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党員用討論欄

遂に「規約」から消えた社会革命、前衛概念と党中央の「構造改革」化

2000/9/20 日本共産党ってこんなものだったのか会議、20代、学生

 次期22回党大会に提案される、党大会決議案の「規約」改定について私見を述べたいと思う。
 まず、現行規約前文で「日本の労働者階級の前衛政党であり、はたらく人びと、人民のいろいろな組織のなかでもっとも先進的な組織である。」が改定「規約」では、「日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、民主主義、独立、平和、国民生活の向上、そして日本の進歩的未来のために努力しようとするすべてのの人びとにその門戸を開いている。」とその前衛党的性格を事実上放棄している。そのかわり、「日本国民」なる、概念上きわめて曖昧にした用語をわざわざ使い、ブルジョア性をヨリ的確にした。
 次に前文「日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧から解放するために、アメリカ帝国主義と日本独占資本主義の支配とたたかい、人民の民主主義革命を遂行して独立・民主・平和・中立・生活向上の新しい日本をきずき、さらに社会主義革命をへて日本に社会主義社会を建設することにある。」が、「終局の目標として、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会の実現をめざす。」と変わり、アメリカ帝国主義と日本独占資本との「二つの敵」論が欠落し、「人民の民主主義革命から社会主義革命」の連続的な「二段階革命」論もどこかへ吹き飛んでしまった。
 いったい、「終局の目標」と化した、「共同社会の実現」とは、いつかきっと未来の人間達が「やってくれるだろう」式のものに棚上げされた。これでは党内に幅をきかす、ブルジョア的・実証主義的・ドブ板的集団を益々勢いづかせるばかりでなく、わけの判らないまま「入党」してくる、非=マルクス・非=社会科学分子を無条件的に承認させる根拠を与える。
 ただでさえ、昨今の民青どものテイタラクを、いっそう加速化させ、無気力・無能化を放置するに等しい。「マルクス」と言えば、「個人の一語一句をドウタラコウタラ・・・個人名を付けていない」などの意味不明の「反論」らしきものや、「『資本論』とか、マルクス経済学」と言ってみれば、「もうそういうものは、やっても・・・」とか「○○君は経済に強いからね」と開き直り、社会科学研究会を立ちあげよう、といえば「あれはトロツキストがやること」と即座に否定され、握りつぶされる始末である。
 やはり「科学的社会主義を理論的な基礎とする」ではなく、ヘーゲル=マルクスの存在主義をまさに、「概念的に把握する」事の重要性を掴み取るべきだと思う。
 最後に「民主集中制」である。改定「規約」では「(1)党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める(2)決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である(3)すべての指導機関は、選挙によってつくられる(4)党内に派閥・分派はつくらない(5)意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」などと言葉使いに変化をみせているが、実態としての組織は、「意見の自由」どころか「容姿・ファッションの自由」(!?)すらないのが厳然たる事実で、最初から結論や方針は、高圧的に無理やり押し付けられるだけである。
 「すべての指導機関は」一般党員や、不当に排除された党員から隔離された密室で独断的かつ私的利害関係にそくしてのみ「つくられる」のであって、けっして「選挙によって」作られる訳ではない。立候補も「自己推薦」でやったが、「個人の野心でやるものではない」とか「役員の○○さんの事を考えろ」とか集団で怒鳴られ、仕方なく「辞退」した経験がある。
 「意見がちがうことによって」度々暴力沙汰や、シカト・連絡の遮断・虚偽の噂を集中的に流す等、個人の人格や生活権をことごとく破壊してきた実体験がある。また、「民主団体・経営」「階級的・民主的労働組合」内部で、実質的な「個人的分派・集団」をカオス的に形成されている事実もあり、これは「民主集中制」の壮大な自己矛盾の顕著な現れである!
 それにしても、従来まがりなりとも『評論特集版』の党大会号外で、党員個人の「意見」を表明できたものが、「休刊」を理由に出来なくなっている事に強い怒りを覚えざるを得ない。日本共産党は公式にこうした意見表明の場を、用意すべきでそうでなければ、益々指導部独裁・専従者専制が強化・増殖されるだけである。