私は憲法学者ではないので、難しい理屈をこねることはできませんが、この度の自衛隊活用問題での党の憲法解釈?(解釈の範囲を超えていると思いますが)には永年党員の私でも違和感を感じてなりません。この間党中央は、憲法9条をめぐって三つの流れがある、として明文改憲,解釈改憲、憲法9条の断固とした擁護をあげ、主な政党では共産党だけが憲法9条の断固とした擁護者だとしています。自衛隊にたいしても違憲という立場には変わりがないといっています。確かに党中央がいうように、「自衛隊は違憲である」という命題を捨ててしまってはたたかいようがないし、運動の方向性もみえてこないと思います。しかし、これは、あくまでも運動論として、野党として与党の憲法違反の状態を追及するためのいわば政治論的な憲法論だと思います。政権に入り現実に憲法に基づき行政を執行して行く場合、仮に党中央がいうように有事や大規模災害の場合は自衛隊を活用するケース、もっと切迫した問題として防衛関連の予算案を提案するケースなどはどうなるのでしょうか。党中央は、「自衛隊の段階的解消という政策をとる以上は憲法との矛盾が一定期間存在するという認識<・・・(文字化け)・・・。
内閣としての統一見解をそのときの野党から追及されて「違憲と認識しつつ活用します」などといった、おかしな答弁ができるのでしょうか、最終的には裁判所が合憲、違憲は判断するにせよ公務員には憲法遵守義務がある以上、政権として違憲と認識したものを使うことができるとは思えません。仮に「政党としては違憲ですが,政権としては合憲」などと答えるのであれば、かつての社会党のようなことになってしまうと思います。有事活用に固執するならば憲法の規範上、合憲解釈をするか、明文改憲をするかしか政権としては選択の余地がないのではないかと思います。ところが我が党はその両者も選ばずに行おうとしています。
憲法との関係からいえば、私としては、自衛隊を即刻解消するか段階的解消とするならば、(有事活用は,暴論として)防衛予算の当面の計上などは、限定的に一定の枠をはめ、軍縮のプランを示すなどして合憲解釈をするしか方法がないように思えます。
どうも、党中央の憲法9条擁護論は、野党としての政治論的スローガンとしての憲法論の色彩が強く、政権に入って自らが憲法の規範を遵守することが求められ、国民から日々監視されている側にたっていることを忘れているようなきがします。
憲法は、為政者の権力濫用から国民を守るために主権者である国民の名によって制定したもののはずです。いくら党が「私たちだけは国民を裏切らず憲法を守りますから信頼してください」といっても憲法擁護者がすべて共産党支持で、共産党を信頼しているわけではないことは自明の理です。いくら憲法の完全実施に努力するといってみてもその過程で「違憲のまま自衛隊活用もあり」などとする態度は、ことさら「国民の党」を強調している党にしてはあまりにも思い上がりではないでしょうか。政権に入ることは、主観は別として、自らが為政者にもなるという側面を十分認識しなければならないと思います。
志位委員長は4日の党旗びらきのなかで、ある地方紙に載った、党大会決定を「平和実現する大きな贈り物」と題する投書を得意げに引用していました。この投稿者にとやかくいう立場にはありませんが、この引用のなか(ちょっと長いので全体の文章を知りたければ5日付けの赤旗日刊紙などを見てください)に「その政策を遂行する過程で、自衛隊の活用もありうるとしたことなどたいしたことではない」云々というくだりがありました。これを得意げに読み上げる志位氏。彼(志位氏)自身の言葉ではないといえ、このような部分まで「丁寧」に引用する志位氏の憲法感覚には、率直にいって落胆してしまいました。党中央は、法規範としての憲法問題をごまかさずにどうどうと国民の前に明らかにすべきだと思います。
余談ですが、党旗びらきの文章のなかに、党の外交政策について、アメリカ筋などからも「ライトウエイ」(当然の筋道という意味らしい)の評価を受けているとのくだりがありました。北朝鮮外交についての党の(日本政府としてのとるべき態度としての)提案は支持できますが、この「ライトウエイ」が「右への道」-「右転落」に見えてきてなならい寂しさを感じたのも事実です。