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党員用討論欄

殺人未遂事件 (1)

2001/3/3 しんさん(辛酸)

 私は、1966年3月7日、××市消防署裏隣に構えた建設会社と共産党郡委員会の兼業事務所内において、共産党幹部「A」から頭部を強打され、生命危篤の重傷を負うという殺人未遂の暴力を受けました。(加害者は県委員会直属の幹部。私も党員)
 殺人未遂事件の発端は、前夜、支部(細胞)会議で「A」に指示された仕事が、当日従業員の「K」君の持病であるメニエ-ル氏病の目眩が発症してトラックを運転するのは危険であり、車も故障して修理に手間取り結局出来なかったという報告を受けた「A」が激高、「K」君に殴る蹴るの暴行をはたらいたことから始まりました。私は三ヶ月前に就職したばかりで仕事の段取りも能く分からず、車の免許証も取得していませんでした。この若い従業員から仕事を習っている段階でしたが、年長者ということで責任を持たされていたと思います。
 なぜ仕事が出来なかったかを冷静に事情説明をしている最中に、事前に古タオルを巻きつけて準備していた鉄棒を取り出し、問答無用と暴力を振るったのです。
 仕事の遅れは半日もあれば取り戻し、会社に重大な損害を与えるような深刻なことではなく、それよりも私が若い従業員を庇ったことが反抗的に見えたと言うことです。
 5坪程度の狭い事務所には、党員が四人居合わせて成り行きを伺っていました。その中の「B」は支部(細胞)長で、「A」は「細胞長を立会人に呼んでおいた。」「党の決定を破ったお前を今から制裁する」と宣言しました。
 「A」は「わしに楯突く奴はどいつもこいつもぶちのめすぞ!」と鉄棒を振り回して周囲を威嚇し、私に「お前の言うことはそれだけか。制裁してやるからそこに土下座せい!」と命じました。そして「ベトナムでは人が死によるのだ。お前のような役に立たない奴は殺してやる」と吠えて撲ったのです。
 それまで「A」と思想的、宗教的な対立や感情的な争いは一切なく、むしろ党の先輩として敬意を払い、上下関係には従順すぎるくらいに従順でした。冷静に経緯を説明している無抵抗の人間(同志)を問答無用に撲ったのです。
 傍にいた党員は、差し迫った危険が発生しているにも関わらず暴力を阻止しませんでした。18歳になる女性事務員は恐怖で震えていたと言います。
 頭部が撲られた時「グシャ」と割れる音がしたと目撃者が供述しています。(自由法曹団所属の弁護士事務所記録保存)
 その場に昏倒し意識不明に陥った私を、隣接の消防署の救急車を呼ばずに、百米離れた個人病院に数人がかりで引きずっていきました。(私の身長180センチ 体重80キロ)
 病院長が「どんな状況で、何故このような重傷を負ったのか」を確かめようとしましたら、彼らは「本人が鉄棒を持って喧嘩をしかけ、逆に相手から撲られたのだ」と黒を白とする重大なウソをつきました。 病院は、てっきり暴力団の出入りか抗争ではないかとトバッチリを恐れたと言うことです。
 女性の事務員から知らせを受けて妻と老母が駆けつけた時は、病院としては処置の方法がなく、頭を氷漬けして、ただベッドに寝かせてあったそうです。
 地区党の最高指導者と地区委員が妻や老母よりも早く病院に来ており、院長に「警察に届けないように」と頼み、目撃者の党員には「警察の調査が始まったら、従業員の○○が社長に喧嘩をしかけ、自分から転んで机の角で頭を強打した」と偽証をするよう命じました。
 地区党の指導者は家族に真相を一切教えず、入党三ヶ月の妻に「党の組織防衛のため、警察の調査に応じてはならない。○○の親族や友人、知人に絶対知らせてはいけない」と強制しました。
 地区副委員長を始め民青あがりの若い党員が病院と周辺に張り込み、妻と老母の動向や病院を24時間体制で監視しました。(副委員長自身が告白)
 数日後、息を吹き返したものの危篤状態が長く続きました。言語障害で言葉が出ない。自力で排泄が出来ない。脳圧が高くなり、割れるような頭痛と悪夢で錯乱状態。生死をさまよっているようなときに加害者「A」の女房が病室に押しかけ、看病中の妻と老母に「あなたの息子は自分で転んで怪我をしたものであるから、警察に通報しないで貰いたいと院長に頼んでくれ」と強要にきました。そして老母の着物の袖を掴んで院長の所まで連れて行きました。老母は「自分の息子が生きるか死ぬか分からない時に、何でこんな嘘を言わされるのか。私は他人さまに嘘をついたことはありません。ひどいではありませんか。」と悲痛な抗議をしたと言うことです。
 党に関与する医師二人を地区委員長が伴い、容態を確かめにきました。院長にも会って専門的な意見交換をしています。
 ただならなぬ騒動に病院は「傷害の原因が不審であり、本人がいつ死亡するかわからない状況」であったため、病院の義務として警察に通報しました。
 通報で警察は即時、家宅捜査とか事情聴取を開始することは常識です。どんな取り引きがあったか確認の方法がありませんが、加害者「A」は一日だけ警察署に留置されただけです。身元引受人となった党員「C」が語ったところによれば加害者は「警察は罰金を30万円くらい払えば済むだろうと言った。だから○○がどうせ賠償金を請求してくるだろうが、わしは一銭も払ってやらん」とうそぶいたそうです。警察は「加害者が必ず黙秘をすると考えていた。徹底的にやろうと待ち構えていたが、スラスラとゲロしたので早く釈放した」と語ったと言います。
 加害者「A」は県委員会直属の有力幹部党員であり、党の財務に深く関わり、友好団体の最高責任者でありました。選挙の際は、自分の事務所や自動車を共産党に貸与したり、少なからぬ政治献金をしており、党内でその権勢を誇示していました。そして共産党の影響が強い病院や団体の建物の防火施設、避難機具納入、施工管理を一手に握っていました(現在も)。
 当時は公安警備警察、公安調査庁が徹底して共産党を撹乱する事例が多発していました。殺人未遂事件を弾圧機構が見逃す筈がなく、弾圧(スパイ潜入も)の介入の口実を与えたと考えるのが党員の常識です。共産党幹部の犯罪資料を永久に弾圧機構が温存していることは必然です。
 意識が混濁して正常な判断ができない、面会謝絶中の病室に地区委員「D」はたびたび出入りして「党の組織防衛のためには警察や新聞記者がきても絶対に対応してはならない。もし、どうしても断りきれない場合は、自分から転んで机の角で頭を強打したと言うように」と命令しました。
 死人に口なしと言うことがありますが、彼ら指導者は私の死亡に備えて、事件の隠蔽工作の重要な証拠となる本人の偽証を生前にさせようと図ったものです。
 県党と地区党の指導者は「敵の土俵で争うことは党組織を破壊する」という理由で加害者を告発することも、証言することも、裁判に出廷することも禁じました。事情を尋ねに来た警察官や裁判所職員は「真実を言わないと、将来きっと後悔することになりますよ」と説得しましたが、私は命令を忠実に守り偽証し続けました。
 地区委員「D」は「こんな重傷では、例え生命を取り留めたとしても、社会復帰はできないだろう。その時は我が党が全責任を持たないといけない」と妻を納得させていました。
 一ヶ月も経過して初めて事件を知らされた友人が「党にかけあって加害者から補償金を取ってやる。しかし、結果がどうなっても承知するか」と申し出てくれましたので全面的に任せました。
 当初は、自由法曹団に属する弁護士に依頼していましたが、示談の席上で加害者「A」は「自由法曹団の弁護士は共産党の弁護士だろうが。○○の弁護をするなら、わしには公安調査庁がついている。昨夜も公安が来ている」と弁護士を脅しました。
 地区副委員長は、別の自由法曹団の弁護士に電話をかけ「○○が『A』に法外な補償金を請求しているそうだが、いったいどうなっているのか」と圧力をかけています。(「A」の代理人 支部長の証言)
 加害者は示談に応じて、賠償金は三ヶ月の入院費などを差し引いた金額十五万円を支払う。退院後に後遺症がでた場合、誠意をもって話し合いに応じる。と約束しました。しかし、初めから示談を実行する気はなく賠償金を払いません。払えないのではなく(ビルを建築し事業拡大している)、前述したように計画的なものでした。
 三十五年前の貨幣価値としても、人の命、人生を破滅させたことの代償としての金額が高すぎるのか?安すぎるのか?法外な請求であると圧力かけた共産党の指導者の人間性が改めて問われます。
 前述した地区委員「D」は「我が党は同じ志を持つ者の組織だから、社会復帰できなくても我が党が○○の責任を持つ筋合いではない」と「我が党が責任を持たなくてはならない」と言った発言をいとも簡単にホゴにしました。
 加害者「A」の女房は、依然として面会謝絶の容態が続いている病室に強引に押し入り、家族が懸命に止めるのも無視して私の頭のところで「いつまで寝ているのか!イライラする。院長がもう良くなっていると言った。早く起きんかい!」と皮靴で床を踏み鳴らし罵声を浴びせました。私の容態は、激しい頭痛と食欲不振、言語障害、半身不随などで、起き上がることもできなかったのです。
 直後彼女は、県の婦人団体の県本部長に格上げされ、N中央委員会議長の大講演会の司会に抜擢されました。
 加害者が入院代を払わないので、治療半ばで退院を迫られました。結婚して三ヶ月目で倒れ、私には蓄えがなく、健康保険も無かったため治療の継続ができなく、ただ自宅の窓の無い部屋で臥しているだけでした。家族に過重な重荷を負わせました。
 精密検査の機能を備えた総合病院で検査を受けておいてほうが良いと言う知人の助言で、労災病院脳外科で診断を受けました。レントゲン写真には粉砕骨折し陥没した頭蓋骨が写し出されており、医師は「ここでは誰が加害者か、被害者の問題ではない。これはオシャカになっているではないか」と声を荒げて言われました。加害者の代理人として「怪我はたいしたことはない」と言い続けていた支部長「B」が蒼白になったことが印象的でした。
 診断をされた医師、それに掛かりつけのホ-ムドクタ-は共に「将来、外傷による後遺症で精神障害がおこらねばよいが.」と危惧されました。

「診断書」 (病名)頭部外傷Ⅲ型。左側頭部陥没骨折。頭骸骨線状骨折並びに右片麻痺
上記の疾患を有しており、左側頭部には1.5センチの陥没骨折を認め、脳挫傷を合併していたと思われる。今後継続観察の要がある。

昭和41年7月18日

○○労災病院 医師 ○○○○ 印
 

<編集部コメント>この投稿の真偽について編集部として判断することはできませんが、その内容の具体性と論旨の一貫性からして、誹謗中傷のたぐいではないだろうと判断しましたので、掲載させていただきました。