じっくり検討している余裕がないので、簡単に、タケルさんの投稿について意見を述べておきます。
安保凍結でも政権に入る意義はあるのか?
過去の暫定内閣の提唱からの一貫性ということは事実ですから、私はそれを認めた上で、「安保凍結」の連合政権に共産党が入閣する意義があるのかどうかに疑問があります。たとえばタケルさんは例として、思いやり予算の中止とかNLPの中止を求めるとかを挙げられていますが、そのために入閣が必要なのでしょうか? タケルさんは連合政権を共闘の延長線で考えておられるわけですが、延長線というのであれば、共産党が首相指名選挙で協力するが、入閣せずに閣外で個別の問題について協力・非協力という方法こそが妥当であると私は考えています。なぜ入閣(暫定政権)なのか? この疑問への解答は、党中央の説明でもタケルさんの説明でもみえてきません。わたしは共産党はあくまで、体制変革をめざす勢力として独立性を維持すべきであると考えています。
統一戦線論との関係について
この問題については、統一戦線についての考え方の相違が根本にあるのではないでしょうか? 党中央とタケルさんの考え方は、(このように言うと不愉快かもしれませんが)基本的にスターリン時代からの統一戦線論に乗っ取っているものと思われます。具体的には、「反ファシズム統一戦線」をその源流とみなすことができます。「日本共産党の70年」などの党史に関する文献などをみましても「反ファシズム統一戦線」は高く評価されており、したがってまたこの点においてはスターリンの功績として評価されていたように思います。
「反ファシズム統一戦線」の考え方は、目下の主要な敵と闘うためならば支配勢力の一部とも手を組むというものです。言い換えれば、支配層内部のヘゲモニー争いにおいて、よりなしな勢力に、党として加勢するとでもいいましょうか。日本共産党の統一戦線論は、一貫してこの立場にあります。ただし、基本的には安保問題など国政の基本問題においてはゆずらない原則的立場(「革新三目標」)を保持していたことなどの理由により、無原則な入閣主義とは一線を画していたと言えると思います。また、今回の政権論において「安保凍結」と言う場合も、ただちにそれが原則をゆずるものであると考えているわけではありません。
統一戦線論について考える
「反ファシズム統一戦線」に代表される統一戦線論に対して、私は批判的です。いくつか問題点を指摘しておきたいと思います。
第一は、「反ファシズム統一戦線」がそうであったように、ブルジョア勢力との統一戦線にもとづく政権は、あくまで現状を悪くさせないための現状維持の政権であるということです。体制変革をめざす共産党が現状維持政権に参画することの是非は検討を要する問題です。
第二に、「反ファシズム統一戦線」の時代は、共産党がそれこそ武力弾圧された戦時の統一戦線であったということです。戦争中でもなければ、さしせまった戦争の危険もないという意味で平和な時代である現代日本において、現状悪化を食い止めるためだけに、あえてブルジョア勢力と手を組む必要があるのかどうか疑問です。
第三に、仮に平時に有効であるとしても、それをもって我々の闘争になんらかのブレーキがかけられてはならないということです。ブルジョア勢力との統一戦線を追求・維持するがために各方面の闘争が抑制されるようなことがあってはなりません。世界史的には、「反ファシズム統一戦線」のもとで、実際に階級闘争が抑制される例が少なからずありました。そういう弱点を合わせ持った統一戦線であるということを忘れてはなりません。
最後に
タケルさんは、原則的立場としてアメリカ帝国主義と日本独占資本との闘いが大事なんだということを言われています。そうであるならば、党首が明確な改憲発言を繰り返している民主党や自由党に対する批判は、その政治闘争の重要な側面ではないかと思いませんか? 現在の党中央の立場は、共闘を追求するあまり、国政の重要問題で攻撃がしかけられているにもかかわらず批判を差し控えている――そう感じています。われわれの敵に対する有効な共闘は、そのような批判と大衆運動による包囲ぬきにはすすまないものではないでしょうか? 「さざ波通信」が特に問題にしているのは、この点のように思うのですが。
なお最後になりますが、タケルさんの編集部に対する批判は明らかに論点がずれています。党中央に対する編集部の批判は、(民主党との)共闘一般についてではなく、あくまで政権の問題についてのものです。それゆえに、新自由主義や民主党と闘う「小児病」だという批判は、まったくの的外れでしょう。