レスが遅れたことをおわびします。遅れているうちに、澄空望同志より、レス投稿が掲載されてしまいました。相互に重なり合う論点もいくつかありますが、タケル同志の投稿に即して具体的にレスしたいと思います。
タケル同志は、3月31日の投稿において、主として党の綱領路線に照らして、私たちの主張を検証するという立場をとっておられます。これは、党員としては基本的な態度であり、私たちもそうした検証には賛成です。しかしながら、その具体的な中身には賛成しかねます。
1、新自由主義と新帝国主義について
まず、タケル同志は、新自由主義および新帝国主義化が日米支配層の基本戦略であるという私たちの見解に対し、次のように述べています。
これは、綱領が規定している日本を支配する2つの敵、アメリカ帝国主義と日本独占資本の戦略が「新自由主義」と「新帝国主義」という新しい「基本路線」を選択したという、「さざ波通信」編集部独自の考えです。しかしこのような考えは綱領のどこにも出てきません。「新自由主義」「新帝国主義」の文言も大会決定やその他の党の文章でも見たことがない気がします。もし事例があれば教えて下さい。
まずもってこの意見には、綱領に対する無理解が示されているのではないでしょうか。綱領というものは、その時々の情勢にあわせて頻繁に変更するものではなく、戦後の日本と世界における基本的な社会構造を分析して、基本的・長期的な党の目標や戦略を明らかにしたものです。
たとえば、ボリシェヴィキの綱領は、まだメンシェヴィキとの分裂を経験していなかった1903年の第2回党大会の前半において採択された綱領を基本的には1917年10月の革命までそのまま持ち越しました。その間に、第2回党大会後半でのメンシェヴィキとの分裂、1905年革命、反動期、ボリシェヴィキの別党化、帝国主義戦争、そして2月革命の勃発というように、ある意味で根本的とも言える重大な社会的変化をこうむったにもかかわらず、綱領はそのままでした。これは極端な例だとしても、基本的には、支配階級の最新の戦略方向について必ずしも綱領に書いていないことは十分ありうることであって、綱領に書いてないことをもって、それを綱領路線からの逸脱だと言えるのなら、綱領は毎年のように改訂しなければならなくなるでしょう。
問題になっているのは、まさに、綱領に書いてある二つの敵の支配が、現在はどのような具体的な戦略的方向性を持っているのかを明らかにすることであり、綱領路線を、その時々の情勢に応じて具体化することです。その具体化の作業は、党中央がやってくれるまで待っておけばいいというものではなく、個々の党員が、日々の情勢や社会変化に注意を向け、綱領路線を踏まえつつ自らの意見を形成し、そして党内において自らの意見を述べ、こうして党中央が全党の英知を結集した形で、綱領路線の正しい具体化をはかれるようにしなければなりません。正しい方針、正しい情勢分析が、突然、上から降ってくるのではありません。
「新自由主義」や「新帝国主義」という言葉が大会決定や党の文章に見られないという意見については、次のように言いたいと思います。最近の党大会の決定をはじめとして、党の公式の文章は、基本的には、私たちが新自由主義や新帝国主義という言葉で表現した中身について語られています。現在進行しつつある、福祉切り捨て、規制緩和、公的部門の民営化、間接税中心の税制度、等々はいったい何でしょうか? これは、何のまとまりもない、それぞれ偶然出てきた諸政策でしょうか? もちろん違います。これらの政策を「新自由主義」と呼ぶのは、社会科学的常識です。事実上、わが党の中央委員会によって編集されている雑誌『経済』の昨年5月号の特集名はずばり「新自由主義批判」です。
また、自衛隊の海外派遣、新ガイドライン法、盗聴法、憲法調査会の発足、有事立法の策動、等々の政策はいったい何でしょうか? これらは、まさに綱領が言うところの「軍国主義、帝国主義の復活・強化の道」以外の何ものでもありません。にもかかわらず、わが党中央は最近の諸文章では「帝国主義」という言葉を極力使おうとせず、「覇権主義」という曖昧な言葉でお茶を濁しています。「覇権主義」というのは、綱領では、ソ連をはじめとする旧「社会主義」諸国の大国主義的外交政策についてしか言われていません。にもかかわらず、わが党指導部は、この「覇権主義」という言葉を無批判に資本主義国の帝国主義的現象にまでそのまま援用し、「帝国主義」の問題について回避をつとめているのです。私たちは昨今の動きをまさに「帝国主義的復活・強化の道」であるとずばり指摘しています。綱領路線に忠実なのは、いったいどちらでしょうか?
「新」という言葉が問題だというのなら、私たちは別に「新」という言葉にこだわるつもりはいささかもありません。問題の本質は、この間の一連の政治改革や軍事的能動性の強化が、偶然的なものでもなければ、支配層の気まぐれでもなく、まさに綱領が言うように「日本独占資本は、巨大な資本蓄積を基礎として、工業製品および資本の輸出で、国際的に有力な地位をしめるにいたり、世界の帝国主義陣営のなかで、アメリカ帝国主義の目したの同盟者の役割を軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的・能動的にはたしている」ということの現われに他ならないということです。すなわち、日本資本主義の帝国主義的世界進出という経済的基盤と、アメリカ帝国主義による支配という政治的枠組みの中で遂行されている「日本の帝国主義化」ということです。
そして、この「帝国主義化」ないし「帝国主義的復活・強化」は、狭い国内市場と封建的残存物と絶対主義的天皇制にもとづいていた戦前型のものではなく、高度に発達した資本主義経済と、大企業の多国籍化、資本および商品の未曽有のグローバル化に立脚した新しいタイプのものだということです。この新しいタイプは、国内政治秩序としては権威主義をめざすが、戦前のような絶対主義的天皇制をへの回帰を目指しているわけではなく、小選挙区制を中心とした「多数専制」型の議会制民主主義に立脚しようとしています。また、下からのラディカルな運動の発現を押さえるに十分な弾圧立法や弾圧機構を整えようとしますが、戦前のような全体主義的社会にしようとしているわけではなく、アメリカ型のもっと洗練された支配秩序を構築しようとしています。こうした点を言うために、私たちは「新」という言葉をつけただけのことであって、実際に言っている中身は、綱領路線と矛盾するどころか、むしろそれを具体化するものです。
そして、私たちが主張しているのは、この二つの路線が、現在の支配層にとっての基本路線であり、しかも、この両者は密接に結びついているということです。先に紹介した雑誌『経済』の昨年5月号の巻頭論文「現代資本主義と新自由主義」において、二宮厚美氏は冒頭、次のように述べています。
世紀末不況にあえぐこの日本は、二頭の暴れ馬に引っぱられながら、新世紀への架け橋を渡ろうとしている。一頭の馬は軍事強国をめざす大国主義的改革(ミリタリズム化)、いま一つの馬は新自由主義的改革(ネオ・リベラリズム化)である。前者は日米防衛新ガイドライン関連法を通じて日本を自動参戦の道に走らせ、後者は戦後福祉国家との決別を迫って、ともに憲法体制に挑戦しようとする。この二頭立ての馬車は、一言で言うと、「自由な経済と強い国家」を目指すと言ってよい。
この論文は新自由主義の問題を考える上で非常にわかりやすいので、一読を勧めますが、こうした立場を表明しているのは何もこの論文だけではありません。
タケル同志は、この問題に関連して、さらに次のように述べています。
しかしいずれにせよ、綱領の核心である2つの敵との闘いを、「基本的には世界のすべての先進資本主義の支配層の主要戦略」である新保守主義と新帝国主義との闘い解消しようというのは、2つの敵との闘いを弱めるものであり、日本共産党綱領の立場ではありません。
「二つの敵」というのは宙に浮いて存在しているわけではありません。「二つの敵と闘う」ということは、その二つの敵が現在推進している基本的な政策や路線と闘うということです。それなしに、抽象的に「二つの敵と闘う」と言っても空文句です。いったい、現在、日本共産党をはじめとする革新勢力や左派勢力が取り組んでいる主要な闘争課題のうちで、新自由主義と帝国主義化という二つの基本政策と無関係なものがあるでしょうか? もしそういうものがあれば、ぜひ教えていただきたいと思います。いったいタケル同志は、新自由主義政策や日本の帝国主義化路線と闘わずして、どのように「二つの敵」と闘うつもりなのか、あるいは、実際に闘っているのか、その具体的中身についてぜひ教えてほしいと思います。
2、統一戦線の問題と政府の問題
次に、私たちが民主党を含む新自由主義諸政党の主たる基盤を都市上層市民ととらえていることについて、タケル同志は次のように批判しています。
これは都市労働者上層部は、私たちとの統一戦線の対象にはならないと宣言したものです
党綱領とは縁もゆかりもない考え方
綱領で指摘されている「国民の分裂」は、一人にぎりの大企業、反動政治家、上層官僚と、その支配の元に矛盾を深める、労働者、農漁民、勤労市民、知識人、女性、青年、学生、中小企業家などがあるだけです。(ちなみに後者をさして「人民」と呼び分けることがあります。)そしてこうした階層の人々を結集して、広範な民族民主統一戦線を作るのです。
都市の上層労働者は、人口比でいくと、労働者全体の1割程度であり、しかもこの部分は、年々、ますます減少しつつあります。したがって、この部分を除いたとしても、統一戦線に結集できる部分は労働者の9割以上ということになります。また、都市上層という場合、企業労働者だけでなく、医者や弁護士や大学教授などの高度専門家層も考慮に入れる必要があります。
しかし、誤解のないようにつけくわえておきますが、私たちが新自由主義路線の基盤となっているのが都市の上層市民だと指摘したからといって、この階層に属する人々をアプリオリに統一戦線から排除するということにはなりません。たとえば、旧来の自民党政治の重要な基盤は、農民と都市の中小自営業者でしたが、この客観的事実を指摘したからといって、農民や都市自営業者を統一戦線から排除することにはならないのと同じです。実践においては、党は当然のことながら、特定の課題において、その課題に賛成するすべての人々との共闘を呼びかけます。しかし、その課題の内容によっては、結集しやすい階層と、結集するのが困難な階層があることを正しく認識しないかぎり、科学的社会主義の党の名前が泣くというものです。
都市上層に属する市民でも、良心的な人々は、統一戦線に結集するでしょう。しかし、問題が新自由主義と対決すること、日本の帝国主義化と対決することであるかぎり、この階層が総体として統一戦線の側に獲得されると考えるのは、幻想でしかありません。
タケル同志は、続く議論の中で次のような発言をなされています。
もちろん綱領には民族民主統一戦線について、【反動党派とたたかいながら民主党派、民主的な人々との共同と団結をかため……】という記述がありますが、この反動、民主の両党派というのもまさに2つの敵に対する態度を問題にするのであって、最初からその党の「階級的本質」を問題にして区別するような考えが科学的社会主義のものでないことは明らかです。
「階級的本質を」問題にする考えが、「科学的社会主義のものでない」とは驚きです。では、あなたの言う「科学的社会主義」とは何でしょうか? あなたの「科学的社会主義」においては、「階級」や「階級的本質」にはどういう位置づけが与えられているのでしょうか? 「日本独占資本」や「アメリカ帝国主義」というのは、階級的規定ではないのですか? 二つの敵に対する態度が問題だというなら、まさに民主党は、この「二つの敵」に奉仕する政党です。この政党がいつ、どこで、二つの敵と対決したのか、教えていただけないでしょうか?
さらにタケル同志は、政府の問題に移って、次のように述べています。
さらに、綱領では民族民主統一戦線の【政府を作る過程で党はアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役立つ政府の問題に充分な注意と努力を払う。一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたって一致できる目標の範囲で、統一戦線政府を作るためにたたかう。】と述べています。この典型が革新統一戦線による民主連合政府ですが、2つの敵の支配を打破するのに役立つ政府ならば、今回提唱されている暫定連合政府でも構わないのです。
タケル同志が引用してくださったように、綱領は「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役立つ政府の問題に充分な注意と努力を払う」と述べています。問題は、民主党との連合政府が何ゆえ、「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役立つ」のかです。私たちが先の論文で詳しく明らかにしたように、民主党の基本政策はすべて、現在の日米支配層の求めるものを実現することに向けられています。彼らの自民党批判は、そうした政策を実現する能力が欠けているというものです。公的部門の民営化や規制緩和などの分野において、自民党は生ぬるい、曖昧である、これが民主党の基本的なスタンスです。つまり、自民党よりももっと積極的に、新自由主義政策を推進しようというのが民主党の立場です。どうして、このような政党との連合政府が「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役立つ」のでしょうか? その理由をわかりやすく説明してください。
タケル同志はさらに次のように述べています。
綱領では、統一戦線においては【当面の差し迫った任務に基づく民主勢力と広範な人民の共同、団結を、世界観や歴史観の相違などを理由として拒んだりさまたげたりすることは、祖国と人民の解放の根本的な利益を損なうものである】とあるのを思いだして下さい。
思い出してほしいのは、党中央とタケル同志の方です。現在における「当面の差し迫った任務」とはいったい何でしょうか? それはまさに、現在、日米支配層が自民党政治を通じて推進している新自由主義政策と帝国主義化路線と闘い、それを阻止することです。これこそが、「当面の差し迫った任務」です。この「当面の差し迫った任務」と正反対の方向を目指している政党と連合政府をつくろうとすることは、まさに「祖国と人民の解放の根本的な利益を損なうもの」でしかありません。
3、民主党の階級敵本質について
タケル同志は、民主党が変わりうるということをさかんに力説しています。しかし、なぜ変わりうるのかについて、何も述べられていません。
私たちの見方によれば、民主党は、都市上層市民に依拠したブルジョア政党です。それは、腐っても労働者政党であった旧社会党や現在の社会民主党とは根本的に違います。民主党の一部は、旧社会党の中の最右派部分であり、社会党をとめどなく堕落させ右傾化させてきた張本人であり、典型的な労働貴族階層に依拠した官僚政治家たちでした。そしてこの官僚政治家たちが自民党出身のブルジョア政治家たちと結託してつくったのが民主党です。その後、さらに新進党から分かれた札付きの保守政治家と合流しました。そして、誰もが知っているように、この政党においてヘゲモニーを握っているのは、旧社会党の労働官僚ではなく、自民党出身のブルジョア政治家たちです。ここに、民主党の階級的本質が示されています。そして、昨年の党首選挙で、社民連出身の菅直人に代わって、生まれながらのブルジョア保守政治家である鳩山由紀夫が大差をつけて党首になったことは、この政党の階級的本質をいっそうむき出しに示すものでした。これが民主党です。
歴史的に形成された政党の階級的本質は基本的に変わるものではありません。しかし、もちろん、情勢が極端に左傾化したときには、ブルジョア政党でも、選挙で支持を獲得するために、その政策や態度を一時的に左傾化させることもあります。70年代半ばから終わりごろの政治情勢がまさにそれでした。そのときは民社党ですら、安保廃棄を掲げました。しかし、まず第1に、それは階級的本質を変えるものではいささかもありません。第2に、残念ながら、現在はそういう革新的情勢ではありません。そして第3に、現在の共産党の、民主党に対する無批判路線、迎合路線は、たとえ民主党を変える可能性があると仮定したとしても、そのわずかな可能性をも無にするものです。
かつて日本共産党は、社会党と共闘していたときも、社会のあれこれの誤りや日和見主義に対する批判を控えることはありませんでした。共産党による社会党批判の中には、現在の地点から見れば、しばしばセクト主義的なものや的外れなものもありましたが、しかしながら、全体として左からの批判を行ない、それが社会党の右傾化に対する歯止めとして一定機能してきました。ところが、現在では、わが党指導部は、同じ労働者政党、まさに階級的には仲間である政党に対してさえ遠慮しなかった政治的批判を、よりにもよって反動的ブルジョア政党である民主党に対しては慎重に控え、あまつさえ、政策的一致点すら不明な連立政権の展望を一方的に宣言しさえしています。このような政治的態度が、どうして民主党を変えることにつながるのか、ぜひ説得力のある説明をお願いしたいと思います。
またタケル同志は、民主党支持層に対しては過度に楽観的であるにもかかわらず、自民党支持層に対しては過度に悲観的です。タケル同志は、自民党に投票する人々について次のように述べています。
自民党を支持する人々は日本支配と矛盾を投票行動に現せない人々です。
「日本支配と矛盾」という文言は「日本の支配層との矛盾」の間違いでしょうが、いずれにせよ、これは奇妙な意見です。この10年間というもの、最も投票行動を変化させたのは、自民党支持層です。自民党の重大な支持基盤であった農民層と都市自営業者層は、この間の新自由主義政策によってしだいに自民党から離れ、共産党に移りつつあります。これらの階層の階級的利害は、現在の日米支配層の基本路線である新自由主義路線と根本的に矛盾するので、この層は、その政治意識における保守性や後進性にもかかわらず、政治的な変化を遂げる有力な可能性を有しているのです。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』などで述べたように、こうした中産階層は、衰退の危機に直面したとき、労働者の党を支持することがありうるのです。
しかし、これらの階層を獲得するためだからといって、共産党が自民党との連立政権を推進するとすれば、それはまったく馬鹿げた政治的選択であり、政治的自殺行為に他ならないでしょう。それは、自民党の支持基盤を掘り崩すことになるどころか、逆に、共産党の支持基盤を掘り崩すことになるでしょう。
同じことは民主党についても言えます。私たちは、別に民主党支持者を階級敵だなどとみなしていません。そのような考えはナンセンスでしょう。民主党の一部にはもちろん、都市上層市民だけでなく、中層部分や下層部分の一部も投票しています。この中下層部分を民主党から引き離し、護憲・革新の陣営に獲得する必要があります。しかし、そのために必要なのは、民主党への批判を手控えたり、民主党にすりよることではなく、その本質を暴露し、民主党を追いつめてゆくような下からの大衆運動を構築し広げることです。そして、自分たちの支持者のみならず、民主党の支持者に対しても、民主党主導の政権が自民党主導の政権とくらべて「よりましな政権」になることはなく、自民党の新自由主義路線をいっそう徹底する政権になるだろうということを、倦まずたゆまず警告し、明らかにすることです。
4、綱領路線への批判は許されないのか
タケル同志は投稿の最後の部分で次のように述べています。
私は暫定連合政権論は、まさに綱領路線から来たものであって、「不破執行部」の「ソフト路線」に起因したものではないと考えます。ですから、「不破政権論」を批判するのであれば、綱領路線を批判すれば良いと思います。しかしそれはもう共産党員の立場ではないでしょう。
これは実に驚くべき意見です。これまで、綱領は何度となく改訂されています。その改訂の中には、これまで社会主義国としてきた国々をまだ社会主義ではなく、「社会主義をめざす国々」に変えるという根本的な改訂さえ含まれています。綱領路線への批判が「もう共産党員の立場ではない」のだとすれば、これまでの綱領の一部を否定して改訂した党中央は、もうすでに何年も前から「もう共産党員の立場ではない」ことになります。それともタケル同志は、党中央がやるのはいいが、一般党員がやるのは許せない、という考えの持ち主なのでしょうか。
綱領は生き物です。それは、情勢の変化や、認識の発展によって、当然、古臭くなったり、その誤りが明らかになったりすることはいくらでもあります。党員が、綱領路線のあれこれの部分に対して批判的意見を持ったからといって、どうして「もう共産党員の立場ではない」ということになるのでしょうか?
私たちは、当然のことながら、いくつかの点で、現在の綱領に対する批判を持っています。それは、すでにこれまでの『さざ波通信』各号の論文の中で部分的に述べられています。また同時に、規約についても多くの批判意見を持っています。綱領と規約を認めて入党したからといって、入党後に、多くのことを学び、またさまざまな情勢変化や闘争を経験して、異なった意見を持つようになることはいくらでもあります。もはやすでに共産党の存在意義を認められず、党員であることにいかなる意義を見出せなくなった人ならば、当然、党を辞めてしかるべきでしょう。しかし、そうでないかぎり、綱領路線に対するあれこれの批判意見は、党の綱領をより充実させ、発展させる契機になりこそすれ、「もう共産党員の立場ではない」などということにはならないはずです。
また、すでに私たちが何度も述べてきたように、現在の不破政権論は、綱領路線にもとづくものではなく、その反対に、綱領路線の否定にもとづくものです。現在の不破指導部は、これまで綱領路線にもとづいて構築されてきたさまざまな革新闘争の遺産を否定し、民主党のような反動的ブルジョア政党とさえ連立政権を組んでも問題ないかのような立場を展開しています。「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役立つ政府」どころか、「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を貫徹する政府」に入ろうとするのが、現在の不破政権論です。それは綱領の最も重要な根幹、その階級的基軸を破壊し、否定するものです。それは、「よりましな政府」が可能かどうかという水準をはるかに越えた、根本的な意味での綱領路線の否定です。
以上のことを確認した上で、今回の長い投稿を終わりたいと思います。
P・S 4月6日付の『しんぶん赤旗』に3月31日に行なわれた不破委員長の演説全文が掲載されています。これはなかなか興味深い中身でした。その中で不破委員長は、これまでよりも突っ込んだ形で、連合政権論について述べています。それを見ると、以前に比べれば、民主党に対する批判的スタンスが多少なりとも強調されています。これは一歩前進です。私たちは、この方向をいっそう強化するために、今後とも、不破政権論の誤りと、民主党の階級的本質について明らかにしていくつもりです。党を前進させる真の推進力は、党中央への無批判的な追随ではけっしてなく、自分の頭で考え、必要とあらば率直な批判をぶつけることです。党中央は常に正しく、中央を信じてさえいれば万事問題は解決すると、たとえ無意識的であれ考えているとしたら、それは、民主集中制の自己否定であり、党の発展に貢献するのではなく、逆に党を衰退させることになるでしょう。