその理由であった。宮本氏の絶頂期の出来事である。
氏が罷免されるまでの経過を素描する。
宮本体制が確立し、党勢拡大と選挙を中心とした党活動が熾烈に展開された時期のことである。年代的には60年代後半から70年にかけてのことである。氏は、次第にこのような活動に疑問を抱くようになり、批判的な立場を強めていく。また、愛知県委員会では中央委員候補でもあった箕浦県副委員長の家父長的・成績主義的指導により、党中央の方針の本質的弊害がさらに増幅されていた。
1960年代後半になると、愛知県党では、このような党活動により基礎組織の疲弊がかなり広く存在するようになり、若干の党機関勤務員(専従党員)がこのような現状に危機感をいだき、指導改善と呼ばれる一連の動きが始まり、やがて「五月事件」などとして顕在化する。機関指導部は、数人の県・地区勤務員の私的会話――実際に分派的な存在もあったようであるが、氏はそれらとは距離を置いていたようである――の中にあった機関に対する批判的な言辞を取り上げて査問するなど抑圧的に対処した。党勢が拡大しつつある過程で生じた「党の将来の頽勢を示唆する萌芽的な出来事」を直視することなく、社会通念上考えられないような常軌を逸した党勢拡大運動はあらためられることなくなお厳しく追及される。
しんぶん赤旗の買い取り宣伝紙か未固定紙(実際には購読を約束した読者がいないにもかかわらず、支部に拡大したごとく申請させたもの)が、あかつき会館(県委員会・中北地区委員会・分局などが同居)に山積みされていた。一定期間たつと廃品回収に出されるという事態が続き、中央と県との連絡員であった人がこれを発見し中央に報告した。これがきっかけで、愛知県党における指導改善が中央主導で始まることになる。
やがて地区党会議を経て、県党会議が開かれ、箕浦県副委員長はとりあえず愛知県党においては失脚する。上りの会議(「支部総会→地区党会議→県党会議→地区党会議→支部総会」の順で開かれる)では、支部党員の本音が吐露され、厳しい機関批判が展開された。県党会議は紛糾し、予定していた1日の会議では県委員会報告が採択されず、日を改めて再開されることになった。自由な討論が行われた希有な党会議であった。
しかし、間もなく指導改善は清算主義であるとする中央の強力な指導が入り、「愛知の春」は短期間で終わることになる。「愛知の春」では、箕浦流の粗暴な指導が改善されたぐらいで、他には何も変わらなかったことになる。
氏は、このときの県党会議で県委員候補になり、主に政策関係の任務につく。県党の活動は依然として労働運動・大衆運動が欠落した党勢拡大と選挙、対外的には狭隘なセクト主義的傾向が続く。
県委員会総会で、氏はこのような方針に賛成せず「保留」を表明する。氏は晩年「その時はさすがに膝が震えた」と語っていた。熟慮の末の決断であった。
その後、若干のエピソードがあり、やがて「党の方針に意見を持つ者は機関に置いておくわけにはいかない」という理由で、機関役員を罷免され職も失う。
若干のエピソードのうち、1971年(統一地方選挙の年)に開かれた中央主催の政策学習会に触れておく。愛知県委員会からは政策委員会の氏ともうひとり非専従の政策委員の二人が参加した。この年、愛知県では県知事選挙があった。社共統一候補として名古屋大学名誉教授新村猛氏を擁立し、現職の桑原幹根氏に惜敗といわれるほど善戦した。「もう少し手を打てばなんとかなっていたかもしれない」と思わせるほどの結果であったし、選挙後にそのように考えていた党員も少なくなかった。この学習会に参加していた非専従の政策委員が、知事選挙の取り組みについて、このような観点から、県委員会の指導を批判した。氏は専従の県委員候補であり政策委員つまり県委員会のメンバーであるから県委員会の指導批判はしていなかった。
また、この学習会には書記局長に就任して間もない不破氏が出席して挨拶か講演をした。その後、司会者から不破氏の話について感想を求められたので、「何も参考になるものはなかった」と思うところを率直に述べた。
中央から愛知県委員会に指導が入り、氏は追及される。県委員会側の主張は、「中央の会議で県委員会批判を行うことは何事か」ということであったが、氏はそれをしていなかったので、その廉で氏を追及することはできなかった。最終的には「不破氏の話には何も参考になるものはなかった」と述べたことが、やり玉にあがった。「『何も参考になるものはない』というのは傲慢だ」というのである。中央や最高幹部に対する批判は専従党員にとってはタブーであった。氏はやむなく自己批判書を書く。もう一人の非専従の政策委員は自己批判書を拒否し、しばらくは党機関事務所に寄りつこうともしなかった。
専従罷免に際して、県委員会から「次の仕事が見つかるまでは給料は支給してもよい」という申し出があったが、氏はこれを潔しとせず、安定的な収入を確保する見通しはなかったがこれを断った。以降、20年以上にわたって学習塾を続ける。社会変革の立場を放棄することなく政治や大衆の動きに関心を持ち続けた。このスタンスは亡くなるまで貫かれた。
1973年、党中央に意見書を提出することになる。この投稿欄において掲載される予定のものがそれである。この意見書は党中央の方針と党活動についての具体的な批判である。党からの解雇については触れられていない。党機関から受けた不当な仕打ちに対して憤激しなかったはずはない。しかし、氏はそういうことよりも、当時、党が抱えていた問題点を指摘し、改善についての提言を優先したのである。党はその後も議会政党としての歩みを続け、今日では絶滅危惧種といわれるほどに存続が危ぶまれる存在になった。もはや革命政党として蘇ることが困難であるかのように思われるが、氏は最期まで党籍を保持していた。最大の理由は、「まだ、良心的な人々がこの党にはたくさんいる」ということであった。