市川氏の問題については具体的なことはなにも知りませんし、パーソナルな問題(プライバシーの言葉の使い方が日本ではおかしいと考えていますので、意識的に使いません。企業秘密などもプライバシーと呼ぶのですから、日本で言うプライバシーはパーソナルな問題と言うべきでしょう)のようですから知りたいとも思いません。週刊誌の記事にしてもどこまで信頼すべきかもわかりませんので読んでいません。従って市川氏の件については判断材料がないとしか言いようがありません。
しかしながら、巷間伝えられているように、愛情の問題であるとするならば、組織的に排除の対象とすべきではないと考えます。日本共産党が政党である限り、道徳とか、モラルに類することを云々すべきではないでしょう。一般論として道徳論を展開することや将来の社会における道徳的変化について論じるのはあり得ることです。しかし、パーソナルな部分に踏み込んで、処分を行なうのは言語道断です。
昔から規約には品性という表現がありましたが、その品性は政治性の問題であるべきでしょう。法律に基づく妻と愛情に基づく愛人、現実的にこの問題を考えたとき、資本主義の下での婚姻は男系による財産の相続を制度化したものであるという、根源的なところを認識すべきでしょう。その限界の中で一対一の愛情のあり方も進歩してきたのだと私は認識しています。
進歩したとは言え、あくまで資本主義の所有関係における制度ですから、愛情とは別個に考える必要がありますし、制度と現実の齟齬の中で多くの人間の苦悩があるわけです。このように考えたとき、共産主義社会をめざす政党が、資本主義の制度の限界を無視して、その構成員を資本主義の制度を基準として排除するのは誤りだと考えられないでしょうか。
そもそも、日本における婚姻を諸外国と比較しにくくしている「戸籍」制度についても考える必要があります。簡単に言って、天皇と臣民としての関係を制度化したものであり、天皇に税金の形で労働を収奪される制度であったわけで、その本質の残滓は今もあると言わざるを得ません。戸籍制度による婚姻の法律に反したからという処分であるなら、天皇制に屈したとも言えるわけです。もちろん、表向きにはそんなことは言わないでしょうが、日本共産党中央の右傾化、保守化の表れがここにもあると指摘できるでしょう。
私自身について言えば、法律的に女性の権利が保障されるべきであると考えて、無邪気に結婚していまいましたが、上記のような認識に到達してからは深い後悔の念にさいなまれています。真に愛情だけが二人を結びつける関係をなぜ選択しなかったのか、このように問いつめれば、様々な部分での自分の弱さが見えてきます。もっとも結婚制度を拒否したカップルでさえ、実際には愛情だけで結びついているわけではなく、子供やお金やと法律婚と同じ状態に陥っている例が多く、戸籍を拒否すればいいと言うものではありません。
かつて共産党員の間でもてはやされた田中美智子氏の著作にもありましたが、真に愛情のみが結婚の前提となる社会は、それ以外の結婚のあり方を経験しない世代が育ってからだとの見解にも一理あるのかもしれません。(ただし矛盾のある言葉だと思いますが)
いずれにせよ、愛情の問題は当人が解決(変な言い方?)すべきであって、組織が介入するなんてとんでもないことです。
ところで、この異見発表は規約違反でしょうか。愛情問題で、党が全国方針を決定したことがあるのかどうか、どなたかご存じありませんか。ひょっとして、自由と民主主義の宣言あたりがそれに該当するのでしょうか。もしこれが規約違反なら中央の方、指摘してください。以後、党の見解はこうだがと、断りを入れます。そうすれば党の見解が誤解されることもなく、この人の意見はあくまで個人的な見解なんだなと言うことが世間にわかり、異見発表を禁じた規約の精神に反することがなくなりますから。