前回の投稿「消費税3%先送りについて」の書き出しが、わけのわからないものになってしまいました。消費税問題と6月8日付の朝日新聞の記事「有事の自衛隊による対応、国会開会式出席問題など」の両方について投稿をしようと思って書き始めたのですが、時間の都合で書けそうになくなって、消費税問題だけに限定することにしたために不細工なことになってしまいました。
消費税問題についてもうひとこと追加しますが、「消費税を3%に戻すことを先送りする」理由は、財政赤字が莫大なものとなったことのほか、与党・政府税調などの動きから総選挙後に消費税増税がたくらまれており、「3%に戻すことは当面の争点とならない」ということだそうです。いままで、日本共産党は「景気回復のためには冷え切った消費を拡大しなければならない」として「そのために消費税を3%に戻す」ことを主張していたと私は理解しています。私にはそうは思えませんでしたが、「3%に戻すことが景気回復のカギ」であるといわんばかりの印象さえ私は受けていました。政策的な一貫性はいったいどこにあるのでしょうか。さらに、党幹部が「消費税3%減税」先送りを決めるに際して用いた論理は、消費税が8%とか10%とかに引き上げられて、財政赤字がさらにひどくなったとき、またまた、引き上げられた消費税を追認することになりはしないか、という人々の不信感に、反論、説得できるものは何一つありません。
6月8日の朝日新聞の記事は以下の見出しで始まります。
共産・不破委員長
「有事は当面自衛隊対応」
政権担当能力示す狙い
この記事は非常に衝撃的な記事だったような気がします。「さざ波」のバナーで「糾弾される」対象として党の最高幹部の発言が登場したのは始めてのような気がしますが、その衝撃の大きさを物語っているのではないでしょうか。
最初に確認しておきたいことは、一般新聞の記事と党機関紙で表明される公式見解との間に、微妙なズレがあることがめずらしくありません。同じ文章でも読み手によっていろいろな受け止め方があるでしょうから、「朝日新聞」の記事が党の公式見解であるかどうかがわかるまでには、少し時間が必要でしょう。ただし、朝日新聞の報道を前提として、私はこの投稿を書きます。もし、この記事が党の公式見解と異なる場合には、「朝日新聞」が何の根拠もなくこういう記事を掲載することは考えられませんから、党はこの記事が掲載されることとなった事情を詳細に公表してくれることを期待しています。
記事は、5つの段落から成っています。
<第1・2段落>
共産党の不破哲三委員長は七日までに、同党が将来政権入りした場合、当面は自衛隊を存続させ、有事の際には「自衛隊を使っても構わない」と語り、自衛隊解散を求める党の綱領に短期的にはこだわらない姿勢を示した。天皇が「お言葉」を述べる国会の開会式を欠席してきた党の方針についても「(共産党が加わる)暫定政権の協議事項だ」と述べ、出席を検討する考えを示した。朝日新聞記者とのインタビューで語った。森喜朗首相が「国体」発言の中で共産党の綱領を批判したことに反論するとともに、政権担当能力を強調する狙いがあるとみられる。 共産党は綱領の中で、自衛隊の解散要求のほか、日米安保条約の廃棄、君主制の廃止などを掲げている。
中心的な内容は「自衛隊の存続」を容認し「有事の自衛隊の出動」を肯定するというものです。不破氏のこの新しい提案が日本国憲法とどのような関連をもつのかについて、不破氏の見解が述べられているわけでありませんが、日本共産党は日本国憲法の(民主的平和的条項の)「擁護」を明らかにしていますから、憲法9条とは矛盾しないということなのでしょう。そうすると、伝統的な自民党の解釈改憲とどれほどの違いがあるのか、ということになります。
日本共産党が「自動参戦法」として反対した新ガイドライン法に対する対応も述べられていませんから、おそらくは何らかの留保をつけることになるのでしょうが、それがどのうな内容であれ、「有事の自衛隊の出動」もっといえば「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を肯定することが、どのようにして日本国憲法と両立しうるのか、不破氏は説明しなければなりません。
アメリカ帝国主義のアジア戦略に深く組み込まれている現状からすれば、当面、起こりうる「有事」は本質的には侵略的なものとなるでしょう。侵略する側においてさえ、武力行使にあたっては何らかの「もっともらしい理由」がつくものです。ベトナム戦争における北爆の開始にあたってのトンキン湾事件然り、かつての中国侵略にあたっての日本軍の謀略事件など然りです。
たとえば、発展途上国に在住する邦人が人質になるとか、テロにあうとかといった事態にが起きて、国内に「自衛隊派兵」の主張が広がったときに、日本共産党が参加する政府の指揮の下に自衛隊が海外へ派遣されるという事態は、それほど現実からかけ離れた妄想とはいえないでしょう。発展途上国の民衆は情勢によってはやむなく武器をとって闘いを展開することもあるでしょう。「いつの時代もどんな国でも社会の変革は常に選挙と議会を通じて」という論理は、発達した資本主義国の側から見た偏見に過ぎません。
ラテンアメリカ、アジア、アフリカの民衆の目には、発達した資本主義が自由貿易、公正な資本取り引き、商取り引きの外形を装いながら、発展途上国や旧社会主義国から富の収奪をしているように映るでしょう。発達した資本主義国である日本も例外ではありません。これらの国々に在住する日本人が、現地の民衆の生活とは格段の差がある優雅な生活をしていることもめずらしくなく、彼らの怨嗟の的となることもあるでしょう。このようなときに、海外派兵を求める世論が彷彿としたときに、アジアの民衆と銃を向けあうような事態が起きたときに、どうやってアジアの民衆と連帯する道が開けるのでしょうか。
軍隊は一般に、警察とともに自国の人民抑圧の中心的な機構でもあります。支配階級と人民の非和解的な矛盾が激化したときに、無慈悲な武力弾圧がくり広げられるということも歴史的事実です。
少し横道にそれますが、不破氏に1つの引用を贈ります。
…たとえ、議会内部に強力な共産党議員団や統一戦線勢力が存在したとしても、それだけ議会の階級性が割引きされるわけではない。 革命運動の前進の過程で、議会を革命の道具に転化させる可能性が存在するとしても、それは、あくまで転化の可能性であって、その転化がたたかいとられる以前の現実の議会が、資本主義国家の有機的構成部分であり、ブルジョアジーの政治支配の道具であるという、事態の本質には少しもかわりがない。ましてや、国家行政の実権を握る軍事的=官僚的機構にかんしては、どんなに民主主義を拡大しても、革命的変革による以外にこれを人民の道具にかえることはできないのである。(不破哲三「国家独占資本主義における修正主義――井汲・今井理論批判」1963年3月号4月号『前衛』)
私は、長期的な、いわば戦略的な問題とさし迫った総選挙における当面の問題を混同しているわけではありません。不破氏が雑誌『経済』でながながと展開しているレーニン批判は、いわば理論的な分野、長期的な展望、戦略的な分野における「変更」であり、これと昨今の「政策的な変更」とが軌を同じくしていると思うから、あえて、この引用をしました。自民党にしろ、共産党にしろ、個々の具体的な政策や対応が長期的な戦略、総路線から離れて出てくるものではありません。(私は上記の引用を無条件に肯定しているのではありませんが、この投稿では私個人の注釈を特につけません。)
<第3段落> 不破氏は、自衛隊の解散の目標は掲げ続けるものの「廃止しても大丈夫だとみんなが思うには、相当な体験がいる。台湾海峡や朝鮮半島問題が解決され、アジアに平和秩序が築かれる中で世論は変わる」と述べ、あくまでも長期的な課題だとの認識を示した。
自民党・支配階級との厳しい対決点となるようなことがらについては、すべて、「将来の国民の選択」にゆだねるという手法がつらぬかれていますが、この点に関しては、「おっとり刀同志の批判に答えます 2000/6/8 編集部S・ T」のまん中あたりの「この文章には、ある典型的な誤解、改良主義に特徴的な誤解が示されているようです。…」が説得力のある批判を展開していますので、私があらためて拙文を長くする必要はないと思います。
注目したいのは、「相当な体験がいる。…あくまでも長期的な課題だ」ということです。「自衛隊の容認・有事の自衛隊出動」が「長期にわたって」続くということを展望して、この政策的な変更が提起されていることです。どうしてこれが、「選挙管理内閣」や「暫定政権」をめぐる緊急避難的なものといえるのでしょうか。
<第4段落> 同党が国会の開会式を欠席していることについて「天皇の存在を認めないからではない。開会式で天皇が言葉を述べるのは国事行為ではなく、戦前の遺制だ。こういう点で疑義がある」と説明。同時に「暫定政権をつくったとき、その疑義がどこへ落ち著くか、それは協議事項だ」として、政権の合意に沿って柔軟に対応する考えを示した。
ここで論じられているのは、実は天皇制や天皇の国事行為ではありません。不破氏が最も言いたいことは、政権に参加したとき、すなわち共産党員閣僚が誕生したときに、皇居で行われる認証式をどのようにクリアするかという問題に他なりません。その布石として天皇の臨席する開会式への出欠が提起されています。このことを念頭に置いて、「日の丸・君が代」問題を考えてみてください。最近、このサイトを見るようになった方は、ぜひ問題別討論欄の一番下(欄外にあるように見えます)をご覧ください。大衆討論の1つの成果を典型的に示すような、情報の提供や多面的な討論があります。ただ、ひとつこの討論欄に欠けていたものがありますが、それは、なぜ日本共産党が「日の丸・君が代」の法制化を提起したか?」ということです。私も他の掲示板(JCP)の炯眼な方の投稿で教えられたのですが、「決して日本共産党中央幹部の勇み足だったのではなく、政権参加の布石だった」(要旨)という見方です。たとえ日本共産党員であったとしても、国務大臣が、たとえば、外交の場で「国旗・国歌」を否定することができるでしょうか。このとき、「法律で決まれば政府が公式の場で国旗国歌を扱うことには反対しない。ただし、教育現場への押しつけには断固反対する」(要旨)と日本共産党は主張しました。「ただし、……」は、考えてみれば、教育現場で民主主義教育、平和教育に取り組む教育労働者へのある意味で「最大限の配慮」だったのでしょう。
<第5段落> 総選挙後の政局への対応については「与党が過半数割れする状態が生まれたら野党は政権協議をする責任がある」と指摘。「我々のプランを無理やり押しつける態度はとらない」と語った。(2000年6月8日朝日新聞朝刊より)
「我々のプランを無理やり押しつける態度はとらない」ということは、必ずしも「無原則な追随、無原則な妥協」を意味しないことを願っています。そして、願わくば、私が引用した朝日新聞の記事が誤報であることを期待しています。
党の幹部は「一番無責任なのは「共産党」だということが今回よくわかりました 」(「消費税3%引き下げ公約撤回に幻滅2000/6/9無党派30代会社員」より)という投稿などを真剣に受け止めなければなりません。「消費税3%引き下げ公約撤回」「自衛隊容認・有事の自衛隊出動」など、重大な政策的変更が、資本家からは「90%まで同感」という幹部にとっては心地よいかもしれないシンパシーをえられると同時に、日本共産党のもっとも貴重な党支持者の失望をもかう、平和と民主主義を願う良心的な人々の失望をもかう、ということを、いまだ日本共産党の一員であり続ける私を含めて、すべての同志がわすれないことを希望します。同時に、いまだ日本共産党員であり続けることを嘲笑をするような投稿がありましたが、私は、朝日新聞の記事が事実であったとして、日本共産党員がこぞってこの不破発言を肯定するものではないことを確信しています。