こんにちは、フェイスです。
編集部や投稿者同志の意見を伺い、前に私が投稿文で書いた疑問「我々の敵は誰か?」についても様々な議論があることを知りました。私も何かちゃんとしたことを書きたいのですが、なにぶん時間の余裕がないもので、またも感想調での投稿とさせていただきます。
▽歴史的に変容してきた「支配」のあり方 ~近代・現代・そして今~
「アメリカ帝国主義と日本独占資本」なるものが単なる抽象的規定のままとどまれないのは、具体的な我々のくらしや人間関係に直接関わってく具体的な支配のあり方が時代と共に変容してきているからです。つまりここに「敵」である「帝国主義・独占資本」についての段階論が必要になると私は考えています。植民地争奪戦争以前を近代資本主義とするならば、アメリカを頂点とした南北の非公式な支配従属構造、先進国における相対的高賃金とケインズ政策を通じた国民的合意、日本においては会社まるがかえの社会構造や自民党の公共事業などを通じた産業的弱者への政治支配というのが現代的な支配体制でした。
こうした現代的支配体制は、欧米においては70年代後半から80年代にかけて、日本においては90年代に「構造転換」を迎えることになったのですが、その背景には「資本主義の全般的危機」ではなくて、資本蓄積のあり方の変化(いわゆるグローバリゼーションとか多国籍企業化とか言われる)
があるということがだんだんはっきりしてきました。日本ではここにきて日本的経営の解体が始まり、抜本的な労働市場の構造転換が進んでいます。今までのように「正社員」が社会の主流をなすというのでは済まなくなってきています。それに連動して、企業を通じた福祉供給から市場を通じた福祉供給への、偏差値型競争教育から早期選別型競争教育への、といった構造転換が着実に起きていることは、例えば日経新聞などを見ていれば一目瞭然です。産業的弱者保護の方も、90年代の政治改革をうけて抜本的に削減しうる体制に移行しつつあります。あわせて、平和の脅威としての支配体制のあり方も、アメリカの一元的軍事支配から日本も含めた世界資本主義強国の共同支配体制へ移行しつつあるようです。こうした新自由主義的・新帝国主義的政策体系は、編集部の指摘するような「「多数専制」型の議会制民主主義」のような政治支配や暴力装置と、日常的にはバラバラに分断された個人による競争秩序の内面化によって、対抗勢力が抑制される、というのが新しい支配の筋書きのようです。いずれにしても、改革論議は左翼からではなく、多国籍企業権力やその意志を体現する諸勢力から打ち出された、という事実の認識が左翼としてのオルタナティヴを考える上では重要なことです。
いずれにしろ、以上のような歴史的な大転換をうけて、我々の敵に関するイメージにも再検討がもとめられているのではないか、支配体制の新しい展開に対応する形で革新勢力の対抗の仕方を考え直すべき時期ではないかということが、わたしが訴えたかったことです。この点に関しては、もう少し勉強してからまた投稿します。
▽よりまし政権論を超えて
さて「さざ波」では総選挙を前に、「民主党と組むべきか」という議論が出ています。編集部の立場は、基本的に民主党は新自由主義政策と憲法改正を推進する勢力であり、階級的本質が財界支配層と都市上層階層にあるというもので、それに対する批判としては(全くかみ合わない観念論を捨象すると)そうした性格をもった政党も一致点を広げるべく働きかけ「よりまし政権」をつくるべきだという主張が出されています。どちらの議論にも一理あるなと思い私も注目してきました。
しかしこの議論は結局のところ、新しい支配体制の理解、つまり「敵」に関する理解の違いがあるため、お互いに説得力を持てないでいるというところではないでしょうか。民主党と組むべきだという議論の弱点は、支配体制についての理解が抽象的なため、単に編集部との議論にかみ合わないだけでなく、肝心の民主党と組むべきだという議論そのものが積極的な意味で成り立たないという点にあると思われます。つまり編集部の視角からすると、民主党は基本的に自民党と変わらないばかりか、社会保障や選挙制度などといった決定的に重要な政策領域について自民党よりもより「新保守主義」的性格の強い政党であるといえるわけです。私のいる領域でも、ご多分に漏れず新保守主義的改革としての「大学改革」、具体的には、小さな政府と選別的競争教育のための独立法人化、経済効率を研究の質にまで浸透させるような予算の権威的重点化と新しい管理体制の創造という改革が進められています。自民党は独立行政法人化を進めるに当たって、例えばあからさまな経済効率追求型をやや修正したようですが、しかしながら以上のような改革を大枠で進めていく中心的勢力であることに変わりはありません。ところが民主党はというと、更に過激に国立大学を基本線として民営化しろと言っている。社会保障も教育も民営化の政党だから、公共事業に代わりうる雇用対策を提起するとしても自己責任の教育投資論が精一杯でしょう。つまり民主党の行財政改革論は共産党のそれの対極にあるといえます。
それに対し民主党と組むべきだという議論は、自民党よりも民主党の方がいいという理由がはっきりしません。やや深読みすれば、反公共事業・反官僚・きれいな政治・財政再建といったような、比較的誰でもいえるような問題領域で「よりまし」な発言をする勢力と組んでとりあえず政権を担うべきだということだと思われます。裏を返せば、今日の「アメリカ帝国主義と日本独占資本」の支配に関わる基軸的な争点を回避しても、そこで対局にある政党と組んででも(「西と東が手を組んで」)政権入りしようという戦略です。となると、何となく既存世論の中でイメージのいい(?)民主党が出てくるのも分からないわけではありません。ただし、こういうアクロバティックな戦略がもし仮に議論の上で成り立つとしたら、「敵」の性格をしっかり理解すること、「敵」と政権入りすることの危険性の自覚はもとより、革新的オルタナティヴの実現のため、その後どのように「敵」と闘える運動と世論をつくりヘゲモニーを確保していくのか、という戦略が具体的に出てくる必要があります。しかし残念なことですが、以上のような「敵」に関する議論を曖昧にした形で執行部が「よりまし政権」論を出してきたのですから、そうした戦略が執行部にないのも当然です。前の投稿でも書きましたが、「とりあえずよりまし政権を」という発想は、歴史的に失敗が確認されているので、そろそろ払拭した方がいいと私は思います。
▽革新としての踏ん張りどころ
私はこれまで同志の方々が政権入りせずとも、革新政党としての責任をはたしてきたことに惹かれて入党しました。革新政党としての責任は、「アメリカ帝国主義と日本独占資本」の今日的支配とそれをめざす「敵」と闘い、そのための文化や世論を下から創っていき、その上で革新的オルタナティヴを実現するための政権をめざすことです。「敵」との対決が不明確になってしまっている今、すぐに国民の合意を勝ち取れないのは仕方のないことです。だからといって、今ある合意水準では、基本的な点で何も変わらないのですから、そんなことに労力をつぎ込み自己正当化するのは、不毛でリスキーなことです。リストラされるサラリーマン、不安定雇用の中で引きこもる青年、介護サービスを買えない高齢者など、いずれも立ち上がるべき人たちの多くが立ち上がっていないということを前提にして今の世論が成り立っている、ということを再度確認する必要があります。その上で、諸活動を通じて革新的文化や世論をつくっていくための社会変革戦略について、もっと生産的に知恵を出し合えないでしょうか。私は全然活動歴が短いので、そうした運動論を同志からもっと聞きたいと思います。