「編集部は私の『共闘一般と政権の問題はどこが違うのか』という質問に答えて頂いていません」と述べられています。しかし、私たちとしては、過去の『さざ波通信』の中ですでにこの問題については十分に論じており、タケル同志の議論は、私たちの主張を十分踏まえたものになっていないのではないでしょうか。しかし、この問題は非常に重要ですので、次号の『さざ波通信』で改めて論じてみたいと思います。それによって、この間の討論がいっそう前進することを願います。
あなた方の過去の主張に注意を払っていなかった点については謝罪いたします。しかし次号で改めて論じて頂けるとのことなので期待しています。可能なら出来るだけ簡潔な論文をお願いしたいと思います。
政権につくこと一般と共闘の違いなどについては、おっしゃるようにまとめて述べられるのだと思いますが、その他、私が何度か指摘している下記4点についても次号の中で議論して頂ければ幸いです。
・「不破政権論」の「何」が破綻したのか。
・統一戦線は同じ方向を向いていないと出来ないのか。
・「綱領が違うから連合できない」という民主党の主張についてどう思うか。
・新保守主義、帝国主義という民主、自由党の本質は、どの様な点から判断するのか。綱領か政策か。
さて、創刊号の論文について指摘がありましたので簡単に意見を述べます。
カウツキーでさえ、ブルジョア政党と政権に入るのは、例外中の例外、何らかの危機的状況のもとでだけだと主張していました。ところが、スターリン主義の長い長い支配と、それによる社会主義意識の解体のおかげで、今や一般の共産党員の政治意識はカウツキーの水準からさえ遅れるようになってしまったのです。
私は自分の政治意識がカウツキーほど高いとは最初から思っていません。実際のところロシア革命前後の様々な論争についても決して詳しくはありません。そう思ってご議論下さい。しかし私はロシア革命自体がエスエルやメンシェビキという小ブルジョア民主主義政党との統一戦線によるものだったし、全欧の反革命との闘争の為にソビエト政権が樹立された以降にも、レーニンはこうした小ブルジョア政党と敵対するのではなく引き入れよ、と主張していたと思っています。誤りであればご指摘下さい。この辺りは私も勉強してみます。それにしても、当時はイギリスにさえ男女平等の普通選挙権のない時代ですからね。様々なブルジョア的イデオロギーが蔓延しているとはいえ、曲がりなりにも国民一人ひとりが政権を選択する権利が与えられている現在と一緒にするのはどうかと思いますけど。
政権に入るということは、政権与党として、その政権が行なう--ないし行なわない--あらゆることに対して政治的責任を負うことを意味します。党としては別意見だなどというのは、何の言い訳にもなりません。どんな短期の政権であれ--選挙管理内閣なら別ですが--、その政権が存在している全期間を通じて、外交と内政は存在しつづけ、それにかかわるあらゆることが政権の責任としてかかってくるのです。
ここまでは正しいと思います。問題のある政策は政権の責任として問われるでしょう。
2、3の一致する政策以外のいっさいは、基本的に自民党政治を引き継ぐか、あるいは、与党の中の多数派政党のヘゲモニーのもとで執行されることになるでしょう。そのような政治、そのような政策の責任を共産党は負うことになります。それはまさにかつての社会党の姿です。
しかし現在でも共産党は立法の6割には賛成しているんですよ。自民党のやることが何でも全部だめという訳じゃない。行政はそんなに単純なものではありません。現在の情勢の中で、国民的に焦点になっている幾つかのポイントについての政策を転換させることが出来れば、それは価値あることだと思います。選挙で責任持って公約を掲げるんだから、その公約が実現するために政権に加わることも含めてあらゆる手立てをつくすのが、政党としての国民に対する責任の取り方じゃないんですか。
細川政権との違いについては、2月13日の澄空望さんへの私の意見をご参照下さい。