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党員用討論欄

大阪府知事選挙から何を学ぶか

2000/2/12 川上慎一、50代

 政党間の基礎票にもかかわらず、現在の情勢の中では、2つの選挙(大阪・京都)ではわずかに勝利の可能性があるかと期待していましたが、残念な結果になりました。厳しい経済情勢の中で人々の生活が深刻な事態を迎えつつある今日においても、なお、自民党とその補完勢力の驚くべき底力を見せつけられました。2つの選挙は、基本的には自民党が単独では支配できないということと、共産党だけでは政治を変革することができないという2つのことを示しました。
 大阪府知事選挙についていえば、勝利する可能性があったか、なかったかということを考える前に、そこにいたるまでの闘いが検討されなければなりません。前知事のセクハラ事件が表面化し、府民や国民の厳しい批判が高まったときに、広範な大衆運動を展開する条件がありました。具体的にいえば、たとえばリコール運動をやるべきではなかったか、と思うのです。800万府民を対象としたリコール運動は気が遠くなるような規模の運動ですが、党派を越えた運動として私心を捨てて取り組めば新しい地平が見えてきただろうと思います。大阪よりもはるかに共産党や左翼勢力の小さいところでも優れた運動が見られますから、リコールの成否はともかくとして無党派の市民や革新的な勢力と共同してそういう運動を進めるべきではなかったでしょうか。
 旧ソ連の崩壊の原因として、共産党のあり方が決定的なものの1つでした。その中でこの投稿に関連するものをあげれば、「代行主義」とよばれるものがあります。つきつめていえば「民衆を政治に参加させない」ということです。
 吉野川可動堰の住民投票の結果を尊重するかどうかを問われたときに、自民党の大臣や幹部は「住民投票は議会制民主主義に反する」という見解を示しました。この見解は、議会制民主主義に対する恣意的な見方というべきであり、批判されなければならないものですが、支配階級の見解としてはむしろ正統なものでしょう。私は、議会制度というのはブルジョアジーの発明した政治制度であり、真の人民主権からすれば、「本質的な変革」が必要なものではないかと思っています。その中心的な観点は「民衆が常に政治の主人公として機能することを保証するものではない」ということです。選挙は「数年に1回、支配者を選ぶ機会である」とはエンゲルスの指摘でもありますが、真の人民主権という観点からすれば、議会制民主主義には「本質的」ともいうべき欠陥があります。「自由な選挙」は無条件に人民主権を意味するものではなく、民衆にとって最高の民主主義的政治システムではありません。技術的に可能な限り直接民主制を政治システムに取り入れることが人民主権を実現する上で不可欠です。現代においても、リコールなどの直接請求は極めて重要な権利であり、現行憲法でも認めているものですから、もっともっと積極的に活用すべきでしょう。
 「いつでも公務員――たとえば議員――を罷免できる」ことが民主主義にとって不可欠であることはマルクス主義の創始者の指摘するところでもありますが、現在の選挙制度、政治システムでは、一旦選ばれた議員、特に国会議員は民衆によって罷免されることはありません。もし、選出母体(選挙区)でこの議員を罷免できる制度があれば、たとえば、消費税は実現しなかったでしょう。自民党は消費税国会の前の選挙で「消費税はやらない」と公約していたのですから、国民をだまして議席をかすめとったようなものです。この制度があれば、消費税に賛成した議員の多くは間違いなく罷免されたでしょう。そうすれば、消費税は実現せず、したがって、財源が不足すれば富裕層に負担させる以外にはなくなります。多数者の支配とはこのようにして行われるわけですから、少数者である支配階級には、できるかぎり民衆を政治の外においておきたいという衝動が常に働きます。住民投票を非難する自民党の大臣の発言はこういう事情を背景として出てきます。
 議会制民主主義に対する批判的視点に立てば、民衆の積極的な政治参加をうながす中で「自民党政治の打破」を目ざすべきであって、議会制民主主義というせまい枠をうち破ることによってこれを展望するという方向が出てくるはずです。このような視点をぬきにして、無条件に議会制民主主義を肯定するような路線を、少なくとも共産党を名のる政党が取るべきでないことは明らかでしょう。
 社会主義の政治システムとしてどんなものがあるか、どんなものがよいかということとは別の問題として、現代日本の政治を考える上でも、もっともっと民衆が直接政治に参加するような運動、闘いを追求しなければなりません。大阪府知事選挙でも、リコール運動を展開していれば、その成否にかかわらず、運動が広がりさえすれば、広範な府民の連帯が生まれたでしょうし、その中で本当に府民の利益を守る人を知事に選ぼうという声がその運動の中から必ず出てくるでしょう。このときには、日本共産党がその一翼を担う候補者が擁立されたでしょう。そうすれば、自民党やその補完勢力の候補者はおそらくは勝てなかったでしょう。「さざ波」に掲載されているヒゲ戸田さんの投稿からも推察できるように、実際、今回の大阪府知事選挙は広範な府民がみずからの闘いとして参加する選挙戦として展開されたとはいえないようです。
 自民党政治の打破はこのようにして進行していくものであって、国会内の「野党」(文字通りカッコ付き)との間での合従連衡で打破できるものではないことを、不破指導部やこの路線を支持する党員は認識すべきです。自民党やその補完勢力の驚くべき底力をあらためて認識すべきであり、これを打破するのは、広範な民衆の力、団結と闘い、そしてこれと結びついた国会内の闘い以外にはない、ということを知らない政治家は無能といわれても反論のしようがありません。
 60年安保を思い出しましょう。国会で絶対多数を誇っていた自民党が安保条約を批准するのにどれほどの辛酸をなめ、支配体制の深刻な危機をどれほど感じたことでしょう。連日国会を包囲するデモ隊、全国各地で集会やデモに参加した無数の民衆、この存在こそが国会内の野党の数を何倍にも機能させのです。社会党が野党第一党であった時代にも、国会外の広範な民衆の闘いがないときには、社会党幹部は自民党によって、簡単に懐柔、買収され、戦闘的な外見をよそに姑息な妥協を重ねました。国会議員を懐柔、買収をすることはいとも簡単なことであり、これが可能であることが「議会制民主主義がブルジョアジーにとって最良の支配形態」である所以です。しかし、無数の民衆を懐柔、買収することは困難です。
 不破氏が情勢評価の尺度として好んで使う「共産党の国会議員の数」からいえば60年安保当時の共産党議員は取るに足らないものでした。このことも、政治が国会内の議席数――これは決定的に重要ではありますが――だけで決まるわけではないということです。
 広範な民衆の広い意味での、選挙だけではない、政治参加を実現することなくして、自民党政治を打破できるなどと考えることは幻想に過ぎません。私は、このことを今度の2つの選挙の教訓とすべきだと思います。
 共産党が政策的な妥協をくり返せば、いつかは共産党の質的な変化をもたらします。選挙で得票を獲得するために、政策的な妥協――スタンスを右へ右へと移すこと――をくり返せば再び立ち戻ることができない地点にまで進んでしまうでしょう。日本共産党は、いまそういう瀬戸際に立っている、と私は思います。
 真に政治を動かすのは民衆であることを忘れることなく、すべての日本共産党員は、党の綱領路線に立ち戻って、民衆の要求に基づき、職場で地域で学園で、闘いの先頭に立たなければなりません。

 政権構想では、民主党が視野に入っていることは明らかです。共産党指導部がいくら秋波を送っても、民主党は条件が満たされなければまず応じそうにもありません。その条件とは、綱領と党名でしょう。この綱領――部分的に巧妙に変えられつつありますが――と党名は、私のような、中央に批判的ではあるが綱領を基本的に擁護する党員が存在する根拠ですから、単なる形式的な問題ではないし、そのことを支配階級の一員である民主党指導部が知っているからでしょう。
 広範な民衆の闘いを基礎として自民党政治を打破するという観点が欠落したまま、「自民党政治の打破」を追求すれば、名前だけが違う「自民党政治」の再現というところに行き着く以外にはありません。