★はじめに
7月のこの欄に著者のTAMO2さんご自身から紹介のあった「指導という名の
欲望」を読みました。マルクス主義としての共産主義は党の指導を前提としてい
て、しかもどの党も「指導という名の欲望+真理は一つ」に汚染されていた、こ
れが悲劇の元でこのやり方に未来はない、しかし、共同体の知恵としての、持ち
寄り、与えるを尊重する共産思想は昔も今も広く世界に存在し共産主義(マルク
ス主義)もこの中で相対化されてあるべきで、そのような広義の共産思想の実現
を模索したい。こう読めました。
共産思想をマルクスを超えて再生したい、共産主義の中には追求に値する理念が
ある、そういう意味でのマルクスの継承は一旦マルクスから離れてなされるべ
き、と言いたいように思えます。共産党宣言から始まった主義を共産主義、これ
とは別に広く世界に存在する共同体の知恵を共産思想、と分けて呼んでいて、こ
このところが私を少し混乱させます。
捨てるべき、あるいは相対化すべきは共産主義であると。相対化と言うのなら、
著者の見方は独特ではなく、ソ連崩壊後の今ではある程度の広がりを持って共有
されている姿勢と思う。
著者は党の汚染の最奥に「指導という欲望」があることを発見した。
この「指導という名の欲望+真理は一つ」の汚染がいかに強固で根深いもので
あったかを、さまざまな共産主義運動の中で探し出している。共産主義運動は共
産党以外にも変異、変種を生み出しながらさまざまな変化をとげながらも「指導
という名の欲望」は変わらなかった。共産主義が「国家権力奪取by暴力革命/私
的所有が諸悪の根源」を肝として持つ以上、党の指令的指導は必須で、そこから
党は「指導という名の欲望+真理は一つ」の汚染から逃れられないと言いたいよ
うだ。
だから汚染除去して党をまっとうな姿にするべきとなるなら分かりやすいのだけ
れど、著者は必ずしもそうは言わない。党の汚染除去について具体的な議論に進
むかというと必ずしもそうではない。ここが本書の独特といえば独特の、という
より私にとって違和感と新鮮さのあるところ。
著者は欲望一般を「個を駆動するエンジン」として重視する。いわば意識活動に おける土台部分と捉える、ここはその通りと思う。しかし欲望本質論で解明、分 析されるご利益が私はよくわからない。欲望は経済学においては工学における質 量のような本質的存在で、これの把握ぬきに経済の本質的理解は得られない、と あらゆる局面での人間活動の基本に欲望を据えている。この先の具体的な説明が もっと欲しい。
本書は私の知識と能力を超えた幅広く奥深いバックグラウンドの中から紡ぎ出さ れているので私の読み誤りや見落しもあるでしょうからこれをチェックする意味 で自分の解釈での乱暴な「あらすじ」を始めに付けて、その後にいくつか感想を 書きます。
★あらすじ
1~5章の順に箇条書きします。
①共産主義は負の代名詞になったが共産思想として共産主義のなかから何かを復
権したい。②前衛としての共産党は「指導という名の欲望+真理は一つ」で思い
上がって全体主義に行き着いた。
③元々の共産思想は様々な可能性(他者の尊重など)を持ち共産主義とは一線を
画すもの。
④マルエンの核心は「国家権力奪取by暴力革命/私的所有が諸悪の根源/労働価
値説」
⑤共産思想はマルエン以前から原始共産、古代ギリシャ、原始キリスト教、仏
教、古代中国、日本古来などの中にあった。
⑥負の遺産≒党の負の体質が元凶、つまり共産主義運動の悲惨さは指導という欲望
にまみれた前衛党によって引き起こされている。共産主義社会は最上部に党を置
く巨大な官僚組織による統治しかない。ここでは党の体質が社会の運営を全体主
義に導く。資本主義は廃絶させねばならないから大きな物語を語れる前衛は必要
だが、それは全一的世界観でなく
平時は寛容な議論を推進、調整、比較、競争する機能をもったフラットな組織
で、改革の時が迫った非常時は指揮、命令のもとに統一した力を結集する組織が
望ましい。揺らぎ悩む前衛、指導-被指導関係でない組織、多様な先進意見の整
理交流の場としての前衛は必要。
⑦共産思想に可能性がある。資本主義は自身の生み出した内部的受動革命で延命
してきた。個レベルでの革命は権力奪取でなく共に生きる共思想で世界を覆う小
さな共産主義。具体的には、つくり、見つけ、持ち寄り、共有、交換する共の空
間で、私でも権力的公でもない共空間。個を生かす社会的枠組み、企業に奉仕す
る国家であることを超えて国家の中に非国家を考える人間によって運営される社
会主義国家も必要。これプラス国有化でなく市場による個ベースの共同体=自由
主義市場も。これらが共産思想の可能性。共産思想は「人の役に立ちたいという
欲望」で支えられた共同体の実現。小さな共産主義の上に大きな物語としての社
会主義国家と自由主義市場を。
★読んで考えたコト
・マルクス共産主義にあっては党と共産主義は一体で、党の欠陥は共産主義の欠陥。
私は両者の一体性は意識していなかったので、ここは少し意外だった。
欠陥を正した党なら共産主義の欠陥も正されると思っていたけれど、欠陥を正し
たとしても党と社会の関係には根本的に難しい問題があるようにも思える。
党は革命が成就するまでは革命を先導する私的集団だが、革命後は社会主義国家
機構の全過程を統御する究極の独占大企業と化してきたのが現実の社会主義の歴
史だった。日本共産党はこうはしないと言っているけれど党との一体性を解体し
て共産主義社会は成り立つのか。党は革命が成就されるまでは結社の自由の論理
で守られて党の中に憲法も入れない。しかし革命後の党は国家の上に立って社会
全体の改革を実行する究極の公的存在になる。憲法の制約を受けない私的組織が
国家の上に立つことになる。これでは市民社会が成り立たないから資本主義より
もっと悪い。
日本共産党は他人は誤っていたけれど自分たちはもっとうまくできる、過去に誤
りはあったけれど今後は大丈夫と言っているだけに聞こえる。ソ連崩壊などの全
社会主義の大事故を経験した後なのでここへの深く詳しい分析が必要で、これ抜
きでは福島事故後の原発推進派の「反省」
と同じ。日本共産党のように革命以前であっても、党は客観的役割からすれば破
壊と創造による革新が基本的性格であるはずだが、自己に対しては180度真逆
に保守的となってきた。革命を完遂するには超保守的な組織が必要、ここの転倒
の主犯を「指導と言う名の欲望」
とするのは少し無理があると感じる。
・党はどの党も世界共通の誤りや欠陥を持っていたから、その病根を探っていっ
たら「指導という欲望」があったことを著者は見出した。しかし、「共産主義者
は現実を変革したい欲望を持つ」ことは「正しい行いをしたい欲望」の具体化
で、おぞましいことでもないし、共産主義者に限らないし、「解釈するだけでな
く変革を」は誠実さの表れでもある。著者自身、欲望そのものに善悪はないと
言っているので悪いのはこの欲望自体ではなく、この欲望の暴走を許すメカニズ
ムとしての民主集中制であり、この欲望に正当性を与えている「真理は一つ」と
する思考ではなかろうか。
市場の暴走が格差や人類的不幸をも生む、しかし市場をなくせばもっと大きな破
綻が待っていた、だから市場は今のところ廃棄でなく制御すべきが常識となって
いるだろう。欲望はそもそも無くすことはできないから廃棄でなく自覚と制御、
そのためには欲望を自覚しておけよ、が著者の言いたいことだろう。
・欲望自体は悪ではないが、指導それ自体も当然だが必ずしも悪いことではない。
指導は他者を従わせるものだから、どうしても指導-被指導は対等ではない関係
になる。
しかしこれは一般的な学習過程の一つでもあるから否定すべきでもないけれど、
指導―被指導は支配―被支配関係に近いからアブナイといえば危ない。特に日本で
は党に限らず学習がeducation-studyよりlearn-lessonに偏る伝統が強いことも
このアブナさを増幅させているかもしれない。
・共産思想は長い歴史を持っている。マルクス社会主義もその一つのバリエー
ションにすぎない。だから、共産思想が一つの政党によって担われる必然性は
まったくもってない。
ここには二つの意味がある。共産思想は近代マルクスから始まった(発明され
た)特別なイデオロギーではないことと、マルクス主義は労働者階級の生活向上
を通して資本主義の質的発展を支える役目を果たして今日の市民社会的常識(到
達点)に吸収されて生きている、つまり役目を果たして消化吸収された=役目を
終わったということ。この認識の先には、労働者階級による国家権力の奪取が新
しい社会への通路とする我われの常識も見直しの対象になる、があるだろう。ブ
ルジョア革命を主導したブルジョアジーは当時の社会の先端層であった、現代の
労働者はそうであるだろうか。これは社会の変革の主体をどこに見るかの問題
(例えば井汲卓一「変革の主体としての社会/現代の理論1988~
)でもあると思う。
・党の中に非党的なもの、国家の中に非国家的なものを、企業の中に非企業的な ものを、「それぞれの仕事の場や時」に持ち込もうと言う。それは二つの意味が ある。一つは組織の解体でなく強靭化、組織間の競争は外部的な強制力で各組織 を選別淘汰するが、非○○的な要素を各組織に内蔵することは組織内に競争/評価 /選別機能を作動させて組織自体を強靭化する。も一つは組織の社会的な役割を 見直して組織の大きな方向を修正する機会とすることではないか。企業に社会的 役割を組み込む(例えば重本直利「もしマルクスがドラッカーを読んだら資本主 義をどうマネジメントするだろうか」)ことや党を市民社会に組み込むことも。
・共同体について改めて考える。
共産思想は共同体を作り上げること、サヨクはここが弱かった。サヨクにとって
の公は、「公=支配階級(私)を守る権力」で打倒対象であり同時に自分自身が
とってかわる奪取対象だった。共を飛び越えて公へ、個の尊重を欠いた公へ突き
進んだのがマルクス共産主義の欠陥。共によりよく生きるための知恵を考える
(例えばマイケルサンデル「それをお金で買いますか2012」)ことは共産主
義運動の外では多くの議論、提起があり、そこでは共同社会の知恵としてマルク
スも採用される対象の一つたりうる。「自分のことは自分で」は簡単だが「自分
たちのことは自分たちで」となると突然それは簡単ではなくなるのが自治、共同
体の難しさで、小さな町の自治会長を数年経験していていつもそう感じている。
共産主義運動を自称し担う様々な組織の離合集散もその自治の難しさを示してい
ると思う。
一方、日本の文化では「公=お上」、「お上としての私(天皇など)」を守る公
だった。
本来は公⇔私であって、公私は上下/縦ではなく、横の公私であるべきで、自己
の権利の一部の供出対象としての共同体としての公でもある。これは著者の言う
共産思想の根本だろう。しかしサヨクの公概念は、「公=支配階級(私)を守る
権力」で打倒対象だった。
共を飛び越えて公へ、個の尊重を欠いた公へ、突き進んでしまったのがマルクス
共産主義の欠陥だったか。
・自由な個の交流の場としての市場
これをどう作り上げるかが、来るべき社会での生産関係をどうするか、土台部分
のいわばハードな議論が必要で、本書でもここについていくらかは触れられてい
るけれど今はここがまったく手薄と思う。生産力の質的発展は物質的材の制約か
ら解放された非物質的財の生産に至っている。これは使っても減らない、消滅し
ない財だから生産関係の中で所有関係が重要ではなくなる。つまり生産過程での
資本の機能の必要性が弱められ、市場においても個がプレイヤーとして振舞うこ
とを可能にして、経済でも個を主体とする民主主義が実質的に機能することに道
を開いている。「個あっての公」の共産思想を支える物質的基礎の一つたりうる
かもしれない。市場それ自体を否定しないなら市場を変革、変質させる要素を
持った「発達した諸形態」を具体的に抽出、分析する(例えば「現代の社会の胎
内に育っている発達した諸形態はなにか、を非常に熱心に研究してきました
/20回大会で不破氏」)ことが求められている。
・すんなり理解しにくい破砕帯があるけれど、そこを無理やり掘り進めば、共感 できるところが多かった。まとまりませんが感想です。
以上