今ふたたび、社会主義である。まず、前提としてマルクスの社会主義について論じる事とするが、マルクスにあってはそれが「ひとつのアソシエーション」「自律的個別性にあって、個別者でない社会的諸個人の個体的所有」「アソシエイトした知性」の社会システムである、ということである。
不断に商品生産と<資本関係>を生まないではいられない市場関係の理論的把握から導きだされるのは、市場経済があってはじめて存在する社会主義、なるものはナンセンスだということだ。つまり、商品生産によって支えられる、賃労働が行なわれる社会主義など「ソ連・東欧・中国」を引き合いに出すまでもなく資本主義のそれである、ということあって、一部の論調の如き「巨大な社会的生産をどうして市場亡き社会によってできるのか?」といったものは、マルクスの市場把握、つまり資本主義把握を知らない、と言わざるを得ない。
社会主義とは、すぐれて自己認識と人間知の被制限性の問題である。まさに自己の認識と人格が資本主義の枠のなかで、自己陶冶され、社会の認識となる(主客同一論)現実的可能性を確認することだ。人間知を、実証主義の様に初めから形式推論と知的視野狭窄の「実証できるもの」に限定することはない、むしろ合理的観点からも、直接知の枠内のそとに、認識できるものの外部に存在する事柄を承認する、これこそがマルクスの唯物論的視角である。