<結果次第ですが複数の政党の連合政権になる可能性は高いでしょう。しかし選挙で明かな政権構想をもって統一戦線を組んで闘う政党はないわけですから、選挙後に政党間の協議で政策の一致点を作りだして「暫定」政権を組むしかないわけです。そうした政党間の協議の場に共産党が参加することがなぜ無責任なのでしょうか。>
私はそのような協議の場に参加すること自体を無責任だと言ったわけではありません。私が「無責任」だと述べた点を言いかえると、「政権構想」として掲げるものが、「政権の協議をする準備があるということ」の表明にすぎないのだとしたら、「政権構想」の名に値しないということです。つまり、そのようないつの選挙も通じるような見解の表明を「暫定」であれ何であれ、政権「構想」ともったいぶって言うようなものでしょうか?ということなのです。
タケルさんは、やけに「暫定」ということを強調されていますが、暫定であれ何であれ、政権に参加するということは、その政権のもとで実行・実施される内政・外交その他の国家が行なうことすべてに責任を負うことになります。単純に共闘の延長線上で考えることはできません。政権に関する何らかの協議の場に共産党が参加すること自体は、大いに結構なことです(ただし、どのような立場で望むのかが問題ですが)。首相指名選挙に協力することも結構なことでしょう。しかし、政権に参画して大臣の椅子を授かることはそれらの共闘とは一線を画すことがらであり、単なる「延長線上」のものでないと私は考えています。
社民党が政権に参加したとき、私たち日本共産党(員)は批判的立場で臨みました。しかしながら、当時の社民党幹部は、苦渋の選択であったが自民党政治ではなしえなかった進歩的な政策も実施できたという評価もしています。タケルさんはこの点をどうお考えなのでしょうか? 社民党が参画した内閣は肯定的に評価できるのでしょうか?
その後の社民党の行方をみれば、その行為が政治革新を望む国民によって肯定的に評価されたのか否定的に評価されたのかは誰の目にも明白でしょう。たとえ自民党単独政権のもとで提出された法案でも、共産党が賛成したものはいくらでもあります。政権を評価する場合、個々の政策といよりも政権全体としての性格を判断基準としなければならないのではないでしょうか?
【<第一に><自民党政治を部分的にせよ打破する方向に一歩ふみだすという客観的な条件が野党間に生まれること>】
タケルさんにお聞きしたいのですが、全体として自民党政治の枠でありながら、部分的にでも打破できれば共産党は政権参加すべきだとお考えですか?
<しかし共産党が参加すれば、自民党政治の継承でなく、進歩的な打破する方向に向くわけですから、国民の立場からすれば望ましいことでしょう。>
共産党が参加すれば、進歩的な方向に向くという保証はどこにあるのでしょう? そもそも「自民党政治」とは何を指しているのでしょう? 支配層は帝国主義化・新自由主義という方向を望んでいます。これは、かつて自民党が行なってきた政策を「打破」するものであり、現在も自・自・公によって「打破」されつつあるものです。このようなものが基準となりえるのでしょうか?
<新自由主義と帝国主義化を進めるのか食い止めるのかは、何で判断するのでしょうか。綱領を問題にするんですか、政策でいいんじゃないですか。>
自由党や民主党が新自由主義と帝国主義化を食い止める政策を掲げているのですか? たとえばどのような政策でしょうか?
<議会制民主主義が機能してる現代社会では、革命は選挙を通してやるんじゃないんですか。そうでないなら私は共産党員であることを止めますよ。>
私はマルクスやレーニンなどの名前を持ち出して議論するのは苦手なので詳しく展開するつもりはありませんが、「議会制民主主義」と言ってもさまざまな形態がありますよね。社会的弱者を排除した議会、少数民族を排除した議会、特定の人種を排除した議会、それに、大選挙区制・小選挙区制・完全比例代表制……もろもろ。革命を支持する側の議員の数も、こうした議会形態自体も、いずれも市民社会における抑圧者側と被抑圧者側の力関係の反映であり、革命の成否は、あくまでその力関係で決まるのではないですか?
日曜日に大阪府知事選と京都市長選がありました。これらの選挙では、「野党共闘」の共闘相手である民主党は与党側に回りました。これをよく「ねじれ」と表現するようですが、私は共産党の側に大きなねじれがあると感じました。それは、基本政策において自民党と大差ない民主党とは中央段階で「野党共闘」をいっしょうけんめい追求する一方で、地方首長選挙では、市民派議員・無党派との共闘を少しも追求しなかったということです。目を向ける相手が間違っているのではないでしょうか?