1、昨年の「憲法調査会」の設置以来、憲法改正が具体的なスケジュールに遂に入ってしまった。現在この改正の中身をめぐって、最右翼の「9条改正」から、中間派?の「新しい権利の追加」まで、様々な思惑をもって議論が成されている。
2、中間派?がいっている「現在の憲法は50年前に制定されたものであって、その後の様々な社会状況の変化にともなう新しい権利に対応していない、従って、それを憲法に追加するために改正を行う」という議論は、現実的にどのような役割を果たすことになるのだろうか。彼らが言っている「新しい権利」の具体的な中身は、環境権、プライバシー権、情報公開=知る権利、などであると思われる。しかしこれまで、これら権利が、原理的に憲法違反であると司法によって判断されたことがあるだろうか?もしあるならば改正は必要かもしれない。しかし現実にはこれら諸権利は、現行の憲法に規定されている「幸福追求権」や「表現の自由=知る権利」などによって十分に保障されうるものと解釈されている。「憲法改正をしなければこうした権利を守ることは出来ない」というロジックは、やる気のない政治家の責任回避のたわごとである。
3、では、彼らの本来の目的はどこにあるのか、それは、さしあたり憲法改正をやりやすくするということであると思われる。憲法改正を行うためには、先ず国民投票法を国会で制定し、憲法改正を発議し、国民投票を行い、その過半数の賛成を獲得することによって、はじめて達成される。この面倒くさい過程の間の、どこかでつまずけば、当面の憲法改正は事実上不可能になる。したがって失敗は許されないわけだが、現在の日本には弱くなったとはいえ改憲反対勢力は存在しており、改正への国民的な支持が、特に9条については、必ずしも得られる保障などない、したがって危険な賭けになる。故に、「新しい権利」という一見くちあたりのいいものを提起し、国民投票法の制定を確保し、そして改正投票を一度行ってみることで、その地ならしをしようとしているのである。要するに、右派も中間派も、そのやりかた、速度はちがっていても、めざすものは結局同じ、国家の向かっている方向と憲法が桎梏になっている唯一の条文ー第九条ーの改正なのである。
4、7・8年前だったか、前田哲夫、浅井基文らによって「平和基本法」構想なるものが発表された。これは現状の自衛隊の存在をさしあたり承認し、その漸次的な縮小をはかることを目的として、「基本法」を制定するというものであった。彼ら自身はもちろん「左派」であり、現状の彼我の力関係上(当時の湾岸戦争やPKOでの国際貢献イデオロギーの優位状況)なんとか歯止を賭けようとしてこの提案を行ったわけであって、その意味では「良心」からのものであった。しかしそれが現実的な役割として果たしたのは、詮議民主主義勢力による「憲法を守れ」という一枚岩の団結にひびをいれ、あたかもこの「基本法」の制定によって歯止がかけられるかのような幻想を与えてしまっただけであった(後に浅井はこの提起について反省している)。結局、9条改正を望む側が改憲を提起している限り、それに抵抗する側が、法律・憲法をいじってそれに対応しようとするのは、相手方の意図に乗っかるような役割しか果たさないのである。対抗的な運動なきところに前進はないのである。
5、では反対する側のオルタナティブは、「憲法を守れ」だけでいいのだろうか?それは誤りである。何故なら現実には憲法9条が存在しているのに自衛隊はあるし、海外派兵も行われているのである。法解釈など力関係によってどうにでもなってしまう。求められるのは、こうした憲法違反の状況に対する根源的な反対運動の旗をかかげることである、つまり、本当に自衛隊が必要なのか、「自衛」なる問題が、現在の日本において本当に「差し迫った危険」として存在しているのかということへの疑問の提起である。この点に関しては、我が共産党も現在曖昧模糊としておりふがいない限りである。超大国日本に侵略的な行為を行うことが、現在の国際社会の状況の中で、侵略する側にどれだけのメリットが果たしてあるのか。そもそも第二次世界大戦後に、先進国が戦争を仕掛けることがあっても、先進国が侵略されたことなど一度もないのである。我々は常に戦争を仕掛ける側の国であり、しがたって我々自身が平和国家を建設し、核兵器の廃絶の先頭に立つことこそが、国際社会の安寧秩序を守る上でも最も効果的な、最も現実的なオルタナティブなのではないだろうか。