今回の市川氏の不倫を口実とした除名に関し再論したい。既に本サイトにおいても指摘されているように、マルクスの婚外子問題に限らず、革命家に不倫ないしは女性の利用は珍しいことではなかった。小林多喜二の「党生活者」における女性の利用や、ゾルゲの先頃亡くなられた現地妻岡田花子氏の例など枚挙にいとまがない。無論これらは、現代日本社会における社会道徳からすれば遺反である。しかし考えてもみるがいい。多喜二やゾルゲのような危険な非合法任務に生命を賭して極度の緊張状態の中で従事している者が、自分の前に必ずしも思想的同志でなくとも自分の立場を理解してくれる女性が現れたなら、これにすがろうとするのは無理からぬところである。彼らが如何に意志強固な人物であろうと、やはり弱さも持った人間なのである。道徳律で彼らを批判するのは、傍観者のたわごとである(無論進んで肯定しろという意味ではない)。現に「党生活者」に問題の女性のことを記述していること自体、多喜二がこのことに関して何等の良心の呵責を感じていない何よりの証拠であろう。「革命家と性」ということ自体、私は十分に研究に値するテーマであると思っている。
さて今回の市川問題である。無論現代日本の平時においてなされた不倫は批判されて当然である。しかし私がいいたいのは、このことによって市川氏がこれまで成された業績が全否定されてはならないということである。労働者出身幹部らしく、歯切れのよい演説と精力的な国会議員としての活動は大衆政治家の名に相応しいものであった。又氏は中央委員会きってのスポーツマンとしても活躍され、以前参加した赤旗スキー祭では氏の見事な脚前に驚かされたものであった。不破、志位一派がかつての野坂や袴田の時のように、「日本共産党の80年」で、氏が昔から如何に破廉恥な奴であったかを延々と書いて党にとって都合の悪いことの責任を氏になすりつけて事足れりとするなら、今度こそ「3度目の正直」で広範な党員、支持者、国民の反感が自分達に直接向かってくることを思い知らされることであろう。大体問題があったからといって、議員年金があるとはいえ、直接党破壊行動をしたわけでもない77歳の老人の生活権を奪うような党が「ヒューマニズムの党」などとは到底いえない筈である。