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党員用討論欄

新日和見主義問題によせて

2000/8/28 川上慎一、50代

【『虚構』の出版】
 『虚構』(油井喜夫著・社会評論社刊)が出版されました。著者は既刊の『汚名』の続編として位置づけています。内容的には、当時、党中央が展開した新日和見主義批判に対して理論的な検討を試みたものです。
 当時、しばしば「赤旗」を中心とする党機関紙や出版物でさかんに新日和見主義批判が行なわれたのですが、これらの「批判の手法」には非常に特徴的なものがありました。ふつう批判というものは、出典や著者を明らかにして行なうものですが、これらの批判には「誰が、どこで」そういうことを述べているのか、ということがほとんど書いてありませんでした。それは、おそらく「批判の対象となった人たち」の多くがその後も党にとどまり、中央の指示に服する意思を表明したことがその背景にあったのだろうということですが、事件の圏外にいた私にとっては、不思議な感じがしたものでした。
 著者(油井氏)は、これらの中央が行なった「新日和見主義批判」の対象となった著作、論文等を丹念に調べ上げて、これに対する反批判を試みています。当時、批判の対象となった「新日和見主義」の「理論」として、多少とも私に思い当たる節があったのは学生運動に関する部分だけでした。たとえば、「大学=民主主義の砦論」があります。これは、当時、学生運動に参加していた私たちがスローガンとしてしばしば使いました。しかし、このスローガンが、社会全体の変革の進行と無関係に大学だけが民主主義の砦になるとか、社会変革のための拠点になるとかというスローガンとして掲げたわけではありませんでした。同時代に学生運動に参加していた私にとっては、小林氏の批判は「ねじ曲げ、こじつけ」という印象が強く、いかにも水準の低いものであったという印象がありました。
 論争や討論をする場合には、何よりも事実に基づいて、それなりの「公正さ」が求められるものですが、小林氏の例に限らず、このときの党中央による批判にはこれらが欠けていました。「新日和見主義」事件には当時の最高指導者であった宮本氏の個性が色濃く反映しているのですが、「事実に忠実である」、「真実を恐れない」という点では、宮本氏が退陣し、不破氏が最高指導者となった今日でも、少なくとも「新日和見主義事件」に対する日本共産党の対応には批判されざるを得ない弱点が残っています。
 先の総選挙で大量にまかれた「謀略ビラ」で「査問」が取り上げられたようです。これにたいする日本共産党の反論は「日本共産党には査問という制度はない」というものでした。これはその通りであって、規約上にそういう「制度」はありません。しかし、実際は、党内に潜り込んだスパイの摘発などでは、「査問」と称して「調査」をしていたし、「新日和見主義」事件においても、党幹部の「規律違反」などのときも「査問」が行なわれていました。これらを査問と称するか調査と称するかの問題ではなく、「査問」という言葉で表現される事実があり、「査問にかける」という表現だけで「何らかの規律違反があった」という事実を容易に連想できたものでした。したがって、「査問という制度はない」と反論する党中央は「嘘」を言ってはいないにしても、「真実を述べていない」ということになります。
 私は、日本共産党に限らず、組織や団体がそれぞれの内部規律を持つことに異議を唱えているのではありません。「科学的社会主義」(=「科学的社会主義は、社会発展の法則を解明したものであり、人類の科学的成果を総括してマルクスとエンゲルスがうちたて、レーニンが発展させ、世界史的に正しさが実証されているとともに、革命運動、民主主義運動によって不断に進歩、発展する科学的学説である。しかも、マルクス、エンゲルス、レーニンらの学説を教条とするものではない。」)(日本共産党規約前文より)を掲げる政党の内部規律は、「民主集中制」という言葉で概括されますが、「民主集中制」についての日本共産党の理解、実践は、レーニンの指導した時代のものとは異なり、スターリン的な歪曲を受けたものであること、しかも、時代に応じて可変的なものであること、が私の主張の中心的な内容です。さらに、当時の党中央の「事件」に対する対応は「分派を禁止」する日本共産党規約に照らしても、とうてい分派といえる体裁を持ってはいないものに対して行なわれたわけですから、正当化しがたいものがあったと思います。「謀略ビラ」に有効に反論するためには、日本共産党の側にあった「誤り」を率直に認める自己批判をして、関連した人々の名誉を回復することです。

【プロレタリア独裁について】
 油井氏は同書の「終章 党改革はいかに」の中で提言をしています。ごく大雑把にいうと、油井氏においては「民主集中制、暴力革命、プロレタリア独裁」のうちで、暴力革命とプロレタリア独裁については、不破氏の近年の「レーニン批判」などで示された立場をおおむね肯定的に扱っていますが、「民主集中制」については依然として旧来の立場から何の変更もないという批判をしている、というように、少なくとも私には読めました。
 理論上の問題として、「マルクスとエンゲルスがうちたて、レーニンが発展させ」た理論的立場からすれば、革命とは優れて権力問題であり核心は「プロレタリア独裁」です。西ヨーロッパや旧社会主義国の多くの「マルクス主義」政党がこれを放棄したとしても、また、それがいかに「世界の趨勢」であったとしても、プロレタリア独裁を放棄すべきか否かは、あらためて理論的考察、歴史的な考証を抜きにしてはできません。
 歴史上、近現代史に限らず、「革命」といえるような大変革──政治革命に続いて、経済的社会的諸制度の変革も含めた大変革が、「なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力」なくして成し遂げられた例を私は知りません。
 第2次世界大戦後の世界史的な経験、中国革命、キューバ革命、ベトナム革命(独立戦争)は、いずれも革命というにふさわしい大変革でした。これらの革命については、いずれも民主主義的が未成熟な地域で、帝国主義による過酷な支配が貫徹された特殊な状況における革命の形態であったとする見解もありうるでしょう。また、発達した議会制度を持っていたチリのアジエンデ政権の経験、300万(?)の党員数を誇った共産党が存在したインドネシアの経験もあります。これらは革命が成功しなかった例です。プロレタリア独裁について論じるとき、より正確にいえば、プロレタリア独裁を放棄すべきであるという結論を出すならば、これらの世界史的経験の実証的研究が伴わなければならないと思います。
 結論としては、プロレタリア独裁の放棄を日本共産党指導部に要求するような圧力に迎合する感のある論調には、私は同意しかねるというものです。もちろん油井氏は、それほどはっきりと「プロレタリア独裁の放棄」を要求しているわけではありませんので、読者のみなさんは直接『虚構』をお読みになって判断されるべきでしょう。私が言いたいことは、「新日和見主義に対する党中央の対応」は、決してプロレタリア独裁から不可分に出てきたものではないだろうということです。
 スターリン主義の清算が進みつつある中で、日本共産党指導部がスターリン主義的歪曲の著しい「民主集中制」だけはかたくなに変更しようとしないで、これを温存しています。不破氏とスターリン主義の間では、およそ政治路線上で共通するところがあるとは思えません。
 スターリン主義的歪曲を受けた「民主集中制」なるものが、党内民主主義を破壊し、ソ連共産党の変質を可能にし、ノーメンクラツーラの温床となり、やがてソ連の崩壊へと導いた極めて重要な契機の1つとなったというのが私の理解ですが、同じように、現在の日本共産党についても、当然のこととして有害な作用をしています。

【「新日和見主義事件」の背景とその後】
 「新日和見主義」事件に連座した人たちの多くは60年代の前半の青年運動、学生運動のリーダー的な存在でした。これらの人々は個性的で、紛れもなく有能な人たちが多かったのだろうと思います。これらの人々が党活動や青年運動の第一線から排除されたわけですから、特に、民青同盟がこうむったダメージは大きかったに違いありません。しかし、このことが今日の民青同盟の凋落と無関係であるとはいいませんが、これらの人的な断絶が凋落の主要な原因であるとは私は思いません。
 「新日和見主義」といわれた人たちは党の総路線から離れた特定の政治的主張(政綱)を持っていたわけではないし、とても分派といえるような存在でもなかったわけですから、その主張を特定することはできません。ただし、あえて、新日和見主義といわれた人たちの特徴的な傾向を、俗っぽい表現でいえば、「拡大と選挙だけではなく、もっともっと大衆運動、大衆闘争をやろう」ということとか、「上級機関や党機関からいわれたことをそのままやるのではなく、多少とも自分たちの頭で考える」という傾向が強い人たちであったという程度のことです。油井氏の『虚構』を読んでも、川上徹氏の『査問』を読んでもその程度のことであり、同時代を過ごした私の実感から言ってもそれ以上のものはありません。「新日和見主義事件」の発端となった民青同盟の年齢制限問題もせいぜいこの程度のことでした。
 その程度のことだけで、あのような大々的な組織的処分が行なわれることはあり得ないだろう、と党外の方や若い党員の方は思われるかもしれませんが、それ以上のことはありません。しかし、そのことは当時の宮本指導部にとって、実は宮本氏の路線に対する最も許し難い批判となる可能性があることでした。その宮本氏の路線とは「計画的な党勢拡大」路線でした。この路線は、簡単にいえば、大会ごとに党員数や機関紙数の拡大目標を決めて、さらに、期間を細分化して党員や機関紙の拡大をするという路線です。これは、革命運動の中で一時的に拡大運動を組織するというものではなく、継続的にそういう運動をするということです。階級闘争の中で、計画的に党勢を拡大するというおそろしく非弁証法的な発想だったのですが、一定の条件のもとではそういう運動が可能な時期があります。実際、この運動によって党勢が成長していきました。より正確にいえば「この運動によって党勢が成長していったように見えた」ということでしょうが。
 もちろん当時でも、党活動の基本は「党勢拡大と大衆闘争」の二本足の活動として定式化されていましたし、大衆闘争が発展する社会的な情勢もあって、大衆闘争も発展しそれに伴って党勢も拡大していきました。ただし、実践的に、党機関からの指導は「党勢拡大」、「選挙」以外にはまずありませんでした。私たち基礎組織の党員にとって「拡大一本槍」の指導は耐え難いものでしたから、これを党の会議などで批判をするのですが、そのときにも「拡大はしないといけないと思うが、……」という枕詞をつけなければならない状態でした。相手がある階級闘争の中で、「計画的に党勢を拡大するという路線はおかしい」などという原理的な批判は、「実際に党勢拡大が成功している」という一言で片づけられて、これが通用するような時代ではありませんでした。
 党勢が拡大する一定の条件がなくなったときには、このような計画的党勢拡大路線はやがてその反対物に転化していきます。60年安保闘争の中で広がった党組織に破壊的な影響を及ぼしていきます。特に攻撃の厳しい経営(工場や企業における)支部は深刻な破壊的影響を受けていきました。日本共産党は働く労働者大衆の階級的な利益を守る限りにおいて、大衆的な擁護を受けられるのであって、党独自の課題である党勢拡大にのみ奔走するような党は、結局のところ大衆的な結びつきをみずから断ち切り、大衆から遊離することになります。党がこのような存在になったとき、資本家や権力から攻撃されればひとたまりもありません。大衆はもはや党を守ってくれません。「新日和見主義事件」が起きた当時の時代背景として、このような状況を見落とすことはできません。
 この事件が起きるいくらか前には、「決意申請」とか「未固定紙」という言葉がはやりました。おそらく、JDさんのような若い党員の方はご存じないと思いますが、「決意申請」とは党の会議で拡大をする前に、「○○部拡大する決意です」といって、中央に拡大部数として申請することです。「未固定紙」というのは、購読を断ってきた読者がいれば減紙をするのですが、これを中央には減紙申請をしないで、紙代(購読料)を支部が負担することです。もとよりこのようなやり方を中央は公式には批判しましたが、実際にはなかなかなくなりませんでした。
 そういう事情ですから、基礎組織の中にはまるごと壊滅するところもあり、活動に参加しない党員も増加し、拡大に対する「厭戦気分」もかなり一般化しつつありました。それでもなお党勢が劇的な後退を避けられたのは、60年代後半から全国的に展開された大学闘争や70年安保の闘いなどがあったからだと思いますが、基礎組織における拡大への「厭戦気分」が氷解することはありませんでした。こういう時代に、「拡大と選挙だけではなく、もっともっと大衆運動、大衆闘争をやろう」ということとか、「上級機関や党機関からいわれたことをそのままやるのではなく、多少とも自分たちの頭で考える」という傾向が広がれば、中央が指導する「計画的拡大」路線が破綻するのは、時間の問題ということになります。ここに宮本氏のおどろくべき嗅覚を見いだすのですが、それこそ、それがいかに「星雲状態」であったとしても、「双葉の内につみとらなければならない」芽を見いだしたのでしょう。宮本氏にとっては許すべからざる事態でした。
 すでに「計画的な党勢拡大」が可能な情勢ではなくなったにもかかわらず、「実際に党が大きくなった」という経験的な事実だけを根拠として、あいも変わらず「計画的な党勢拡大」を進めようとした宮本氏と彼が指導する党中央の路線上で「新日和見主義事件」が起きたと私は考えています。
 「新日和見主義事件」で対象となった人たちの間に特に党の政治路線と異なる立場がなかったということは、当時の党中央の政治方針、政策上の路線が全体としてはほぼ全党的な支持を得ていたということにほかなりません。私自身にしても、部分的には異論もありますが、基本的な点では当時の政治路線について大筋において異論はありません。
 事件について被査問者の側から公刊されたものは、川上徹氏の『査問』と油井氏の『汚名』、『虚構』の3冊しかありません。これらを読む限りでは、彼らの中に「計画的な党勢拡大」に対する批判的な視点はみつかりませんが、事件から30年近く経過した今日の時点からみて、誤解を恐れず単純化すれば、この事件の本質は「計画的な党勢拡大」路線に対する「大衆闘争を重視しようとする」若い党員の抵抗であったといえるだろうと私は思います。そして、基礎組織のおかれていた状況からいえば、これらの若い党員たちの「傾向」の方こそ革命的立場に近いものであったと思います。
 「新日和見主義事件」は2つの意味でエポックメーキングなできごとでした。1つは、その後の民青同盟の驚くべき衰退に象徴される大衆闘争など、選挙を除く全戦線にわたる後退です。1970年頃から、経済的には帝国主義的実力を備えるようになった日本独占資本がもたらす海外から収奪した富が日本社会のかなり底辺にまで行き渡るようになり、社会全体は相対的に安定期に入り、労働者とりわけ組織労働者の戦闘性も後退していきます。日本の民主勢力あるいは革新勢力といってもいいが、これら勢力の後退についてその背景を考えることなしには何も語ることはできませんが、主体的条件としては、日本共産党が大衆闘争を重視しようとする傾向を組織的に排除したことを無視することはできません。党中央の対応は、「新日和見主義事件」に連座した党員を組織的に排除したのみならず、もはや現実の運動を進める上では桎梏と化した「計画的な党勢拡大」路線をなお押しつけることによって、党の基礎組織が周りの民衆と生き生きと結びついて活動する「傾向」そのものを摘み取ることになった、といっても言い過ぎではないでしょう。
 グスコーブドリさんの投稿にもありましたが、現在の支部では「配達と集金」というルーチンワークで手が一杯で他にはほとんど何もできない、という実態があります。政党の基礎組織の本来の存在形態は広い意味での闘いです。ある時は、職場、地域、学園の課題に基づいて、またある時は重要な政治的課題に基づいて闘うことこそがその存在形態です。闘わなければ1人去り、2人去りとしだいに消滅していくことは当たり前のことです。組織構成に年齢制限がある民青同盟の場合には、「高齢化」はすなわち「組織人員の減少」をストレートに意味しますから、常に社会の若い層からの加入者がなければ組織的に後退していくことは避けられません。そして、何よりも私が強調したいことは「民青同盟の今日は日本共産党の明日」だということです。
 党活動も民衆の運動もいくつかの部分的な改良に解消し、議会の中に閉じこめようとする傾向が顕著となるきっかけとなったのが、この事件であったといえないでしょうか。日本共産党の「立ち枯れ」状態の始点をこの時点に求めることができるかもしれません。
 2つ目は政策や政治方針の変更の出発点ともいうべきことがほぼ同時期に起きているということです。
 1971年に「暴力→強力」、「独裁→執権」という用語を変更し、1973年の第12回党大会で綱領の「独裁」という用語を「執権」にあらため、1976年の第13回臨時党大会で「執権」の用語そのものを削除しています。これらの変更を油井氏は『虚構』で、さながら用語「革命」の感を呈した、と表現しています。不破氏のレーニン批判はこれらの延長線上で出てきているものであり、決して不破氏の独創ではないでしょう。
 私や若干の党員の方が、「さざ波」上で批判してきた同意できない政策、たとえば、日の丸君が代問題、暫定政権構想、自衛隊の有事対応、消費税3%に戻すことの先送り、「皇太后」への弔辞問題などをみると、宮本氏の退陣後にその傾向が非常に顕著になってきていますから、これらの政策的変更は不破・志位指導部によって加速されたとはいえるでしょうが、1970年代の相当早い時期にその萌芽をみることができます。もちろん、宮本氏が健在であれば「皇太后」への弔辞に賛成することだけはなかったと思いますが、そのほかはだいたい似たようなことが行なわれたでしょう。
 これらの同意しがたい政策的な変更は、社会の革命的変革を目指すのではなく、党活動も民衆の運動も部分的な改良に限定し、議会主義路線の枠内にとどめようとするもの、と特徴づけることができそうです。

 最後になりましたが、しばらく前に澄空さんから投稿の中で連帯の言葉をいただきました。ありがとうございました。私も澄空さんの投稿をいつも楽しみに拝読しています。かつて、タケルさんとの討論の中で、人民戦線、統一戦線戦術についてのやりとりがありましたが、ご記憶でしょうか。実は私はこのとき、この討論がもう少し続くことを期待していました。たぶん澄空さんに時間的なゆとりがなかったのだと思いますが、私が期待したところまでは進まないで終わってしまいました。発達した資本主義国における革命路線として次第に定着していった統一戦線理論、「モスクワ声明」で定式化された路線「発達した資本主義国における議会を通じた革命、権力の平和的移行」の可能性を模索する路線は、第2次世界大戦のころの人民戦線や反ファシズム統一戦線の経験と深い関係があると思うのですが、全人民的な緊急の課題についての統一戦線の必要性を否定することはできませんが、その役割や可能性を考えると、「発達した資本主義国における革命の総路線」として定着させることが可能だろうか、ということについてはあらためて検討する必要があるような感じがしています。これらのことについて、機会があればぜひ投稿してください。