変革の立場で社会をとらえる科学的社会主義の政党にとって、「普通の政党」という表現は、およそ簡単にでてくる表現ではないと私は思います。
ゼネコンや大資本の利益をそのままに、絵に描いたようなブルジョワさんの議会政治が、「普通」の顔として、人民の目の前にあるというのに、日本共産党が「普通の政党」だと名乗ってそこに溶け込むことなどできるのでしょうか。帝国主義を突き進み新自由主義をひたはしるニッポンにあって、「普通の政党」ということは、その積極的な構成員であるということだと思います。したがって日常会話の枠には収まらない、階級的な色彩をもった言葉であると思います。
「さざ波通信」のトピックスにもありましたが、飢餓人口が12億人存在するなかで、「万国の労働者団結せよ」という言葉を思い浮かべたとき、私たちは、抑圧者の側にその住居を構える、そんな感じではないかと思います。正面から闘うことをやめて、ブルジョワマスコミの賛辞を受けながら、「安定」したニッポンに貢献するというのが、いま私たちがすすんでいる道だと思います。すでに、今年あたりでは、「革新」という言葉でも両手からこぼれるようになってきて、大阪府知事選でめざすのは「民主」府政、京都市長選では「民主」市政となっているようです。もし、本当に当選したとして、はたして革新自治体にカウントできるのでしょうか?
闘わず鍛えられることのない党は、本当の意味での存在意義をなくし、魅力も、力もなくします。私のまわりでも、立派で尊敬できる党員の数が減り、寄生的に生活をする活動家が増えてきました。かつては魅力があったが今はさっぱりという人もなかにはいます。時間とは怖いものです。私が入党したときは、だれもがキラキラと輝いてみえましたし、実際に権力と力強く闘っている人が多かったです。現在は、たとえばヒゲ戸田さんであったり、吉野川河口堰の姫野さんであったり、多くの党外の方のほうが、よっぽど勇気をもって社会に働きかけ、社会発展に貢献をされ、人間としても魅力にあふれている、そんな風に感じられます。私自身は、日本共産党のなかで輝けるよう、もう少し頑張ります。