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党員用討論欄

殺人未遂事件 (3) 暴力体質とイジメ体質

2001/3/9 しんさん(辛酸)

★ 暴力を批判せず、むしろ容認

 [労働組合委員長]暴行事件は、県党の暴力主義的体質を象徴したものでした。大企業工場の通用門に大きな樽(募金を入れる)を置き、カンパを呼びかけていた民主青年同盟と共産党員に企業内組合が立ち退きを求めました。青年たちが耳をかすはずがなく、組合が樽を撤収(収容)したことが事件の始まりでした。
 青年たちは、組合長が夜、自宅に帰り浴衣に着替えて寛いでいるところに押しかけ、口論の末に組合長を力づくで戸外に引きずり出し、殴る蹴るの暴行をはたらきました。浴衣をビリビリに引き裂いてやったと青年たちが誇らしげに話しています。
 警察が青年たちを逮捕し相当に厳しい取り調べをしたそうですが、完全黙秘で拘置所に送られました。暴れるので拘置所で皮手錠をかけられたと、英雄気どりで自慢ばなしをしているところに私もいました。
 当の青年たちは、共産党の幹部候補生として育成され、県党の指導者として重要なポストに就いています。この暴力事件を県党が隠蔽した疑念があります。県の党員はこの暴力事件を知らないのです。中央委員会が果たして知っているかも疑問です。
 県党には暴力を批判する姿勢がなく、暴力をはたらいた党員に自己批判を求めることもしないのでは、暴力を容認するとんでもない党に変質したと言えます。

★ 尋問はイジメであった

 町会議員選挙の直後、緊急の支部会議があると招集されて支部長の家に駆けつけると、県委員[W]と支部長[O]しかいません。不審に思って他の人はどうしたのかと訊ねると[O]が「今日はお前が党に協力しないので、お前を尋問する」と宣言しました。これは糾弾です。抜打ち(騙まし討ち)で呼び付けることは、規約上からも、他の支部員に秘密にしてやる手法にも重大な問題があります。
 「何故、お前は党に協力しないのか?」と二人に尋問されました。私は「選挙事務所に家を貸せなかったのは家族の死活問題に関わるからだ。党活動はビラ配りとポスタ-張りだけでない。私がこの町に来た時は、党員ゼロ、読者ゼロ、民商会員ゼロ、商工新聞読者ゼロの空白町であった。妻と相談して、民商の事務所に配りきれないで山積みになっている各種の印刷物を町内に配ろうと、営業が終わった夜8時ごろから12時過ぎまで毎週日曜 に配ったものだ。お陰で町内の地理がよく分かった。党に命令されてしたのではなく全くの自主的な活動であった。健康を語る会を手始めに、保育所運動、親子劇場、商店会、自治会の結成に関わり、推薦されて全て役員をしている。民商の支部も結成され支部長をしている。共産党議員は私たちが基礎を築いた上に、ただ乗っかって楽々と初当選したのではないか?」。今、保守層は『共産党は猿まわしの猿じゃ』と嘲笑している。共産党は初 議会で『宴会政治を止めよう』と立派な発言をしたが、夜の町長と議長招待の料理屋で開いた宴会にチャッカリ出ているではないか。二次会にもしっかりついてきてご馳走を鱈腹たべている。議会期間中の昼食に出される料理屋の弁当は、社会党は自宅から弁当持参で立派なものだ。共産党は毎日美味そうに食っている。と毎日のようにあちらこちらで聞かされて、恥ずかしくてたまらない。」と反論しました。
 驚いた県委員「W」は「その話は本当か」と「O」を問い質しました。Oは私を前にしてウソが言えず、真っ赤な顔をして口ごもるばかりでした。「弁当代を払っているのか?」と訊ねられると「議員報酬から払う」と弁当を食べていたことを認めました。「それはいけないではないか。○○の話とあんたの話と全然違うではないか」と困惑したようでした。Wが県党常任委員会に報告した痕跡はありません。蛇足ですが、弁当代は議会事務局がどうしても受け取らない。という理由でウヤムヤになりました。

★ 戦後処理とは!

 住民運動の中から親しくなった労働者が入党を希望しました。友人と私が推薦人となり申込書を党地区委員会事務所へ提出に行きました。「E」「D」などがいて一瞬怪訝な様子でした。所用が終わって帰ろうと外に出ますと「D」が追いかけてきて「あんたとの戦後処理がまだ終わっていない」と告げました。彼らは、私を「彼らの敵」と位置づけ「戦争」をしているのだと改めて思い知らされました。
 彼らは、叩き上げの帝国軍人出身であり、皇軍の体質そのまま入党したものです。年功で共産党幹部になったものの、民主主義者ではありません。軍国主義者が官僚主義、命令主義の共産主義者に衣代えをしたにすぎません。県党の「50年問題」の解決はほとんどなかったと思います。

★ 保険医協会における異常なイジメ

 1991年、アルバイトとして保険医協会に雇われました。事務局長「R」は共産党員です。ある日、民医連の「S」が所用で協会を訪れました。彼は私の顔を見て顔色を変えました。事件の当時、彼は「E」の配下で私たちの監視にあたっていたのです。ここでも新たな排除が始まるという予感が的中しました。
 「自分はAに大変世話になっている。党員は○○が悪いから撲られたと言っている。そんな○○がなんでここにいるのか」とSが言っていたとRが告げました。
 それ以来、Rは「印刷機を壊した」「パソコンを壊した」「対応が悪いから郵便局員が集荷にこない」「発送漏れがあった」と全て私のせいにしました。
 印刷機はサ-ビスマンが来て油を注いだら動きました。パソコンは、容量より多い資料を当の本人が打ち込んだため動かなくなったためで、メ-カ-のサポ-トで簡単に作動しました。郵便局に出向き庶務課長と会い事情を聞くと「春闘で職場集会があり利用者に迷惑をおかけしています」いうことでした。
 Rは、営業マンやアルバイトの女性数人が集まっているところで「あんたは、こんな風にして共産党に頭を撲られたのよ-」とバットを振る真似をして嘲笑しました。事情を知らないみんなが笑うと調子に乗って何回もしました。
 普通の会話をしている最中、なんの脈絡もなしに「わしは護身用に包丁を持っている。」「わしに逆らう奴は滅多突きにしてやる」と不気味な発言を繰り返すようになりました。「あんたも放火に気をつけたほうがよい」と言い出したので身の危険を感じ、地元の地区委員会と県委員会に相談しました。県委員会常任「U」は「お前の話は党組織を乱すものである。常任委員会でお前の処分を考える」と威圧しました。「まだ文句があれば、中央委員会の訴願委員会があるから、そこへ訴えればよい」と言いました。
 1994年6月、いつものように事務所に出ると、私の仕事の対象である印刷物がありません。どうしたのかRに尋ねますと「わしの高校生の息子がアルバイトをしたいと言うので家に持ち帰った。当分仕事はないから帰ってもよい」というので私物をまとめて帰宅しました。共産党員が共産党員をイジメて不当な解雇をしたものでした。

★ 民商事務局長による排除の実態

 1987年10月、所属の民商が新しく独立分離した祝賀会の席上、来賓の一人から「あなたは新事務局長『V』から排除されますよ」と教えられました。「V」は共産党員です。
 彼は、前任の事務局員当時、民商支部長の私の家に若い事務局員が事務連絡で来ました。彼は家庭で起こった問題で悩んでいると話し込みました。「V」がそれを知り、若い事務局員を激しく責めました。党の通達を「V」が忠実に励行しようとしたからです。若い事務局員はそれが原因で退職しました。
 しかし、事務局長として支部役員会に出席しなくてはならず、「V」と私の間に違和感が絶えずあったことは否めません。
 私の家では、営業が終えて集まる人々のため、一時の腹収めの軽食を用意しました。しかし、Vは出された食事に一切箸をつけず、お茶も飲みません。いくら家族が勧めても頑なに断ります。度重なる失礼を超えて無礼な態度に妻が涙を流したことがあります。
 「O」の議員選挙の際、「出陣式に来なかった。業者党員のくせになぜ出てこなかったのか。!」 という非難の電話が集中的にかかってきました。「Vの差し金で電話をしていることはわかっている。事情も分からないで非難攻撃することは止めろ」とVを名指しすると黙ってしまいました。業者党員を動かし組織的に電話をさせたものです。
 1994年、彼らは秘密に新役員会をつくり私の排除に成功しました。扇動者として利用されたのが「アメリカがヒロシマに原爆を落としたことは正しかった」とテレビニュ-スで発言した人物です。
 規約上、大変な問題がある新役員会結成に事務局長「V」が関与していたことは明らかです。後日、扇動した本人が「○○に反旗を翻したことは間違いなかった」と妻に話しています。

※ 県党、地区党が「申し送り的」に通達した指示が、三十余年を経過した現在も一人歩きをしています。