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党員用討論欄

批判者のモラルの問題

2000/9/16 雑草、20代、ひみつ

 「雑草」は、今の日本共産党の事実上の右傾化路線には批判的だし、民主集中制の名の下による党内民主主義の権威的抑圧状況にも大きな憤りを感じている。しかし、最近の共産党(最近だけでもないが)の一部にある傾向については、おおきな違和感を感じざるを得ない。
 その最も腐敗した傾向として現れたのは「現代」今月号に掲載された「金子某」なる人物の文書であろう。この中身に関しては先日の「赤旗」で的確な批判がなされているのでおくとして、その論理は、まさに個人的な弁明、自己正当化の道具として党批判を行っているというものである。そこには「党内民主主義」の希求という、もっともらしい言説がなされているが、如何なる意味でそれが今の共産党において必要なのか、そして自分はそこに如何なる責任を果たしていくのかという決意も情熱も感じられないものである。
 こうした「批判者の側の自己責任」の欠如というのは、この金子某ほどではないが、すくなからずその他の議論でもみられるものである。新日和見主義問題における被害者がこの間行っている議論にしても、(もちろん彼らの対する党の対応は決して許されるべきではないが)自覚的であれそうでなかれ、自分たちが共産党にある種「異端」と、目されるような思想をもち、且つ自分たちが共産党系団体の幹部であったことの責任、そしてその思想を共産党に影響を及ぼせなかったことの責任、が欠如しているのではないかと思われる。この責任というのは、共産党に対する責任ではなくて、日本社会の変革に対する責任である。日本では新日和見主義だが、当時先進国の間である共通の感覚と課題を担って登場した「新しい社会運動」、これに対してどのように共産党が対応したかが、その後の共産党の青年運動、大衆運動への影響力や、党内民主主義の問題に決定的なインパクトをもたらしたということは、好著「イタリア共産党を変えた男」の著者である共産主義再建派イングラオの証言をみても明らかである。
 確かに宮本顕治は最悪だったかもしれない。しかし最悪の彼をそのままにしてしまった一端には、反対側の自覚の問題という意味での責任はあるのではないか。これを自覚するということは、革新陣営の内部にいる者に対する批判の最低限のモラルなのではないか。
 安易な共産党批判者の共通点は、党内民主主義に対しては批判するものの、今後、共産党や、それいがいの左派陣営が、日本社会の中で如何に変革の立場を形成して行くべきなのかということについての展望と可能性を追求していくという事への言及は余り見られないことである。従ってその清算的な姿勢は、革新陣営に対して何ら資するものではないとおもわれる。今の共産党を乗り越える「野蛮な情熱」は、オルタナティブへの最大限の希求なきところには意味をなさない、「さざなみ」はそういう場であってほしい。