川上さんの最新の投稿(8月28日)は非常に刺激的でした。油井氏の『虚構』の書評の形をとりながら、その批判ともなっており、油井氏には分析できなかった党の路線の誤りを鋭くついていると思います。川上さんの提起もあることですし、関連する論点(「プロレタリア独裁」と「統一戦線論」)を少しばかり検討したいと思います。
プロレタリア独裁の概念
私がこれまで読んだ範囲では、マルクス本人のものも含めて、「プロレタリア独裁」が何であるかについて納得できるものはありませんでした。パリコンミューンもそうですが、その後の革命の経験に照らして、さまざまな解釈・説明が生まれたことがその要因ともなっているのでしょうか。大切なことは「プロレタリア独裁」の概念を明確に確立することではなくて、その本質的な部分、被抑圧者の闘いにとってどのような革命の思想・戦略・方法などが有効なのかということでしょう。
いずれにしてもさまざまな解釈がある概念である以上、それを擁護するにせよ切り捨てるにせよ、自明の概念として議論すると混乱するのではないでしょうか。いったいどのような解釈があり、これまでどのような論争があったのか、概略をまとめた文献でもあれば、議論に役立つと思うのですが、なかなかそういうものにもめぐりあいません。
以上を前置きとして、先進国における「議会を通じた革命」という「モスクワ声明」(57年)以来の先進国の革命路線について検討の余地があるとする川上さんの問題に意識にそって考えてみます。
綱領路線が間違いだとはいえない
川上さんが投稿で述べているように、マルクスがその著作などで使用している用語「労働者階級による権力獲得」と「プロレタリア独裁」とは、おそらく別ものであることは間違いないでしょう。しかし、たとえば「プロレタリア独裁」が日本共産党の綱領からなくなったことと、「議会を通じた革命」とが直接結びついているものとも思われません。
綱領確定時に宮本顕治は革命とは権力の問題であると何度も力説しています。「議会を通じた革命」によって獲得した権力を「プロレタリア独裁」と呼んだっていっこうにかまわないわけです。もっとも実際にそのような革命がありえたとしての話ですが。
また「パリコンミューン」や「ソヴィエト」をみて、それが当時の歴史的条件にみあった統治形態であり、「プロレタリア独裁」とはそれらの経験と不可分であるから、現代ではあまり有効といえないという議論があってもかまわないと思っています。実際に、現代で革命があるとすれば違った形態がありうるし、むしろ違っていなければならないのですから。
あるいは、それらが権力として確立する過程だけをみて、「プロレタリア独裁」は暴力に依拠する権力獲得のことだと解釈した上で、平和的な権力獲得もあるじゃないか、マルクスだって平和的な権力移行の可能性を追求したではないか、という不破氏の理論のようなものがあってもそれはそれで結構なことです。間違っているわけではありませんから。
ただし、これら日本共産党やその周辺でなされた議論には、なくてはならない視点が欠けているのではないでしょうか。平和的な権力獲得をめざすと力説したい気持ちはわかりますし、「独裁」という言葉が悪いイメージがあって誤解をまねくから使いたくないという気持ちもわかります。しかし、それによって「プロレタリア独裁」という用語をめぐってなされてきた議論の本質を見失ってはいないでしょうか、というのが私の問題意識です。それは、用語として「プロレタリア独裁」を復活させることによって解決するものではないと思います。
なくてはならない視点
現代日本においては、これまでの革命とは違った権力形態・権力移行をめざすのは当然だし、その際に権力の平和的移行を追求するのも当然です。「議会を通じた革命」も理論的可能性としてはありえます。
私たちが「パリコンミューン」や「ソヴィエト」やドイツ革命(ワイマール政権)やスペイン・フランスの人民線戦や中国革命やユーゴスラビア革命、アジア・アフリカの独立闘争、キューバ革命、ベトナム革命(戦争)、チリ人民連合、ブラックパワー、スチューデントパワーなどなど・・・について研究したり理解したりしようとするのは、やはりその中から、被抑圧者の権力を求める闘争に生かすべき何かを学び、実際の闘争に生かすためでしょう。
これらの成功ないし失敗した革命の経験をみてると、「議会を通じた革命」をするにしても、旧体制の権力機関とは違った被抑圧者の独自の権力機関を創造する必要があるのではないかと、なんとなく感じています。革命を遂行した人民は、いずれもさまざまな形態で、旧体制の中で新たな権力機関を創造しています。新たな権力機関は、旧体制よりも民主的で人民の生活を改善するものであることが実際に体験できることによって、それはより強力なものとなって旧権力を打ち破るわけです。
以上、私の言葉で述べてきましたが、おそらく川上氏が次のように述べたこととほぼ同じことだろうと思います。
歴史上、近現代史に限らず、「革命」といえるような大変革──政治革命に続いて、経済的社会的諸制度の変革も含めた大変革が、「なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力」なくして成し遂げられた例を私は知りません
ただ正確に言うならば、旧権力による「なにものにも制限されない」、旧権力による「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない」という限定をつけるべきでしょうし、権力が暴力に依拠するのは当然であるがゆえにあえて「直接暴力に依拠する」という修飾は不要ではないでしょうか。
「議会を通じた革命」では、共産党が政権をとってはじめて新権力のそれもおそらくごく一部の政策が実現をみるだけであり、新権力の実際の魅力を人民が体験することはなかなかできません。また、共産党の側も権力をとるまで、新体制の青写真を描くことができません。それゆえ、何らかの新たな権力機関となるものの創造を前提としない「議会を通じた革命」とは、いつまでたっても実現できないものにみえてしまいます。
洗練された?北側先進国であれ、赤裸々な暴力支配の南側諸国であれ、革命には革命勢力独自の権力機関の創造(別の言い方をすると権力として被抑圧者を組織する)が必要だという点には変わりがないと考えますが、どうでしょうか?
結論を言えば、先進国における「議会を通じた革命」はありうるかもしれないが、それは前提として革命側の権力機関の創造をなくしてはありえないということになりましょうか。
次はいつ投稿できるかわかりませんが、統一戦線についてまた検討してみたいと思います。