現実の生産の場=資本主義的生産過程、すなわち労働過程と価値増殖過程における労働主体の、社会的剰余の生産と差別・抑圧・収奪・人格の被制限性への攻撃等、あまりにも現実的に明瞭であり、又「私的所有」の法的形式性と労働主体の生産の<場>での実質的占有、といった事実に照らし合わせてみれば、資本主義的所有と生産の有効性の喪失(銀行・ゼネコン等への「公的資金」の大量投下!)は、ただちに社会意識に、社会システム転換を形成させずにいられない。
この様な客観状況下で社会形成論としての社会主義Assoziationは何ら神秘的でなく、すぐれて現実的実践性を持つものとして登場する。次に「マスゲー」であるが、「スペインのモンドラゴンやイタリアのレガを真似」た労務者協同組合=センター事業団=日本労働者協同組合連合会なる代物、であるが指摘するように「バラ色の生産協同組合」に対立する物象的・資本制的吻合物でしかあり得ず、検討にも値しない「モノ」でしかない。(そういった意味において、あの「日本生協連」以下である!)
「大阪いずみ市民生協」であれ、「民医連」であれ、「民主経営」であろうと次元的には、資本主義企業レヴェル或いは、それ以下の、諸個人に敵対する自己疎外的物象組織である、と。「新日和見主義」事件はいざ知らず、現代企業社会の創造的粉砕=資本主義的労働過程からの離脱、とアソエイショナリズムな諸個人の行動の現実的可能性の理論的把握、だと言える。既存の生産過程=流通過程に「対抗」する、あらたな<生産と消費の空間>を構築するとは、なんら「バラ色」的でも、いわゆる自閉的「協同主義」でもなく、それ自体がいわば、現実の社会から出発した、派生しているサブシステム的副産物である。
PS:「雑草」氏へ。 「生活」協同組合、ではなくマルクス的な「生産協同組合」つまり、<生産>する諸個人のアソシエーションである、と簡潔に述べておく。